放課後のプレアデスと宮沢賢治/みなとの星宙の感想

2020/12/20追記:『みなとの星宙』を手に取りやすいよう、参考文献に一冊追加しました。
2022/8/24追記:『みなとの星宙: 放課後のプレアデス (Maia) Kindle版』を参考文献に追加。待望の復刊!


これを、可能な限り言語化したいと思って今回の記事を書くに至りました。というのも『放課後のプレアデス』のノベライズ版である『みなとの星宙』を読んだことによって、放課後のプレアデスの背景にひそむ宮沢賢治という詩人の存在に気づかされたからですね。
 少々長い文書なのですが、お付き合いいただければと思います。
 記事の性質上、ネタバレには全く配慮できないものとなっているのでご了承下さい。逆に言うと、絶版ゆえ入手難でもある『みなとの星宙』を未読でもある程度は理解いただけるように書いたつもりではあります。


序文 全体の構成について

 これから僕がやろうとしていることについて。
 すごくおおざっぱに言うと『みなとの星宙』についての感想を述べようとしているのですが、その前には大本である『放課後のプレアデス』というタイトルと、その内側に存在する作品群が何を目指していたのかについて、僕がどう解釈したのかということを同時にお話ししていく必要でてきてしまいました。
『放課後のプレアデス』と『みなとの星宙』と、内容もさることながらその背後にあったものの大きさにも心打たれ、そのことも含めて感想を書きたくなってしまったからです。そのために何をどんな順番でお伝えするのか明示する必要がありました。なぜなら伝えしたいことが多すぎて整理しないととても時間を使って読んでいただくようなものにならなかったからですね。
 なので、章立てし、作品としての大きな部分から内容を経て結論に至るまで、感想をお伝えできればと思います。
『1.』では、みなとの星宙で明瞭に表出された『宮澤賢治』というモチーフから、『放課後のプレアデス』というタイトルが賢治とどう関係しているのか、TV版ではなぜその賢治という要素が表出されずに“埋没”しているのか、“埋没”させてまで何を目指していたのか、というのが『みなとの星宙』を読んだことでどう見えるようになったかということをお話したいと思います。
『2.』では、『放課後のプレアデス』というタイトルの中で『みなとの星宙』が背負っていると思われるものについてお話したいと思います。結論は目次にあるように〈科学〉だと考えているのですが、『1.』でお話する『放課後のプレアデス』が目指していたものとの関係の中で、どのような意味を持っているのかについてです。
『3.』は、具体的にみなとについての話です。作中でもほぼ明言されているといっても過言ではないみなとが抱く(賢治と酷似した)『灼身願望』と、『TV版』で整頓されてしまったみなとの物語がいかにして復元されたのか、『放課後のプレアデス』において彼は何を意味していたのか、についてです。
『4.』は、全体の結論です。この感想文のある意味本体です。『放課後のプレアデス』の終わりはいかにして訪れたのかについて。すばるたちとみなとが辿り着いた場所について、『TV版』で描かれたすばるの物語と対になるみなとの物語が、どんなものだったのか。力不足は自覚しながらも、言葉にしていきたいと思います。
 最後に、この感想は様々な『放課後のプレアデス』を参照して書いています。その際の表記を決めておきたいと思います。そんなに肩ひじはることではないと思うのですが、念のために。

『放課後のプレアデス』→下記の作品群を内包した大枠のタイトル
『みなとの星宙』→『放課後のプレアデス みなとの星宙』菅浩江(著)GAINAX(原作)、一迅社(2015)

(上記下段のものは『みなとの星宙』の著者である菅浩江先生が出版された文章技術の解説本であり、『みなとの星宙』に触れるのに一番手早い方法。恨めしきは絶版……)2020/12/20追記
(最上段にとうとう復刊した『みなとの星宙kindle版』を追加。菅浩江先生ありがとうございます!)
『TV版』→TV放送版の放課後のプレアデス本編
『コメンタリー』→特典映像のオーディオコメンタリー

『YouTube版』→YouTube版の放課後のプレアデス本編


放課後だけの魔法使い!』→『放課後だけの魔法使い! すばると謎の少年』および『放課後だけの魔法使い! すばるとカケラの秘密』粟生こずえ(文)GAINAX(原作)、学研プラス(2015)

漫画版』→『放課後のプレアデス Prism Palette 01』Anmi(漫画)GAINAX(原作)ばう(構成協力)、一迅社(2015)および『放課後のプレアデス Prism Palette 02』Anmi(漫画)GAINAX(原作)ばう(構成協力)、一迅社(2016)

ぷにっと』→『ぷにっと放課後のプレアデス』未来電機(著)GAINAX(原作)、一迅社(2016)

アートワークス』→『放課後のプレアデス アートワークス』MEGALOMANIA(構成・執筆)GAINAX 放課後のプレアデス制作委員会(協力)一迅社(2015)

Febri』→『Febri Vol.29[巻頭特集]Febri Special Feature 01 放課後のプレアデス』宮昌太郎、夏葉薫、塩田信之、浅野健司(取材・文)一迅社(2015)004p-035p

 これらのほかに以下を主要参考文献・引用文献として使用しています。
『宮沢賢治』見田宗介、岩波書店(1984)
(リンク先は文庫版)

『宮沢賢治・時空の旅人 文学が描いた相対性理論』竹内薫、原田章夫、日経サイエンス社(1996)

『『宮沢賢治全集・283作品⇒1冊』【直筆水彩画・関連作品つき】kindle版』宮沢賢治、宮沢賢治全集・出版委員会 (2014)

1.『宮澤賢治』というモチーフの表出/大枠としての『放課後のプレアデス』と宮沢賢治の関係性

「僕もあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう」
(『銀河鉄道の夜(角川文庫版)』宮沢賢治)

 まず『みなとの星宙』を一読して感じたのは、『宮澤賢治』という詩人のモチーフが引用が反復されるということ。
 それが『TV版』にはない『みなとの星宙』から出現した要素かといえばそうではなくて、一番わかりやすい例を挙げると『TV版』の宮沢賢治要素は『星めぐりの歌』です。

あかいめだまの さそり
(『双子の星』宮沢賢治)

 から始まる賢治の星めぐりの歌。これを唄うことですばるとあおいがタイミングを合わせ〈エンジンのかけら〉を確保するシーンがあります。まさに『TV版』第2話「星めぐりの歌」でのことですね。
 逆に言えば、『TV版』ではこれ以外に明確な引用はされていないと思うのですが、一度『みなとの星宙』において関係性を示されたあとに見返してみると、『放課後のプレアデス』の『宮澤賢治』への呼応が明瞭に見て取れます。
 例えば、
 TV版一話で〈エンジンのかけら〉の確保に失敗したすばるたちが落ちる山間のカットで、賢治が銀河鉄道の夜のモチーフにしたとされる眼鏡橋が映ったり、
 すばるとみなとをつなぐアイテムに銀河鉄道の夜でもつかわれたモチーフである〈牛乳〉が使われたり、
 『みなとの星宙』以外の物語のスタート時期も、銀河鉄道の夜と同様に、星まつりの夜である旧七夕付近であったり、
 無数にその賢治――特に銀河鉄道の夜――のモチーフを追うことができます。僕は『TV版』を見ただけでは気づくことができず、『みなとの星宙』に助けてもらいました。そして、これは僕にとってはとても大きな転換点でした。放課後のプレアデスの背景に存在する宮沢賢治という詩人の存在に気づかされたことは。
 賢治という存在を、制作の時系列から考えれば次のようになります。『TV版』の時点で『宮澤賢治』という詩人は意識されていたが、物語へ表出させることなく“埋没”させられていた。『みなとの星宙』においては、一度埋められた『宮澤賢治』が再発掘された。
 より深く考えるなら、『TV版』では『宮澤賢治』という詩人をどの程度表面に出すかということに考慮したうえで、結果として『星めぐりの歌』のみ直接の引用とした。つまり、賢治を意識していながら、そのモチーフをあえて埋没させるよう努めたのだと。ただし完全にうずめることにはせず、演出の端々から、わかる人にはわかるという程度にとどめていた。
 そして、その『放課後のプレアデス』と詩人との対応の上で物語をなぞると、終盤での大きな結合に辿り着きます。
 『TV版』および『みなとの星宙』と『放課後だけの魔法使い!』の三作品全てで、最後の〈エンジンのかけら〉があった場所がブラックホールであったこと。ブラックホールは、銀河鉄道の夜でジョバンニとカムパネルラ『ほんとうのさいわい』をさがしに行くはずだった場所である、という直截の符合です。
 直截的過ぎて『みなとの星宙』でも“あえて”引用されなかったであろう銀河鉄道の夜の一節を引くと、こうです。

