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おやすみなさいの前に

2023-03-26


身体のことをひとつひとつ眺めると
どれも驚くほど、神秘的である。


体の部分1つで、ずっと語れると思う。
(カフェでコーヒー飲みながらではなく、間違いなく、飲み屋で語らいたいことかも。)


体の事、私は医療系でないにしても、栄養の専門を学んだ経緯があり、プロフェッショナルな薬用植物の学びなどで、いろんな形で学んできている分野である。なので、すこしばかり詳しいこともあるし、かなり興味深い分野だ。

(ちょいとショッキングだけど→学生時代、実習としてとある大学病院へ、人体の解剖の献体を見せてもらいに行ったこともある。。)

たとえば、怪我をしたり、不調になったり、病になったりすると、それぞれが使えなくなることによって、『できて当たり前だったこと』を急に思い出して、あってありがとう!と私は突如、感謝祭のようになったりする時がある。



手は、何のためにあるのか
なんなのか

と、突然考えてみた。


手についての機能とか、骨格などは骨格標本なり解剖学の本などを見てもらいたいが、ここはそういうのを書くnoteではない。


手には、その人がまざまざと表れると思っている。

手の全体な雰囲気や印象もだが、手のひらには手相が刻み込まれているし、人生観が読める人にはわかってしまうんだから驚きだ。


手があってできることは、1日を通してかなりあるし、手を使っているからこそ、仕事が成り立っていて、お金を生み出すものであるんだ。

手に職、とは。まさしく!



手入れする

手伝う

手当たり次第

手間をかける

手を使う言葉は、いろいろある。


とくに、『手当て』

という言葉が、不思議だなと思う。


手当て、は医療の中では極めて原始的なものなんだ。そして、究極、だれでも出来る力が備わっている。

魔法ではない。

ごく自然なこと。

なんなんだろう?


たとえば、おかあさんが小さなこどもに、思わず手を当てて、痛いの飛んでけー。とか。

痛いの飛んでいくわけではないのかもしれないけれど、おかあさんなりの、痛みを和らげたい!という愛のカタチであって。

手のあたたかさ
波動
この、和らいでほしい。という愛のようなもの。


とにかく、純粋に、やわらかであたたかな気持ちを、手から伝えるというものなのかな。

なんて思った。

手としては、道具というわけではなく、伝導させるものなのか。


EGO-WRAPPIN'のある歌詞の中にも


   抱きしめるために 両腕が ある

というものがあったりして。

しみじみとする。

手。もとい、両腕。
抱きしめるは孤高なことだなと。

手にしても、腕にしても
なくてはわからないこと、伝えられないこと。
たくさんあるはずだ。


話が膨らんでくるけど。

画面を、通してでは決して伝わらないこと。

手から伝わる感触は

言葉を読む、聞く以上の
多くのことが伝わる。
伝えられるんだ。


ふーむ。

深いな。


今って

指先で一本で、何でもできてしまうようになっているから、手を使って何かを作るとか生み出すっていう感覚が衰えているような気がして、ほんとうに、ツマンナイなと思う。


人生、手を使い尽くしたなという、ところまでいきたい。がんばる。





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