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透きとおる秘密をあげよう

目次

 光の浮かぶ青空から、透き通った雫が降りてくる。
 それにしても、天気雨とは。透明な傘を差した彼女はそう口の中で呟いた。
 白の雲から降りてくる光と雨粒が傘の上で踊っては地面に落ち、そこかしこに咲く草花を歓ばせる。空を見上げた額にかかる、陽光に照らされる木の幹の色を湛えた髪の一房には一滴の雫。それを指で掬い取ってから、彼女は生い茂る草花の間に光る、白い道へと歩を進めた。
 此処にこんな道が在っただろうか、と歩きながら彼女は思う。いいや、在ったのだろう。そう、自分が気付かなかっただけで。この草花は一日やそこらで土から生まれ出はしない。
 彼女は咲き誇る緑たちから目の前の白い道へと視線を移した。草花の間に白く示された一本道はまるで、こちらへ来い、そう誘っているかのようだった。
 この白い道を抜けると一体何処へ出るのか、まさか迷ったりはしないだろう、そんな風に淡い期待とぬるい不安を心に宿して彼女は道の先を追っていく。
 歩くうちに、彼女はふとした違和感を覚えて立ち止った。
 此処に生えている植物。よく見かけるものたちばかりと思っていたが、どうやら違うらしい。植物のことには少しばかり自信がある彼女は、白い道に沿って生えている植物たちを一瞥した。
 彼女の瞳に映るのは、プラブル――元々花を咲かせない植物である――に小さな菫色の花が咲いているもの。猫の髭に見える植物、その髭の色が深い青を湛えているもの。ミャコマに至っては赤いはずのその実がすべて真白に染まっていた。彼女は小首を傾げ、心の中で呟く。
(私が知らないだけでこういった品種もあるのか、それとも――)
 振り返ると、そこまで歩いていないはずなのに、帰り道がひどく長いもののように思えた。ぽた、と彼女の頬から落ちた水は果たして雨の雫だっただろうか。
 ともかく、道なりに行けば何処かしらには出るだろう。そうであってくれなければ困る。彼女は口の中でそう呟きながら歩を拾う速さを上げ、道を進んでいく。
 それから数十歩進むと、いきなり目の前に道が開けた。そのことに驚く間もなく、天気雨が降る空の陽光が彼女の目を刺す。そのせいで白色にちかちかする瞳の奥で捉えたのは、小さな丘。どうやら歩いてきた細い道は、この丘に続いていたらしい。彼女は、おかしなところへ辿り着かなくてよかった、と安堵の息を吐いた。それと同時に、ほんとうに今までこんなところが在っただろうか、そんな考えも頭を掠める。彼女はその考えを振り落とすかのように小さく首を振った。
 顔を上げると、丘の上に一人の女性が立っていることに彼女は気が付いた。少しだけ丘に近付いてみると、その人の髪は深海の色を湛え、丈の長い白のワンピースを身に纏い、白い傘を手に持っていることが分かった。何故、差さないのだろう。そう疑問に思いつつも元来た道を帰ろうと彼女が踵を返そうとしたとき――恐らく距離を詰め過ぎてしまったのだろう――深海の髪をもった女性が振り返り、彼女の目を捉えた。あの白いワンピースがこちらへ翻るとは思ってもみなかった彼女は、驚きで肩を震わせ、口から心臓が飛び出る勢いだった。
 こちらを見て微笑んでいる深海色に困り果てた彼女は、何か言わなければと彼女の手にある白い傘に目線を落とし、少しばかりくぐもった声で言った。
「あの、傘――差さないんですか……?」
 彼女のその言葉に、深海色は髪を揺らして笑う。
「傘?……ああ、これね! そう、これね、日傘、日傘なんです」
 穏やかに笑うその人の何処までも深い青の髪の先から、雨の雫が一滴地面に落ちた。口元に穏やかな笑みを湛えながら、その人は続ける。
「ところで、あなたは? 散歩ですか? あたし、最近この辺りに引っ越してきて――まあ、それはいいかしら――あなた、もしかしてあの白い道を通ってきた?」
 彼女が頷くと、深海の人は口元で両手を合わせて微笑んだ。弧を描いた瞼から、花曇りの空の色を宿した瞳がきらりと輝いている。
「あらあら、やっぱり!――じゃあ、帰りは別の道を通った方が良いでしょうねえ」
「え?……どうして、ですか?」
「まあまあ。世の中には、不思議なこともあるってことで手を打ってくださいな」
 彼女の瞼の裏に、先ほど辿ってきた道沿いに生えていた見たこともない植物たちが浮かんだ。あまり考えない方が良いこともこの世にはあるのだろう、そう思いながら彼女は再び頷く。
「あの道を辿ってきた、ということは……あなた、生き物がお好きな方、なのですね」
「生き物、ですか?」
「ええ。それにあなた、命のにおいがしますもの。それもたくさん、たくさんよ」
 嬉しそうに髪を揺らす深海色に、彼女は心に疑問符を浮かべる。
 ――命のにおい。
 彼女は言葉の続きを待つように深海色を見上げた。
「土のにおい、草花のにおい、海のにおい、時折、血のにおい。そういうものたちの、におい。それが命のにおい。それがあなたからはする」
「どうして――」
「分かるのかって?……どうしてかしら。それはね、きっと、あたしも生き物を扱うからよ。分かると思う、あなたになら」
 何が、と思う前に目の前の人から海を感じた。白いワンピースが揺れる足元には穏やかに打ち寄せる波、深海の髪を吹き抜ける風には潮の香り、声からはイルカがカモメを呼ぶ音が、瞳には生を求める魚の姿が。
 彼女は顔を上げて口を開こうとしたが、それより先にカモメ呼びの声が彼女の耳へ泳いできた。
「正解、正解! きっと会えると思っていたわ、あなたのような人に! あなたに!」
 そういうとその人は、彼女の手を取って走り出した。白の布が風をはらんで揺れている。手を取られた拍子に転がった透明な傘を拾う間もなく、彼女は未だ降る天気雨にやさしく叩かれながら深海色に、何処へ、と疑問を投げ掛けた。深海色が振り返って笑う。
「あら、もちろん海、海ですよ!」
 何て変で、不思議で、おかしな人! 彼女は心の中で声を上げた。これならばあの道、白く光るあの道が不思議の国へ繋がっていた方がましだったかもしれない。そう思いながらも彼女の口元には笑みが浮かんでいるのだから、これもまたおかしなことだ。そう、世の中には不思議なこともある。彼女は陽光に輝く雨粒を浴びながら言った。
「あの、あなた――お名前は?」
 振り返らず、しかし楽しそうに――きっと花曇りの瞳がきらりと輝いたことだろう――深海色は答える。
「――雨が上がって、虹が架かれば、そのときに!」
 恐らく雨はもうすぐ上がる。そして白い光を浴びながら、七色に輝く虹も空に架かるだろう。彼女はそれをほとんど確信していた。そう、世の中には不思議なこともあるのだから!


20160224
シリーズ:『仔犬日記』〈ドッグ・イヤー〉
※灯さん(@Sima_Mayoress)をお借りしました!

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