 天の川の一とこに大きなまっくらな孔が、どおんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが言いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに 進んで行こう」
(『銀河鉄道の夜(角川文庫版)』宮沢賢治)

 ただし符合はここで終わります。
 銀河鉄道の夜は、賢治が倒れるまで内容に手を加え続けついに草稿のまま残された作品であり、何度か大きな推敲がなされ様々なバージョンが存在する物語です。ですが、そのさまざまなバージョン全て結末は、〈夢〉あるいは〈ブルカニロ博士の実験〉という虚構へ燃え落ち、星まつりの夜のジョバンニへ回帰するという形でしが終れなかった。夢幻の中へ希釈されたカムパネルラとは離別されたままに。
 もし銀河鉄道の夜と同じ場所に着地したいのなら、『放課後のプレアデス』でも、ただの離別で終わっているはずです。けれど、『放課後のプレアデス』はそうではなかった。
 ここで細かく引用はしませんが、『放課後のプレアデス』は、その様々な媒体すべてで再会へとつながる結末を迎えています。話の本筋である『TV版』から日常系の四コマ漫画である『ぷにっと』まで。もちろん、それが“無難な結末”であることはたしかです。とくに日常系四コマ漫画である『ぷにっと』と、物語の途中でエンドマークが打たれてしまった『漫画版』においては。
 ただ、だからこそ、『漫画版』は『YouTube版』のように花を遺したみなととへ待っててねと告げる、同じ形の再開を選ぶこともできたはずですし、『ぷにっと』も日常系であることを貫き、会長と離別と探索を物語中にいれなくてもよかったはずです。でも、挿話された。
 それは『放課後のプレアデス』という物語の根幹に離別と再会という主題が潜り込んでいたからに他ならないからだと考えます。
 銀河鉄道の夜ひいては宮沢賢治を土台に持ちながら、それとは違う結末を選んだ。この離別で終わらなかったという点で、すなわち『放課後のプレアデス』は賢治とは違うどこかに進もうとしていたのだと自然に考えることができます。

 ではなぜ、賢治と違う場所を目指すことが、賢治を物語の表層から埋没させることにつながるのか。
 その手がかりを賢治から探せば、〈がいねん化〉という言葉が出てきます。これは賢治が詩集『春と修羅』に収録されたオホーツク挽歌という群詩の中の一つ『青森挽歌』という詩の中で語った言葉で、

感ずることのあまりに新鮮すぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
(『春と修羅 オホーツク挽歌 青森挽歌』宮沢賢治)

 この〈がいねん化〉という現象が、『みなとの星宙』を除く『放課後のプレアデス』の作品群が賢治を土台のなかへうずめ隠さなくてはならなかった理由だと考えています。それは賢治を表出させてしまうことで、作品の新鮮さ・あるがままを感じる心を賢治という言葉や感性で〈がいねん化〉してしまう危険性があったからです。賢治をモチーフとして表出させることは、賢治自身が語った〈がいねん化〉をもたらすという自縄自縛の状況生み出す。ゆえに、『みなとの星宙』以外の作品群では『宮澤賢治』の“埋没”がなされていたのだと感じました。
 このように『放課後のプレアデス』の他媒体で入念に調整されていた賢治が、なぜ『みなとの星宙』でだけは明瞭な輪郭を持ったモチーフとして発掘されたのか。
 その理由の一つは、この小説がSF小説すなわち〈科学〉だからであり、すばるたちの真名を明らかにしたように『TV版』では作品の土台となり表層から遠のいてしまったものに名前を与え一つ一つ発掘していくという役割を持っていたからではないかということ。そして、『宮澤賢治=他の世界からの旅人』という図式を大きなオチの一つとして発掘するということにつながっているのだと思います。

「……なので、作風からしても、宮澤賢治は他の世界からの旅人ではなかったかと言うファンもいるくらいです」
(『みなとの星宙』菅浩江)

 細かい表記の部分を読み解くのであれば、作品内の表現では一貫して『宮澤賢治』と書かれています。『みなとの星宙』という時空の内部に、今僕らが生存している現実への架け橋――〈科学〉の一つとして、『宮澤賢治』という存在を定位させる必要があった。けれど、現実で一般的に用いられる宮“沢”賢治という名前では、すばるたちの時空がこの現実へ接合しすぎてしまうので、作品内では一貫して『宮澤賢治』という名称が使われているのだろうと読める。この現実との距離感の測り方の妙は『みなとの星宙』という作品全体に染み渡っていて、『TV版』の気持ちのいい映像美とは違った、感覚的な身近さの中に身に迫るような宇宙論が潜んでいて、まさにSF的な読書感がありました。特筆した賢治との距離感も最後の最後に自分が生きる現実にフィクションが迫ってくる感覚に繋がっているように思います。


2.〈科学〉という役割/『みなとの星宙』が『放課後のプレアデス』というタイトルの中でどんな意味を持っているか

さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て
(『春と修羅 小岩井農場』宮沢賢治)

 前章では、みなとの星宙で明瞭に表出された『宮澤賢治』というモチーフから、『放課後のプレアデス』というタイトルが賢治とどう関係しているのか、『TV版』ではなぜその賢治という要素が表出されずに“埋没”しているのか、“埋没”させてまで何を目指していたのか、というのを『みなとの星宙』によっていかに見えるようになったかをお話しました。
 『放課後のプレアデス』においては、その土台に宮沢賢治という要素を含んで成り立っているが、賢治の銀河鉄道の夜とは違う場所を目指した。だが同時に〈がいねん化〉を避けるために賢治を“埋没”させる必要もあった。
 それはSF小説――〈科学〉――たる『みなとの星宙』から逆算することで明らかになった。ではなぜ、『みなとの星宙』は〈科学〉という役割を背負っているのか。それは『放課後のプレアデス』というタイトルの中でどんな意味を持っているのか。
 前章で見たように、『放課後のプレアデス』が賢治の銀河鉄道の夜とは違う場所を目指していたとするなら、銀河鉄道の夜とは違うもの――あるいは賢治の時代よりもより進歩したもの――を使う必要があります。〈科学〉がそのうちの一つではないだろうかというのが、僕の言いたいことです。
 たとえば、ホーキング放射。これは『みなとの星宙』においてすばるたちがブラックホールの中の〈エンジンのかけら〉を取り出す際に用いられた概念ですが、これがホーキング博士によって提唱されたのは1974年。賢治の没した1933年から約40年後の〈科学〉であり、賢治の知ることが無かったまっくらい孔の中の『ほんとうのさいわい』を探るための方法の一つと考えることもできます。賢治とは違う場所へ辿り着くための方法の一つと。
 細かい考察を挟むのなら、銀河を進むための乗り物として描かれるモノも適切にアップデートされているように思います。賢治の時代に『鉄道』という概念の持つ都会への開放――ムラを離れる――というものが自由への象徴でもあったように、現代においてその象徴を受け継ぐものが自分でハンドルを握り行き先を決められる『自動車』であり、すばるたちが駆るのが自動車の『ドライブシャフト』であるという乗り物のアップデートも印象的です。
 また当然ながら賢治自身、〈科学〉の素養を持ち合わせた人物であり、作中に登場する科学的な概念は豊富にあります。そのうちの一つを、これも銀河鉄道の夜から引くなら、

