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花の燐光

目次

 植物は好い、そう思う。彼らはものを言わない。静かなままで、ただそこに在る。それが植物の好いところだ。或る青年は薬草を煎じながら、そんな風なことを考える。人は、熱にうなされているときですら、何かものを言わねば気が済まぬ生き物だというのに。
 ――薬士として、もっと多くの人の役に立ちたい。もっと広いところで人と関わって、薬士としての視点を豊かにしていきたい。……そう言って彼が家を出てから、数か月の時が経った。俯いて薬草を磨っていたせいで、少しばかりずれた黒縁の眼鏡を指先で押し上げながら、彼は隣で座り咳き込んでいる、まだ幼さの残る青白い顔をした少年を横目で見た。
「――苦しいかい?」
 その言葉に少年は顔を上げ、どこか照れ臭そうに微笑んだ。若草色の瞳が、続く咳のせいで薄く涙に濡れている。
「だい――だいじょうぶ……だいじょうぶ、じゃないかも……。ごめんね、ツタバさん。ぼくが長くはないって、町のお医者さんから聞いたよね? 自分のことだから、何となく……分かるんだけどね……お母さんのこと、考えるとさ……少しでも、少しでも生きていたいんだ」
「……分かるよ。僕で良かったら力にならせてくれ」
「うん――ありがとう、ツタバさん」
 分かる、と口では言いながら少年のその気持ちが全く分からないことに、心臓の奥で毒の蕾が花開くことを彼は感じた。こんなに辛そうな顔をしてなお、その人のために生きる価値がこの子の母にはあるのだろうか。煎じた薬草を湯で煮出しながら、彼は自分の母のことを思い描いてみた。自分、ツタバのことを産み、育てた穏やかな母の姿を。母は時に厳しいこともあるが、優しい人だ。良い母だ、と思う。だが、母のために生きることはできるだろうか。死ぬことはできるだろうか。ツタバは心の中だけで首を左右に振った。できないだろう。どうにも自分は親不孝者らしい。
「咳止めだよ。……苦味はできるだけ抑えたつもりなんだけど、少し苦いかもしれない。ちょっと、我慢して飲んでくれるかい?」
 少年は頷いて、薬湯が入った鉢をツタバから受け取った。襲ってくるだろう苦味に立ち向かうかのように眉間に深く刻んでいた皺と強く瞑っていた目は、薬湯を口に含んだ瞬間和らいで、少年は何度か瞬きをした。
「え――あれ?……苦くないよ、ツタバさん、ぜんぜん。今までお医者さんから渡されてた薬はどれもこれも叫びたくなるほど苦かったのに……」
「ほんとう? 良かった。でも、じゃあ……口直しも用意しておいたんだけど、いらないかな?」
 ツタバが言いながら、透明な器に花の香りが立つ茶を注いでみせると、少年の若草色の瞳がきらりと輝く。ツタバは少しばかり悪戯っぽい顔をして、少年に香茶の入った器を渡した。
「いいにおいだね、ツタバさん」
「君のお母さんが育てていた花を少し分けて頂いたんだ。イルカソウっていうんだけど……知ってるかい?」
「うん、知ってるよ。蕾がイルカの形に似てるんだ……ぼく、その花が好きだから……こうして飲めて嬉しいなあ。もっと早くに知りたかったよ。あのね、ツタバさん、ぼく……海に行って、イルカを見てみたいんだ。本や絵の中のじゃなくて、ほんものを……。ねえ、きっと見に行けるよって言ってくれる?」
 透明な器に入った香茶が花の香りを纏って揺らめいた。立ちのぼる湯気により視界が曇ることを避けるために眼鏡を床に置いたせいで、少年が今、どんな顔をしているのかがよく見えない。ただ、少年の優しい色をした卵色の髪と、光を宿した若草の瞳がやけに眩しかった。それは、もうすぐ世界から溶け消えるであろう小さな命が放つ色とは思えないほどに。ツタバは哀しいような、また羨ましいような気持ちで少年のぼやけた輪郭を見つめ、穏やかに微笑み口を開いた。
「――きっと、見に行けるよ」
「……ありがとう。ツタバさん、ぼく、ちょっと眠たくなっちゃった」
「香茶にイルカソウを遣ったからね。咳がひどくてよく眠れないって言ってたろう? 僕特製の香茶を飲んだんだ、今日はよく眠れるはずだよ」
「そっか……。ツタバさんは優しい人だね」
 ツタバはそれを聞くと漏らすように笑い、小さく首を左右に振った。
「優しくなんてないさ。僕みたいに何にでも手を差し伸べるような人間に、優しい人なんていないよ」
「……そうかなあ」
「そういうものだよ」
 少年は考えるように手を口元にやっていたが、しばらくすると思い直すように首を振った。気を抜いたら眠ってしまいそうなのか、少年は片手で目を擦り、それからツタバの腕を両手で掴んで、彼の両目を見つめた。少年の目は強い色を宿している。それは、ツタバのぼやけた視界の中でもよく分かった。
「――ツタバさんの薬は苦くなかったよ。ツタバさんの香茶はすごく美味しかった。ツタバさんは海に行けるってぼくに言ってくれた……。ねえ、ツタバさん。ツタバさんは薬士さんだ、ぼくの口に薬だけつっこんで、そのまま何も言わずに帰ることだってできるんだよ。でもそうしなかったのは、ツタバさんが優しいからだろう?」
「……僕はね、そんなにできた人間じゃないよ」
「みんな、そうじゃないの? ぼくだってだめなところの一つや二つくらいある。たとえば……死んじゃいたいって思う日も……確かに、あるんだ……。何もかもカンペキな人なんて、きっといないよ、きっと……。ツタバさんは少しくらい、ぼくのことを想ってくれたんだろう? だから、薬も香茶も海のことも……ねえ、それって優しい――優しいことなんだよ。そう思う……ぼくはそう思うんだ……」
 言葉が尻すぼみになっていくと同時に、少年はツタバの腕を掴んだまま、寝息を立てて眠ってしまった。ツタバは掴まれていない方の腕で床を探り、眼鏡を指先に見付けると、それを掛けて静かに息を吐いた。眼鏡越しに見る少年の肌はやはり病に侵され青白く、卵色の髪には幾つか白い糸が混じり、伏せられた瞼の下には深い影が落とされている。先ほどまで感じられていた命のともし火、その眩しい光は最早そこには残されておらず、ツタバの腕を掴んでいる両手はただ幼く、また、ひどく小さなものだった。
 ……それから少年は三日後に亡くなった。それを聞くと同時にツタバは町を旅立ち、次の町へ向かおうと石畳の道の上で歩を進めた。少年の墓に供えようと思っていたイルカソウは、未だ彼の手の中に在る。新たな町までもう少し、というところでツタバは踵を返し、そこから何日か行ったところに在る海辺へと行先を変えた。
 植物は好い、つくづくそう思う。彼らはものを言わない。静かなままで、ただそこに在るのだ。余計なことも、何も言わずに。よく言葉を躍らせていた口が、余計なことすら何も言わなくなり、青白かった顔が更に青白くなることもない。涙が出ない、そんな自分の心の冷たさを涙が出るほど嫌になることもないのだ。石畳の道で、蕾がどこかイルカの姿に似ている花が咲いている。それは暖かな風に吹かれ、ものも言わずにただ、静かに揺れていた。


20160503
シリーズ:『仔犬日記』〈冷たい森〉

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