60歳からのラブレターの書き方 その1
「何それ、ラブレター?」
オフィスで業務報告のメモ書きを机の上に置いたとき、彼女の突拍子もない一言に波流人氏は慌てて文面を見直した。「変」と「恋」を間違えたか、落書きでハートマークでも描いたのか。どう見ても数字が並んでいるだけだった。彼女を見返すと目元が笑っている。
「60のオジサンにラブレターなんてもらっても嬉しくないでしょ」
「そんなことないよ」
そもそも何の根拠があって波流人氏がラブレターを書く必要があるのか。思わせぶりな態度や、勘違いさせるような口ぶりを思い返してみても心当たりはなかった。十中八九、からかって反応を楽しみたかっただけだろう。もしや1%の確率で本当に書いてほしいのか。そんなことないと言われればこちらも満更悪い気もしない。若い頃の物書きの血が騒ぎ出し、どれ恋文の一本や二本一肌脱ぐかとその気になってしまった自分が意地らしい。かくして波流人氏は頼まれてもいないのに、60歳にしてラブレター・コールを受けることとなった。
「なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ」
有名な登山家ジョージ・マロニーの言葉である。
「なぜラブレターを書くのか。そこに暇があるからだ」
無名な小説家ハルト・オールダー氏の戯言である。
「昨年、定年退職し春から働き出した職場で君と出会いました。入社に関する手続きや身の回りの細々としたことを精力的にサポートしてくれ、僕は初対面の頃から良い印象を持っていました。しかしそれはラブレターを書きたくなるような感情とは程遠いものでした。ではなぜ今書く気になったのか。それは君の人となりにふれたからです。いつも同じ笑顔でいる。誰に対しても分け隔てなく振舞う。弱音を吐くと鼓舞してくれる。女のくせに男の肩を叩く。「私?」とよく胸に手を当てる。サバサバしていて男っぽい性格である。見倣いたい働き方をしている。尊敬したい生き方をしている─」
キーボードをたたく手が止まった。これはラブレターではないだろう。身辺調査や人事考課じゃあるまいし。よくよく考えたらラブレターなんてもう何十年も書いていない。ラブレターに不可欠なもの、それはいったいなんだっただろう。
「文章を書くのが久しぶりなんだから、今さらラブレターなんて書けるわけがない。そうでしょ」
愚痴の相手は行きつけのBARのマスター。彼是30年来の付き合いで波流人氏の半生を知っているといっても過言ではない。
「安請け合いしてしまいましたね。でもそもそもラブレターを催促するというのが面白いですね。まだ代筆ならわかりますけど」
「マスターはどう?」
「どうといいますと」
「その手の類のものに縁はあった?」
「もらったことは2、3度ありましたかね。でも書いたことはなかったと思います」
「はいはい、もてる男は書く必要なんてないからね」
「いや、そういうわけでは──話は戻りますけど、さっき波流人さんがおっしゃってたラブレターに不可欠なものって告白ではないでしょうか」
「告白─」
「今、自分が一番伝えたいことです」
「一番伝えたいこと─」
波流人氏は何かを思いついたのか、グラスの酒の残りを口に流し込み止まり木から滑り降りると、脇目もふらずドアに向かった。
「週末はサイレントウィークエンドです。平日は自宅にいるのが夜だけなのでまだいいですが、土日は応えます。仲が悪いとかそういう問題ではなくとにかく会話がありません。息子とはここ数年ろくに口をきいていません。血のつながりは関係ないといわれますが、ただの男の保護者もしくは同居人という感じです。甘やかされて育ったせいで自分のことしかやりません。辛うじて食器洗いと風呂入れはやりますが、満杯になったゴミ箱のごみをゴミ袋に入れるなんてことは高度すぎるようです。一人暮らしを3年ぐらいしたんですけどね。今となっては自分のやりたい仕事だけをして誰にも何も言われずに好きなように生きています。生活費を入れているだけまだいいほうかもしれません。頭が良くて(実父の血)一流大学を出て超氷河期時代にやっとの思いで就職した会社は親の知らないところで勝手に辞めていて、帰省した時も何食わぬ顔で嘘の一人暮らしの報告をしていました。息子どころか人としての魅力を全く感じません。ただ出ていかれると生活が苦しくなるので難しいところです。
問題の家内は10年ほど前の妄想障害が原因で性格が別人のようにすっかり変わってしまいました。結婚したのは私が33歳の時、上司の奥さんでした。いわゆる不倫というやつです。当時の私はほとんど女性経験もなくこんな自分を好きと言ってくれる人がいたら迷わず一緒になろうと決めていました。聴覚障害はあるし、そこそこの借金はある。はっきり言って社会から見放された負け犬の典型でした。家内と出会ったのはそんなときです。上司から「家内が写真を見て君のことを良い、良いって言うんでね」一人暮らしを始めた頃で家庭をもった人たちがものすごく羨ましく見えました。でもまさか自分が略奪愛の主犯者になるとは思ってもいませんでした。その時にもっと罪の意識を感じていれば独りにはなっても人を傷つけることはきっとなかっただろう──後悔先立たずです。
家内は性格が悪いわけではありません。というより良いともいえません。27年一緒にいてどういう人かと問われても返事に困ります。息子は溺愛していました。何をするにも基準はいつもそこでした。一緒になるということは父親になるということも含まれるはずですが、家内はあまりそのことには熱心ではありませんでした。とにかく大事に育てて良い大学を出て良い企業に就職し立派な社会人にすることにしか興味がなかったのです。できる範囲で協力はしました。親子なのだから協力というのも変ですけどね。塾の送り迎えは仕方ないとしても、高校大学の7年間それをした家内にはあきれるばかりでした。その頃から息子の行く末はなるべくしてなるだろうと思っていました──。
ブリントアウトした用紙を手にマスターは眉根を寄せた。
「これが今一番言いたいことなんですか」
「まだ序の口だけどね」
「波流人さんプライベートはほとんど口にされなかったのでちょっと驚いています」
「こんな人生送ってたらラブレターのラの字も出てこないよ。好きだなんて書いたらかえって嘘っぽい」
「そうかもしれませんね」
「まあ別に書いてくれっていうんじゃなくて、書いてくれたら嬉しいってことだからね」
「でも相手の方は好意を持ってらっしゃるんですよね」
「好意なのかどうかはわからないけど」
「それなのになぜわざわざラブレターなんでしょう」
言われてみればたしかにそうだ。ラブレターは好意を伝えるツールであって、好意を持っている相手からわざわざもらうものではない。
やっぱり、からかわれているだけで好意なんて自意識過剰だよ。
その時、波流人氏はなぜか口の中に初恋に似た甘酸っぱいものを感じた。
続く