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか」車掌がたずねました。
(中略)
 すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように言いました。
「おや、 こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券です。こいつをお 持ちになれぁ、なるほど、こんな“不完全な幻想第四次の銀河鉄道”なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」
(『銀河鉄道の夜(角川文庫版)』宮沢賢治)[“”は榛見による追加]

 という風に、当時の最先端だった相対性理論(賢治が想定していたのが特殊か一般かは諸説あるそうです)を前提とした四次元的な宇宙論のもとで銀河鉄道の夜も書かれています。ある意味で賢治とは違う場所へだどり着くために〈科学〉を前進させるというのは、賢治直系の方法論でもあったわけです。
 では、ここでいう〈科学〉とは具体的に何か。『放課後のプレアデス』においてそれを表現するなら“なにものであるかを確定する”こと。
 より具体的に言うと言葉によって定義すること、即ち“言語化”して確定すること。
 これに関しては『TV版』8話、『漫画版』第9夜、および『みなとの星宙』の平穏に過ごした三ヶ月間を繰り返す戦慄、全てで描かれる“アパテの命名”と命名ゆえに観測可能になり存在が確定しすばるたちがななこの座標へ跳べるようになるという事象から考えることができます。同様の『放課後だけの魔法使い!』のななこお当番回第六章だと、跳べるようになるという描写はないのですが、ななこが星から名前を聞き、それに伴う観測よって対象がアパテとして確定される、という話が展開されます。
 そもそも命名という行為は、〈科学〉の基礎の一つでもあります。現実に存在している何かに対して、これは水である、流体である、物質である、素粒子である、等の名前をつけることそれ自体が一つ科学的な行為です。
 これは『放課後のプレアデス』が大きな題材として抱えている量子論的な解釈にも合致します。観測されることによって、そのものが確定されるという。
 その〈科学〉という行為で、『みなとの星宙』が確定されたものは何か。“不完全な幻想第四次の銀河鉄道”のレールだったのではないかと僕は思います。
『みなとの星宙』で語られているのはまず、ホーキング放射を利用することによって探索されたまっくらな孔の、そのさらに向こうの空間、

「宇宙と宇宙の狭間の世界(バルク)だよ」
(『みなとの星宙』菅浩江)[“狭間の世界”で《バルク》のルビ(noteはルビが非対応……)]

 というエルナトが語る膜宇宙論。さらにその先の物語で行き着く時間軸上に展開された運命線とその概念図ともいえる「すべての〈可能性〉が生まれる」とみなとが語った世界(生命の樹)。これらへ到達するために、『TV版』は綿密に考証された宇宙物理学の映像をつかい、『みなとの星宙』では量子論的な合理性のもとで言語をつくし、レールを延伸させたわけです。
 そして、生命の樹の根本、個々人の運命線の始まりという概念に、四十億年前の地球という〈科学〉の言葉で実体を与え、まっくらな孔の向こうの『ほんとうのさいわい』の探求を再開できる場所を明示した。
 『みなとの星宙』の大枠において重要だった部分は、この映像部分で示されていたことの言語化でした。物語の帰結こそ、四十億年前の地球と同じであるものの、ここにいたるまで、〈科学〉としての言葉を重ね、賢治の心象宇宙に敷かれていた銀河鉄道を質感のある現実の宇宙へ確定させたこと。そしてそれを、孔の向こうへ連結させたこと。
 これが、この作品が『放課後のプレアデス』という作品の全体に果たした多大なる貢献だったのではないかと思います。
 それが果たして“完全な第四次”の銀河鉄道のレールだったのかについては、現在の物理学でさえも宇宙について決定的な正解が見つかっていない以上だれもうなづくことはできません。ただ『放課後のプレアデス』がどこへレールを伸ばした、あるいは伸ばしたかった、のかについてはわかったように思えます。
 賢治が、〈夢〉あるいは〈ブルカニロ博士の実験〉という虚構へ燃え落ち、そのまま倒れ断念するしかなかった、銀河鉄道の夜のまっくらな孔の向こう側。『ほんとうのさいわい』の探求の再開と前進へです。
 では、『放課後のプレアデス』はどのような方法で再開と前進を試みたのか。それを考えるためには、まず賢治の断念を明確にしなければなりません。賢治の銀河鉄道はなぜ夜を超えることができなかったのかを。


3.みなとの『灼身願望』/『みなとの星宙』が明示したもの

……どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならばぼくのからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
突然、みなとはぽかりと目を開いた。
(『みなとの星宙』菅浩江)

 前章では、『放課後のプレアデス』というタイトルの中で『みなとの星宙』が背負っていると思われるものについてお話したと思います。結論は〈科学〉なのですが、『放課後のプレアデス』が目指していたものとの関係の中で、どのような意味を持っているのかについてでした。
『放課後のプレアデス』において〈科学〉すなわち“言語化”することによって、断念されていた銀河鉄道のレールは、『ほんとうのさいわい』を探索するためのまっくらな孔の向こう側まで、延伸された。『放課後のプレアデス』の目的の一つは、銀河鉄道の夜の再開と前進だった。『みなとの星宙』においては現実的な宇宙論を駆使してより明確に言語化することによって、『TV版』では映像で見せていたものに、言葉として鮮明な銀河鉄道の実体を与えた。
 なれど、その銀河鉄道に乗るはずのジョバンニやカムパネルラはいずこに?
 結局、どれだけ克明に銀河鉄道が延伸されても、それに乗る人たちが居なければ『ほんとうのさいわい』の探索を再開することはできません。賢治やジョバンニ自身が、宙の彼方で燃え落ちることを織り込み済みと考え続ける限りは。
 そのような賢治あるいはジョバンニ自身の灼身願望こそが銀河鉄道の断念であり、そして『TV版』で剥落させざるをえなかった一番致命的な部分であり、『みなとの星宙』で完璧にすくい上げられた『放課後のプレアデス』の半身ではないかと思ってしまうのです。
 著者の菅浩江先生は『みなとの星宙』のあとがきで、『妄想も暴走』や『リロリンのかけらの設定以外、TV版にないものはほとんど私のオリジナルです』とおっしゃっていましたが、むしろ『みなとの星宙』がなければ、放課後のプレアデスは読み解けないのではないかと思うほど、本当に重要な作品のように僕は思います。
 その大きな理由の一つが、『TV版』では描ききらなかった、みなとの心変わり――動機の変形を――物語の中で継ぎ目なく変遷させたということでした。
『Febri』に掲載された、佐伯昭志監督の『TV版』第10話「キラキラな夜」へのコメントで

