インプットとアウトプットのこと

noteでの文章はなんとなく毎回文体を変えて書いていた。ギルティギアの記事は論文のように堅めに検証の結果を書いた。すいちゃんのたいよーアンチまとめはもっとカジュアルに雑誌の特集のように。最終回恐怖症の話はエッセイ風の文体を意識した。

じゃあ次は普段あまり書かないし見ることもない、ティーンエージャー風の文章(?)や、やたら改行の多いブログ記事風にでも書いてみようかな、とおもったのだが、全く文体をイメージできず書くことができなかった。

アウトプットというのはあくまで大量のインプットを元にして改変を行うものなのでオリジナルの情報量が欠如している場合、それをすることはできない。

では、なぜ冒頭の文体は書けたのかと言えば、それはこれまでにインプットした量が多いからに他ならないだろう。「目より先に手が肥えることはない」というが、字を書くためにはそれ以上に読まなければならない。

人間は死ぬとその人生の記録を失い、次の人間はまた最初からインプットしなければならないという非効率な生き物だが、後世の人間はそれまでの人間が培った効率の良いインプット方法である"文章"から、効率的に情報を入手できるのだからこれを利用しない手はない。
人の命の長さは種の誕生以来大きく変化していないが、文章によって効率的に過去の経験を取り込むことで先人の更に先へ進み、人類は進歩してきたと言える。いわば現代を生きる人間は誰しも誰かの"強くてニューゲーム"なのだ。

こういう話をすると、小説はエンターテイメントだから読んでも意味がないという反論も思いつくが、小説であろうとゲームであろうと、先述の通り何かをアウトプットするためには大量のインプットが必要となり、生み出されるまでに数多くの思考とリサーチを経ているのである。アウトプットされたものを取り込む行為は、その過程の一部を短縮して自分のものとする行為であり、なんであれ自分の糧となり次のアウトプットにつながる。

というようなことをめっきり本を読まなくなったこの頃思ったので自らへの戒めとしてここに記しておく。

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