足跡日記👣§28 シンメトリーな日常、アシンメトリーな自然

長針は午後6時を回り、漸く暑さも収まってきた。お日様はやおら暮れ泥み、オレンジ色の光が水面を照らしている。井の頭公園に降り注ぐ暖かい光は、ぼくの心をそっと撫で下ろすようだった。

一角にあるベンチに腰を下ろし、バッグから鉛筆とスケッチブックを取り出す。見上げると、青い空、新緑の木々、オレンジ色の池、焦茶色の土が、まるで一つの絵画のように眼前に映っている。ぼくは鉛筆を手に持ち、その風景を恍惚と眺めた。

まずは道を描く。そして池を巡る柵を描く。その手はすらすらと、流線を遺していく。ほっと息を吐き、さて、次は木々を描こうと思ったとき、ぼくは唖然とした。

(どう描いたらいいのだろう…。)

ぼくはその木をどう描けばいいか、皆目見当がつかなかった。今までは川の流れに順うメダカのようにスラスラと動いていた右手は、それが嘘であったかのようにピタッと止まって凍りついてしまった。

人工物は機能性を重視するため、無機質で対称的な物が多くなる。日常を彩る机も椅子も皿もフォークも、その殆どは対称的、あるいは線形or幾何学的で、非対称なものはノイズとして省かれている。さっきまで描いていた道や柵が描きやすかったのは、それらが無機質で線形的なものであったためだ。

一方、自然は非対称的なものが多い。木はまさにその好例だ。幹からは泰然と枝が伸び、無数の葉が萌えている。幹の下には無数の根っこが、地中に張り巡らされている。

それが人間のために作られたとしたら、それは殆どがノイズの駄作だと烙印を捺されるに違いない。だが、その木々は生に満ちている。その非対称性こそが私なのだと、高らかに主張しているように聞こえる。なるほどそれは、凡そ人間の手には馭しがたい。本当はデッサンを完成させたかったけれど、ぼくは諦念し、鉛筆をそっと筆箱にしまった。

けれども、心は晴れやかだった。まるで生き方を教わった気がした。いつもは都市社会において機能的であることが求められ、標準的(対称的)であることが求められる。そんな最中、自然は、意のままに伸びやかに、個性的(非対称的)であってもいいのだと、ぼくに円かに諭してくれたようだった。

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