すばるたちを明るく見せたかったこともあって、『放課後のプレアデス』の暗い部分は、結果的にみなとに背負ってもらうことになりました。
(『Febri』佐伯昭志)

 とあるように、『TV版』では尺的にも情報的にも最低限に抑えられていた“暗い部分”たるみなと。『みなとの星宙』においては、彼の抱く灼身願望にも言葉としての実体が与えられました。『ほんとうのさいわい』を探求するために克服されるべき“断念”として。
 まずはみなとと灼身願望の対応について。明白ではあるのですが念のためにそこから確認していこうと思います。

あかいめだまの さそり

 超人的な魔術を手にしても、自分への否定、という願いだけが叶わない。
 霧の中のギラギラした赤い瞳が、ふと力を失い、水底の紅玉のように潤んで揺れた。

 蠍は、イタチから逃げて井戸で無為に死んだ。どうせ死ぬならイタチの餌になってやればイタチも一日生き延びただろう、と、後悔し、神に祈った。
……こんなにむなしく命をすてずどうかこの次はまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見たって。
 ジョバンニは言う。
……どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならばぼくのからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。
 突然、みなとはぽかりと目を開いた。
(『みなとの星宙』菅浩江)

 というふうに、作中でほぼ明言されているとおり、みなとが背負う象徴は灼身願望と裏返しの自己犠牲でした。赤い眼をしたさそりは、作中でも引用される星まつりの歌が出てくる『双子の星』それと『銀河鉄道の夜』の両方に出てきます。そしてみなと(から分離した〈エンジンのかけら〉への執着・恩讐)が、すばるに観測されることによって確定した姿が、角マントの“赤い眼”です。強調するまでもなく、さそりと同じ色の。
 くわえて、みなとの象徴を理解する上で手がかりとなる賢治の作品の一つとして『よだかの星』をひこうと思います。『銀河鉄道の夜』の中で展開される〈さそりの火〉、それとモチーフを共にするのが『よだかの星』です。
 生存するだけで――空を飛ぶだけで――その口の中に小さな羽虫を飲み込んでしまうみにくい鳥〈よだか〉。それは生存することしかできず、その生存するだけでも両親に医療費などの負担を強いてしまう病室のみなとと同じ構造です。

 でも、負担だよね。あんなに機械をいっぱい使って生きながらえさせているんなんて。お金もかかるだろうし、悲しいよね。
 どうか邪悪なぼくが、みんなの負担になりませんように。少しでも早く消えてしまいますように。
(『みなとの星宙』菅浩江)
 


 そして〈よだか〉もみなとも、一度は太陽にその身を放ることを考えました。

 実体ごと滅びることができるのなら、魔法の力で飛翔して、太陽に飛び込んだって構わなかった。
 けれど、しょせん黒いマントは現実の人々の目に触れない仮の姿。きっとベッドの上で自分は眠り続け、悪夢から覚めた瞬間に次の悪夢が始まるがごとく、夢のなかの自分はいくらしのうとしても消えてしまうことなどできないに違いない。
(『みなとの星宙』菅浩江)

 みなとはこのように叶わない灼身を諦念の悪夢に重ね、〈よだか〉は

「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れて行ってください。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでせう。どうかわたしを連れてって下さい。」
(『よだかの星』宮沢賢治)

 と太陽に懇願します。しかしよだかは誰にも相手にされず、疲れ果て地に足をつけそうになったとき、『よだかは俄かにのろしのやうに』空へ飛び上がり、最期は低酸素と冷気がその身をさいなむような高度まで飛翔し、『寒さや霜がまるで剣のやうによだがを刺しました』。その後は〈さそりの火〉のように、よだかは夜空の星となっていつまでも燃え続けるという形で『よだかの星』は終わります。
 ただし、〈さそりの火〉においてはいたちに対して報いられなかった自己犠牲への悔悟をかかえていますが、〈よだかの星〉においては灼身願望のみが貫かれ自己犠牲が伴いません。〈さそりの火〉のようにいたちへの挺身を望むのでも、ジョバンニのように『ほんとうのさいわい』のために我が身を灼いてもいいと許諾するのでもなく。

“角マント”のみなとの動機にがこの純粋な灼身願望ですね。みなとというキャラクターの複雑な背景ここで問題になってきます。
『放課後のプレアデス』の中でみなとというキャラクターは、他の主要キャラクターに比べてとても複雑な構造をしています。
 まずは一番最初にして物語の始点である“チビみなと”。
 次に、“チビみなと”の絶望を受け継ぎ、〈エンジンのかけら〉での灼身願望を抱く“角マント”。
 他方、“チビみなと”の因果を受け継ぎ、すばるとの交流の中で彼女を助ける“カーディガン”。
 分裂した“角マント”と“カーディガン”が再度重なった“園芸部”
 最後にすばるとの因果によって〈確定〉した“魔法使い”
 このそれぞれのみなとへの変位の都度、彼が背負う表象は少しずつ変化していきます。
 まずは一番最初の“チビみなと”。まだここで灼身願望は顕在化していません。病室での目覚めとエルナトとの出会いを経て自身の存在を探るように、〈可能性の結晶〉あつめに邁進します。次にすばるからの観測と病室での触れ合いがあって、そのときに抱くのが自身の無力感と裏返しの献身です。そしてみなとは、すばるの願いを叶えるため――すばるの願いを叶えられる自分であるため――エルナトの静止を振り切って単身で〈エンジンのかけら〉に迫ります。

逆しまの流星のように、みなとは〈エンジンのかけら〉へ向かう。
(『みなとの星宙』菅浩江)

 流星。逆しま、という風に反転してはいても、重力に引かれ断熱圧縮と摩擦熱で燃え落ちるさだめにあるかのような表現がなされ、事実“チビみなと”は〈エンジンのかけら〉に匹敵することはできず、自身が昏睡状態で横たわる病室へ墜落します。
 個人の願いのためだけに魔法を使うことの限界として。
 そして、エルナトによる分割がなされます。〈エンジンのかけら〉と因果を結んだみなとは、すばるの願いを“叶えられる自分でなかった”ことに絶望し、“角マント”の灼身願望へと変形されました。すばるとの因果を堅持したみなとは、すばるの願いを“叶えられなかった”ことを諦観し、おなじく叶うことのなかったものである〈可能性の結晶〉とともに在るべく、“カーディガン”の他者に自己を差し出すような自己犠牲の精神へと変換されるわけです。
 ここから『TV版』の一話につながり、『放課後のプレアデス』の本筋へと続いてゆきます。しかし時系列的には、すでにみなととすばるの因果は結ばれ、みなと自身は灼身願望と自己犠牲の二面性を胚胎しています。
 すばるの物語であり『放課後のプレアデス』の主題である“銀河鉄道の再開と前進”が始まる前に、その前提である賢治の――銀河鉄道の“断念”を描いておく必要があったわけです。それはすなわちみなととエルナトの物語であり、そこで描かれたのは、みなとがいかにして灼身願望と自己犠牲を抱くに至ったかという変遷でした。
 章の冒頭で述べた通り『TV版』はすばるによる再開と前進の物語なので、その前段階である“断念”を最低限しか描けなかった。そこを拾い上げ、“断念”の具体的な変遷を丁寧に描いたのが『みなとの星宙』だったのだと思います。
 もちろん“チビみなと”以降のみなとも生き生きと描かれていて、ここで『みなとの星宙』のすごくいいなと思ったところを一つ挙げると、
 文化祭準備時すばるとみなとが魔法を使って二人で宇宙をとんだとき、みなとが見せた一角獣座のV838に対して、すばるに『羽衣星』と“命名”してもらっていたところがあります。
 ななこがアパテに対して行ったように、命名という行為が存在を確定することなのであれば、それは翻ってその名前を知っているものたちの存在を確定させる証左にもなる。この『羽衣星』の命名によって、すばるとみなとは共通の世界を手に入れて、そしてそれゆえに変身した状態でも互いを認識できるようになるっていうのは、物語の配置――この放課後のプレアデスという世界の描写――としてとっても素敵なのです。

