足跡日記👣§29 言語化と非言語化の狭間で

 小学生の時、どうしても乗り気にならなかった課題があった。読書感想文である。それは単純に本を読むのが億劫だったからではない。本を読んで感得したものが、言語化によって幾許か捨象されていくような気持、あるいは、言語化したとしても、自分の思考プロセスや読後感は読み手には伝わらないのだろうという諦念を抱いていたためである。また、言語化によってその本が一義的になっていくことへの寂寥感も、同時に感じていた。

 そして今、社会人になって、言語化が執念く求められるようになり、その時と同じような寂寥感を抱いている。事象や感情を伝える際に、機能性や正確性を重視することによって、本来恣意的に捉えられるべきはずの感受をある種淘汰する言語化という行為は、果たして本当に至上のコミュニケーションの様式なのか。寧ろ、それは暴力的なコミュニケーション様式となりうるものではないのか。

 上に書いたように、言語化する意義は、相互間による認識の齟齬を予防するためである。純度の高い情報を、あたう限り相手に伝える。ことビジネスシーンではこれが至上命題のひとつとなるが、ぼくはこれに、一定の違和感を感じる。つまり、「新奇性・革新性が求められる世の中において、画一性を助長する言語化が重要視されるのは、一種の矛盾を孕んでいるのではないか」ということだ。ミスコミュニケーションが、時には遺伝子のコピーミスによるメタモルフォーゼのように、革新性を創り出すこともありうりはしないだろうか。

 勿論、進んでミスコミュニケーションを促進せよと言っている訳ではない。組織が組織たるには、的確なコミュニケーションは必要不可欠である。組織の規模が大きくなるほど、ニューロンのように、緻密で精確な情報伝達が要求される。但し、そのような鉤縄規矩に縛られていては、単一的なアウトプットしか出せないし、恰も自分が標準化された単なる駒のようで、なんとも面白くない。だから時にはあえて言語化をしないことで、生まれる無象を各々の環世界で感得して楽しみ、余白から生まれる無限の可能性に想いを馳せてもよいのではないだろうか、と思っている。

 要するに、非言語により表出する無(あるいは揺らぎ)を楽しもう、という提案である。

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