足跡日記👣§22 卒業の時節に大学を考える
窓を開けると、一面に銀世界が広がっていた。日本では今日あたりに卒業式をする学校が多いが、今年は梅や桜ではなく、白銀の雪が門出に花を添えるのだろう。これから3月に降る雪は少なくなっていくと思うと、卒業生の中にはいっそう記憶に残る卒業式になるかもしれない。
斯く言うぼくも今日、無事大学を卒業することができた。高校を卒業してから2年の浪人を経て大学に入学し、4年+1年(留学)の学生生活を過ごしてきた。この5年(+2年)間、様々な出逢いがあり、様々な惜別があり、様々な経験をして、様々な思いに浸ってきたが、そんな貴重なモラトリアムも今日で一旦の終止符が打たれることになる。けれど思いの外、今日の空模様のように、心は平然としていた。
卒業するのは勿論ぼくだけではない。ぼくはある学習会の指導員をしている。この学習会は、経済的事由や諸般の事情により通常の塾に行けなかったり、学校に行けない生徒たちに対して無料で開かれているものであり、中学生から高校生を対象に、30人くらいの生徒が週に1回学習しに来る。そして毎年この時節になると教え子に「合格/卒業おめでとう!次の学校でも頑張ってね!」と伝えて手向ける。今年も、3年間指導してきた生徒に、「大学合格おめでとう!」とお祝いの言葉を述べ、「高校までは学ぶことが決まっていて、テストで点数を取る、入試に合格する、といった明確な目的があったけれど、大学は学ぶことは自分で決めるし、目的は将来の自己実現になる。つまり大学は自立/自律を促す場で、試行錯誤を繰り返し、自分の中と外を出たり入ったりしながら、なりたい自分を選択するという自由の場なんだよ。」と付け加えた。
それはぼくが今考えている”あるべき大学”の姿であり、学問の姿であった。とても悲しいことだが、今の日本の大学には生産性や有用性が求められ、それらがなければ科研費は下りず、教授からは苦言を呈される事も少なくない。しかるにケーススタディの蓄積により、中長期的に便益を供する社会科学は並べて研究費が削減され、研究よりも資金繰りに奔走する研究室も少なくない。曰く、日本政府は経済的利益に傾倒するがあまり、大学の自律性を顧みず、大学を生産性向上のための一介の歯車としてしか見ていないようである。こうなると、ビジネス>大学の権力勾配は助長され、企業が大学に介入したり、大学が企業に阿るといった不健全な関係が跋扈している。
ぼくたちは固よりお金儲けの一部として定義づけられるべきではないし、まずもってお金儲けが第一、という考え方だけではイノベーションの多様性は制限されてしまう。研究による生産性の向上は確かに大事だけれど、憲法もそう謳っているように、学問は自由であることの意義を、多角的に考えていく必要があるのではないか。少なくとも教え子のいく学校は、そのような中庸的なセンスを持ち合わせた学校であってほしい。そんな願いも込めて餞の言葉を送ったのだが、彼女は「なんかまた難しい事言ってるよこの人…。」みたいな顔でぼくを見つめていた。
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