 そしてその素敵さが、二人の断絶へと切り替わるコントラストが鮮やかで、呪いの宣言とともに深く印象に残っています。この離別のコントラストはやっぱり大きな意味があって、『TV版』では幻の中をもがくようなすばるの孤独であり、『みなとの星宙』ではすばるを守るという自己犠牲ののち、皆の記憶にシンクしてゆくみなとの灼身願望――賢治に則すなら自らの肉体が燃え落ち周囲の一部となる願望――の成就でもあったわけです。
 それは『銀河鉄道の夜』の断念された地点へ辿り着いたということです。
 これは銀河鉄道の夜の最後と同じ地点で、『みなとの星宙』でも引用されているジョバンニの灼身願望と、それに伴うカムパネルラの“犠牲”によって現実に帰還する、中断された『ほんとうのさいわい』への旅の再現に他なりません。
 そこから、『放課後のプレアデス』の一つの大きな転換点にしてテーマの実現がなされます。


4.獲得した“外部”という視点/彼と彼女たちはどこに辿り着いたのか

はなさないよ はなさないよ
つかんだ夢のカケラ
いっしょにゆこう 未来へ
それは君との約束 この星空《そら》を味方にして
わたしたちは旅をする
(「放課後のプレアデス」『YouTube版』メインテーマ)

 前章は、具体的にみなとについての話でした。作中でもほぼ明言されているといっても過言ではないみなとが抱く(賢治と酷似した)『灼身願望/自己犠牲』と、『TV版』で描かれなかったみなとの物語がいかにして復元されたのか、『放課後のプレアデス』において彼は何を意味していたのか、についてです。
『放課後のプレアデス』において、すばるの物語に先立って、みなとの物語は乗り越えるべき“断念”として事前に包摂されている必要があった。時系列で見れば、エルナト≒プレアデス星人と先に出会っていたのがチビみなとであったように。それは『TV版』では第10話で適切な要点を抜き出して(それゆえ説明的に離散的に)明示されたみなとの過去であり、『みなとの星宙』においては話の主軸して描かれた生きたみなとの『灼身願望/自己犠牲』の変遷と“断念”への到達でした。
 ではその、賢治の“断念”にして、みなとがその身に宿してしまった『灼身願望/自己犠牲』は、いかにして乗り越えられたのか。
 そのために必要な概念を二つ、また賢治から借用する必要があります。


4-1.〈児童〉について

 まず、一つ目は〈児童〉です。僕が宮沢賢治を読む上で参考にした『宮沢賢治(著:見田宗介)』からの引用になるのですが、

 賢治の資質を最も破綻なく活性化することのできるひとびととの融合の仕方の位相は、生活の下半身を捨象したままの、魂の融合であった。
このような位相の交流を許す固有の存在とは、なによりもまず〈児童〉である。
〈児童〉とは、性という意味においても生産という意味においても、その存在の基礎を大人の身体にゆだねたままで、魂の交流を生きることのできる人生の幸福な日々の呼び名に他ならない。
賢治にとって自然な表現が、まず童話であり「少年小説」であったということも、もちろんこのこととかかわるだろう。

 これは、賢治自身が農学校の教師として働いた四年間を「実に愉快な明るいものであり」「わたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはなかった」と評していることから、〈児童〉とのふれあいが賢治自身そして作品の灼身願望を意図せず食い止めるくさびとなっていたのではないかという論考の一部です。
 大事なのは、灼身願望を食い止めるくさびとして〈児童〉という魂の交流が浮かび上がるということです。
 そうなると、すばるたちに〈児童〉という属性を自然に見出すことができます。
 まず“放課後”を生きる学生であるということ。
 学校という空間は、それ自体が目的を持ったもの、社会――大人――への準備段階としても位置づけられています。賢治が生きていた時代よりも現代の学校という空間は、〈科学〉的な、なにものかになる前段階の時空として、大人と〈児童〉の間に生じた特殊なフィールドです。授業や定期試験などの明確な回答のある競争的な場であり、賢治を灼身願望からつなぎ留めたはずの魂の交流からは少し離れた、生産の訓練とでもいうような空間です。
 ただし、その学校という時空においても“放課後”という外縁は、自由な時空として存在します。それは生産のための訓練をしなくてもいい時空だからです。もちろんしてもいい、野球選手を目指す人間が野球部で訓練をしてもいい。でも、しなくてもいい。
 そういう、生産の訓練場としての学校という時空をかなたに置くことができるのが“放課後”であり、〈児童〉的な魂の交流がなされる場です。“角マント”と“カーディガン”のみなとが和解して現実に定位したのが“園芸部”であったことも、“放課後”という時空の必然であり、賢治的な農学校への符合も感じます。
 さらにいうなら『ぷにっと』は、各メディアで物語の周辺に位置付けられてしまった“放課後”の純粋な放課後性(ex.“ぐだぐだ”な日常感、なにものでもないことを許される時空)を前面に押し出した作品だったのではないかとも思います。
 また、この“放課後”という概念とは別に、すばるたちが〈児童〉たりうるのは、プレアデス星人によって〈魔法使い〉として見込まれた理由にもあります。
 まだ何者でもないものという〈未確定〉な状態であること、言い換えるなら“未熟”であることから考えても妥当に思えるのです。
 その〈児童〉としてすばるたちを描こうとしていたことは、『アートワークス』内に掲載されている作画班の方向けの“作画注意事項”からもその意図を見ることができます。すばるたちの作画の注意事項として記載されている『パンモロ』や『止めでのパンチラ』の禁止、あるいは『異様に肌に張りつけたりしないで下さい』という指示があるところから、“性”の捨象された〈児童〉として意図的に描かれていたと。
 ただ、ここでちょっと困ったことが起きてしまいます。
『2.』でお話した〈科学〉とは、
【『放課後のプレアデス』においてそれを表現するなら“なにものであるかを確定する”こと。より具体的に言うと言葉によって定義すること、即ち“言語化”して確定にすること。】
 と定義されたものでした。これは“まだなにものでもない”という“未熟”にして未確定の存在である〈児童〉と矛盾してしまいます。

君たちは様々な可能性が重なり合ったまま、まだなにものにも確定していない、どっちつかずの存在だ。子供でもないが大人でもない、そしてまだなにもでもない。あるいはならろうとしない。幼い心のまま大人に近づいた、そんな矛盾した存在が君たちだ。
(『TV版』第3話「5人のシンデレラ」)

『放課後のプレアデス』という作品の中で〈科学〉と〈児童〉は両立するものでなくてはならない。なぜなら、今までお話してきたように、賢治の“断念”を再開・前進させることをテーマとした場合、〈科学〉は賢治の“断念”を外的に修繕し補装する銀河鉄道の延伸されたレールそのものであり、〈児童〉は賢治の“断念”の内的な動機である灼身願望を相互の交流により食い止め、ジョバンニやカムパネルラを銀河鉄道の座席に縫い留めるくさびであるから。
 言語化されるものと言語化されえないもの、両極に附置されてしまった〈科学〉と〈児童〉を『放課後のプレアデス』はいかにして接合したのか。そのための発明が、すばるたち五人が纏う、『量子論的魔法使い』とでもいうような、〈科学〉と〈児童〉の矛盾を矛盾したまま重ね合わせた存在ではないかと。
『量子論的魔法使い』の認識の内では彼女たちの想像力によって、アニメ的演出での科学を最大限視聴者に届るため、様々なものが換言されます。天体はお菓子やたこ焼きに、ダークエネルギーは暗黒エナジーに、そして換言しようのない概念は『プレアデス星人の言葉』というギャグに。
 その『換言』あるいは『量子論的魔法使い』という概念が、『TV版』をアニメとして気持ちのいいものにし今でも根強い支持を得ている要因の一つになっていますし、前述の通り本来融合しえない〈科学〉と〈児童〉を接合させるための発明でもあるのですが、それゆえに極の両端を犠牲にせざるをえなかった。
 すばるたち自身が『換言』してしまうことによって、『TV版』だけでは、言語化された〈科学〉を完全に達成することも言語化されえない〈児童〉を完全に達成することも、かなわなくなってしまった。
『TV版』だけ、では。
 この言語化という軸の両極である〈科学〉と〈児童〉の、極限値での剥落を分かっていたから、『みなとの星宙』で言語化された〈科学〉を、『放課後だけの魔法使い!』で言語化されえない感覚としての〈児童〉を、『放課後のプレアデス』というタイトルのなかでそれぞれ拾い上げのではないかと思うのです。
『2.』で述べた通り、〈科学〉を拾い上げる小説として、SF小説たる『みなとの星宙』はありました。
 そして、この〈児童〉の必要性がすなわち、『TV版』よりもなお〈児童〉に軸足を置いた児童書『放課後だけの魔法使い!』が刊行された理由でもあると思います。賢治の再開と前進を目論むのなら、〈児童〉の物語であることも、その『放課後のプレアデス』という大枠の中で視野に入れなければならない。ガイナックスの作品で『児童文学』としてノベライズが作られているのは、この『放課後のプレアデス』だけです。『新世紀エヴァンゲリオン』は数えきれないくらいメディアミックスがありますし、ティーン向けノベライズという観点では『アベノ橋魔法☆商店街』がスニーカー文庫から刊行されていますが、『放課後だけの魔法使い!』のように学研という明確に児童向けのレーベルから出版されたわけではありませんでした。逆に言えば『放課後のプレアデス』には、ガイナックスの通例を超えてでも、児童文学を刊行せねばならない理由が、商業目的以上に作品に与えられた哲学の中にあった。そう思えます。

4-2.〈恋愛〉について

 次に、賢治から借用してくる二つ目の概念は〈恋愛〉です。こちらは賢治から直接引用すると、『2.』の冒頭で引用した『小岩井農場』の一節の、少し手前の部分に

ちいさな自分に劃(かぎ)ることのできない
この不思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しひねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたひとつのたましひと
完全にそして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
(『春と修羅 小岩井農場』宮沢賢治)

 というものがあります。〈児童〉なるものが灼身願望を食い止めるものであり、本質は純粋な魂の交流を生きるものであることは前述したとおりです。その“たつたひとつのたましひ”と“完全に永久にどこまでもいっしょに行かうとする”というのはつまり、銀河鉄道の夜では現実に帰還するほか無かった“大きなまっくらな孔”の向こうまでも。

「何が欲しいとか、誰かといたいだなんて、きちんと言葉にしたことがないんだ」
「だったら、私が言う!」
すばるはみなとの胸元を引き寄せた。
みなとがエルナトのマフラーを引っ張った時みたいに、ぐいっ、と。
「私はみなと君と一緒にいたい!私がみなと君を幸せにする!」
(『みなとの星宙』菅浩江)

 すばるの叫びこそが、銀河鉄道の半ばで倒れた賢治の断念を、夢幻の中へ希釈されたカムパネルラの“犠牲”を、そしてみなとを救済する、あまりに素直な言葉でした。

 このシーンが本当に良かった。もちろん『TV版』でも衣装の色調がすばるとみなとで逆転していて、関係性の対比として素晴らしいのです。それが『みなとの星宙』においては、〈科学〉たる側面を主人公として背負わされ、宇宙物理学をさんざん“言語化”してきたみなとが、自分の欲求を言語化できないわけですね。それに対して、自分がなにものなのか、なにものでないのか、さんざん悩み言語化することができなかったすばるが、自己の内面を力強く言語化し、肯定することができるようになっている。
 一緒にいるだけではなく、ともに幸せになるということを。

みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひるわたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいとさういのりはしなかつたとおもひます
(『春と修羅 オホーツク挽歌 青森挽歌』宮沢賢治)

 この青森挽歌という詩の成り立ちについて今更ながら補足すると、賢治の理解者たる妹のとし子が若くして落命した翌年、青森行きの鉄道の中で考えられたものとされています。挽歌と題されているとおり、とし子との離別に対する賢治の考えが表出された作品の最たるものの一つです。そしてその離別は、この詩の最後の一行が『あいつだけがいいとこに行けばいいとさういなりはしなかつたとおもひます』であるように、個人の祈りは大胆な思想の転換によって、超克されるべきものとして描かれています。
 つまり、ひとりだけを祈ってはいけないこと。
 ゆえに、自身やすばるなど、ひとりだけを祈った“チビみなと”は〈エンジンのかけら〉へ到達することはなく、魔法は呪いに代わってしまった。
 ここで語られているのは、一般的に謳われるような、ひとりではなくみんないっしょにいること――離別そのものの否定――とは違い、離別を前提としたうえで、離別した存在だけでなくあらゆる存在が丸ごと“いいとこに行けばいい”というふうに祈るべきである、と。

 エルナトは、みなとがすばるから贈り返してもらった桃色の結晶を、ぴんとすばるのほうへ弾いた 。
(中略)
 リロリンリロリン、リロリロリロ。
「これ……」
 みなとは、まだぴんとこないすばるに、そっと伝える。
「君の妹になるはずだった〈可能性〉だよ」
(『みなとの星宙』菅浩江)

 そう、落命すら果たされることのなかった――生まれることすらかなわなかった――〈可能性の結晶〉たちも、全てまとめて“いいとこに行けばいい”。その思想は根源に『灼身願望/自己犠牲』を超克する射程を秘めているのです。
 賢治一人だけが祈るのなら、それは祈りの主体である賢治自身を救済することができる他者が存在せず『灼身願望/自己犠牲』へと燃え落ちてしまいます。それが、『放課後のプレアデス』――とくに『みなとの星宙』においては、みなととすばるという〈恋人〉――他者の存在によって、相互に存在を祈り祈られることで超克がなされたわけです。
 そして祈りは、そうあって欲しいと望まれた任意の一つを自在に確定させるプレアデス星人の魔法あるいは〈科学〉によって、現実に確定します。
『みんなむかしからきょうだいである』ということの科学的な表現である四十億年前の地球にして絡まる運命線の始点から、すべてのひとのために。

 このように、魂の交流を生きる〈児童〉が、〈科学〉によって延伸した銀河鉄道のレールに乗って、永久にどこまでも――ブラックホールと、量子論論的な魔法を超えた先の、原初の地球から、その四十億年後の世界まででも――いっしょに行こうとする、この〈恋愛〉によって、すばるとみなとは〈夢〉から覚めるように元の世界へ帰還するのではなく、新たな未来へと続く〈私〉を二人で獲得するための動機を手に入れたわけですね。『灼身願望/自己犠牲』という“断念”の克服はこのようにして成りました。

「なに言ってるの、みなと君。みなと君は私と一緒に行くんだよ」
「え?」
 すばるは砂浜を歩いてみなとに近付く。下から見上げてくるいつもの瞳に、みなとはどうすることもできない。
「私、約束したよ。みなと君を幸せにするって。みなと君、思ってたよね。約束は未来を観る望遠鏡だ、って。私たち同じところを覗いて笑い合うんだよ」
「だけど、君の世界にぼくの可能性は……」
「ううん。一緒だよ。元いたところに帰りたいなんて、私たちみんな、ひと言も言ってないよ?名前なんか変わってもいい。姿が変わっててもいい。譲れるところは譲って、譲れないところは絶対に諦めないで、みなと君がみなと君で、私が私でいられる世界を、私、四十億年かけて探す」
(『みなとの星宙』菅浩江)

 ようやく、銀河鉄道の“再開”は達成されたのわけです。これによって最後の〈エンジンのかけら〉の在処にして、賢治の銀河鉄道の限界点であった、まっくらな孔の向こうまでみなととすばるたちは到達するための、〈科学〉という手段と、〈児童〉による灼身願望の止揚から〈恋愛〉という自己犠牲を克服する動機を揃えることができたのです。

 このようにしてなされた、宮沢賢治の“断念”の再開と前進という全景を見せられたとき、僕は泣きそうになったのを覚えています。SFが果たすべき仕事がもしあるとしたら、これがその一つなのだろうと。作品の中で正しく与えらた〈科学〉という役割を全うしたのだと感じました。それは、小説単体だけでなく『みなとの星宙』を含んでなりたつ『放課後のプレアデス』という作品全体に対してもです。

 ものすごく回り道をしましたが、『放課後のプレアデス』という作品を、『みなとの星宙』および宮沢賢治という望遠鏡から覗いたとき、真っ黒い孔の向こうの先に見える停車駅の一つが、この〈恋愛〉というテーマなのではないかと思いました。(『放課後だけの魔法使い!』は〈恋人〉よりもなお“性”を捨象して〈友達〉。『Prism Palette』は残念なことに未完ですがみなとを含めたすばるたちの日常を示唆して終わっています。『YouTube版』は克服こそ描かれないものの、章の冒頭に引用したメインテーマの歌詞や、星を胸に受けたみなとが患者服を着ていたことからも、設定の根幹と銀河鉄道の延伸という主題はすでにそろっていたのではないかと思います)


4-3.まっくらな孔の向こう

 最後は到達した場所についてです。到達について事前にお話しすると、銀河鉄道のレールを延伸し、『灼身願望/自己犠牲』を超克し、まっくらな孔の向こうを探索したとしても、『ほんとうのさいわい』へ到達することはきっとないのです。
 これに関しても、賢治自身が

結論

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
(『農民芸術概論要綱』宮沢賢治)

と結論付け、『放課後のプレアデス』でも、

未完成なまま それでいい
約束の歌を連れて
わたしよ わたしになれ!
(「Stella-rium」『TV版』OP)

 と歌われ、また『アートワークス』内の、四十億年前の地球から分岐する運命線の「生命の樹」への佐伯監督の解説でも

どれだけ続くのかはあえて見せないようにしています。
(『アートワークス』佐伯昭志)

 と語られているように。
 賢治が倒れるまで手を入れ続けたことがすなわち銀河鉄道の夜の未完成という完成でもあり、そのモチーフを継承して延伸させ前進させてゆくという行為こそが、『放課後のプレアデス』という作品がとった賢治への態度であるように思います。
 とはいえ『放課後のプレアデス』にも終わりはあります。『みなとの星宙』にも。
『放課後のプレアデス』という作品の〈科学〉方向の最先端として『みなとの星宙』が指示したみなとの未来にについて、

ぼくは、君に話していない約束があるんだ。
ぼくは宇宙飛行士になる。
今は歩くこともできないし、勉強も雑学ばかりだけれど、精一杯努力して、絶対になってみせる。
そうしてね、君を宇宙へ連れて行く。
(『みなとの星宙』菅浩江)

『宇宙飛行士』とその言葉を僕が打ち込むのは簡単です。けれど、『みなとの星宙』および『放課後のプレアデス』あるいはみなとというキャラクターの最後に、この『宇宙飛行士』というシンプルな視点と展望を配置したのは完璧というより他にありませんでした。
 まず『TV版』ですばるが獲得した視点と時空を、『みなとの星宙』で明かされた賢治との関係から見てみるなら、“内在”とでもいうべきものでした。
 みんなむかしからきょうだいである、ということの科学的な表現である四十億年前の地球で、すばるは再び「私は私になる」ことを選択します。『TV版』第11話のように、賢治の銀河鉄道のように、夢から覚めて離別のまま終わるのではなく。
 未完成なままで、完成に嵌ることなく生き続けること。
 ペルセウス座流星雨の前夜に戻り、あおいとの再会を果たす。たが、その友人との軋轢を感じるも、その世界を生きて行こうとする。私が私であり、輝きながらも嶮峻な世界の内部で、自身もその輝きの一つとしての生を謳歌しているのです。

「銀河の直系は約十万光年。太陽は、中心から三万光年離れた辺境の地。そこに、たまたま惑星系があって、たまたま水が液体で存在できる惑星《ほし》があって、たまたま生命が生まれた。無数の生命の中で、偶然にも知性が持てるものがでてきて、それは偶然にも生存競争を生き抜いた。四十五億年の歴史の中、なんたることか人間が四十七億人にもなったぴったりおなじ時期に、極東の小さな島国の、小さな街で、僕たちが出会った。これがどれくらい低い可能性か考えると、ぼくは、怖い。奇跡とか魔法とか、そんなものにすがりたくなるくらいに、怖い」
(『みなとの星宙』菅浩江)

 みなととの〈恋愛〉の中で示された、この宇宙規模の視野の中においては奇跡的ですらある自分の生の謳歌です。そしてみなとの生を相互に補完し合う、自己の内面の肯定ですね。自分がなにものなのか、なにものでないのか、さんざん悩み言語化することができなかったすばるが、自己の内面を力強く言語化し、肯定することができるようになっているこの表現として、この生と時空はありました。
 この生を獲得することで、『放課後のプレアデス』は終ります。
 なぜなら“放課後”という時空から日常という世界へ飛び出し、“プレアデス”という魔法をもたらす装いを解きすばるへ戻ることで、まさしく“放課後のプレアデス”が終わり、“日常のすばる”がその生を歩み始めるからです。
 章の冒頭に引用した『YouTube版』メインテーマ「放課後のプレアデス」の一節では、星空という言葉が出てきます。これはすばる視点においては、地球から『見上げる』夜空であり、彼女が今までの日常の中で新たな自分を確定させたがゆえに見える景色なわけです。地球という天体に“内在”しているからこそ、この天体の外縁として夜空を見上げる視点になりえるわけです。
『TV版』の最後のカットで、登場人物たちが手をつなぎ見上げていたのが、星空であったように。

 それに対して『みなとの星“宙”』。これはまさしく、地球を取り囲む宇宙から、その天体を包摂するより茫漠とした空間から輝きを見つめる視点です。
 そのみなとが獲得した視点とは、まさしく〈科学〉による発展の視点でした。『地球』という空間の“外部”からの視点です。今生きる場所の内部から〈みんなむかしからきょうだいである〉という視点を獲得しようとすればそれは四十億年前の地球となりますが、宇宙空間という“外部”にして最新の〈科学〉からの視点で見れば今生きる地球もまた一つの惑星という〈みんなむかしからきょうだいである〉であるという視点に立つことができます。
 まさしく宇宙飛行士として、成層圏の外側から地球の眺める視点です。くわえて、銀河を行くという行為の現在の〈科学〉として実現可能な最先端の位置にもなります。銀河鉄道の、現代における最先端の位置に。
 それが明日の生存すら約束されえなかったが故に、進歩と生存を日常とせず新奇なものとして生きていくことができるみなとという存在が獲得し、目指した視点です。
 この視点を獲得することを物語の最後に持ってきたことが『みなとの星宙』の結末として、みなとの物語として、これ以上のものはないと思えるほど、ほんとうにほんとうにほんとうに良かったです。
 地球から星空を見上げることがすばるの“内在”の時空にして生であり、宇宙飛行士として星宙から地球を見つけることがみなとの“外部”の時空にして〈未来〉である。
 大気圏越しに結ばれる視線と〈恋愛〉。そして『TV版』のすばるの最後のセリフが、

「まっててね!」
(『TV版』第12話「渚にて」)

 なわけです。それは『みなとの星宙』によって、宇宙飛行士という夢をかなえたみなとがすばるの視線の先に存在を現わにし、その言葉を受け取れるようになる。『TV版』の最後の言葉が、明確にみなとに向けたものなのだと、示すことができるようになる。
 それは、“そら”を挟んで、二人が見つめ合う――観測し合うという構図になるわけです。ロマンスの暴力が過ぎますね、めろめろになってました。
 この完璧な構図がそろってようやく『放課後のプレアデス』は完結すると、僕はそう思います。

 最後に、〈恋愛〉について、その成就がなされる象徴的な場所は、いったいどこなのか。
 賢治が描いた恋愛の掌編である『シグナルとシグナレス』を引用すると、

「おや、どうしたんだろう。あたり一面まっ黒びろうどの夜だ」
「まあ、不思議ですわね。まっくらだわ」
「いいや、頭の上が星でいっぱいです。おや、なんという大きな強い星なんだろう。それに見たこともない空の模様ではありませんか、いったいあの“十三連なる青い星”はどこにあったのでしょう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね、僕たちはいったいぜんたいどこに来たんでしょうね」
「あら、空があんまり速くめぐりますわ」
「ええ、ああ、あの大きな橙色の星は地平線から今上がります。おや、地平線じゃない。水平線かしら。そうです、ここは夜の星の“渚”ですよ」
「まあ奇麗だわね、あの波の青びかり」
「ええ、あれは磯波の波がしらで、立派ですねえ、行ってみましょう」
「まあ、ほんとうにお月さまのあかりのような水よ」
「ね、水の底に赤いひとでがいますよ。銀水(ぎんいろ)のなまこがいますよ。ゆっくりゆっくり、這っていますねえ、それからあのユラユラ青びかりの棘を動かしているのは、“雲丹”ですね。波が寄せて来ます。少し遠のきましょう」
(中略)
「ここは空ですよ。これは星の中の霧の火ですよ。僕たちのねがいがかなったんです。ああ、さんたまりや」
「ああ」
「“地球は遠いですね”」
「ええ」
(『シグナルとシグナレス』宮沢賢治)[“”は榛見による追加]

 この場所で、みなとが祈った〈未来〉にして、賢治的な恋愛は成就されるわけです――
 シグナルとシグナレスがいる場所はまっ黒なびろうどの夜の先、
 青びかりする棘をユラユラさせる“雲丹”を水底という背景に携え、※
“地球は遠い”と思える場所である宇宙という天体の遍在する空間にして、
“十三連なる青い星”=肉眼では地球から六連星としてしか望むことができないプレアデスの真の姿のかたわら、
 ガイナックスのお約束でもあるSF小説のタイトルからの引用であり、
『放課後のプレアデス』の終着点である『TV版』の第12話のタイトルで予言されているとおり、
 ――『“渚”にて』。

一緒に星を見よう。星に僕たちを見てもらう。本物の、本物の、本物の宇宙でだ。
(『みなとの星宙』菅浩江)

5.おわりに

 ずいぶん長く感想を書いてしまいましが、まだ多くのことに手が及ばず『放課後のプレアデス』全体の感想として書ききるには至りませんでした。特に天文関連の知識は宮沢賢治を学ぶ過程で挿入されていたものを鵜呑みにしている程度で、SUBARUもとい富士重工に関する知識などはほとんど『放課後のプレアデス』のファンサイト等から仕入れたものしかなく、まだまだ作中で描かれた多くのものを解釈しきるには至っておりません。この感想文も、こんなに言葉を尽くしながらも『みなとの星宙』の感想として書いたので、まだ『放課後のプレアデス』全体を俯瞰できるほどの完成度はなく、特に“みなと側の賢治的解釈”であります。なので、宮沢賢治と『放課後のプレアデス』の関係性や、みなとの灼身願望とその克服のためのすばるとの“恋愛”についての解釈、SF小説と児童文学という奇妙な二種類のノベライズに関しては芯を捉えたお話が出来たとうぬぼれているのですが、肝心の『TV版』つまりすばるの物語として見た場合の解釈が欠けています。
 とくに、すばるとあおい、ひかる、いつき、ななこのそれぞれの関係性や、十字星・五芒星・六芒星それぞれの意味、三話の竜巻や、とにかくいろいろです。
 このすばるの物語をこの感想に入れられなかったのは二つの理由があります。
 ひとつは、『みなとの星宙』の感想、というこの文章の本題をはみ出してしまうということ。
 もうひとつは、この文章中で言及したとおり、本来は『TV版』ではあえて“埋没”させた宮沢賢治を、一視聴者が掘り返すことに意味があるのかということです。
 なので、あくまで『みなとの星宙』の感想として筆をおこうと思います。
 ここの感想に書いたことのほかにも、賢治という視点からみることで、その真意が現れそうなものがいくつもあって、それをここで書ききれないことが心残りでもあります。
 例をいくつか挙げるなら、
※『〈エンジンのかけら〉とウニ』:『オーディオコメンタリー』で声優さんたちが、〈エンジンのかけら〉が「台本にウニとよく書いてあった」とおっしゃっているのように、ウニは〈エンジンのかけら〉であり、ウニは賢治にとって生物の発生を司るいきものだった。
『エルナト≒プレアデス星人と雨』:『放課後のプレアデス』においては一貫して“流星雨”という表現が使われるが、“雨”とは賢治にとって周囲と自己の境界を消すものとして認識されていた。
『黒い男と“角マント”』:“角マント”のみなとは黒いマント姿で描かれるが、賢治にとって“黒い男”は他者からの視線を示す強迫観念としてとらえられていた。
 等々……
 また、この文章を書く際、可能な限り感情を抑えて適切な感想を書こうと思ったのですが、終盤になるにつれて感情が押さえられなくなってしまっている箇所があるかと思います。『放課後のプレアデス』という作品そのものにも、その背後に広がっている驚くべき見識と哲学の射程を、本当に楽しませてもらいました。文章中で泣きそうになりましたとか書いてますが、嘘です。何回か泣いてます。
 この文章を書くために『放課後のプレアデス』と宮沢賢治に向かい合った2ヶ月は、榛見個人の中で本当に充実した期間でした。
 数奇な“縁”によってこの文章を書くに至りましたが、『みなとの星宙』の著者ご本人でもありこのきっかけをあたえてくださった菅浩江先生と、佐伯昭志監督をはじめとした『放課後のプレアデス』の制作に携わった全ての方々に感謝いたします。

 榛見あきる







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