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暗やみにて星の名を

目次

 夜の闇に瞬く星々、その中で青く煌めいた一点を指差して、青天の空の色、はたまたそれを映した海の色の髪を揺らして少女は青年に問う。
「――ねえ! あの星は何て名前?」
 星を観ることが趣味の青年だ、きっとあの星の名前も知っているに違いない、きっとそんなような思いで少女はその問いを発したのだろう。しかし一転、青年はその問いには答えることができなかった。彼はその答えを持ってはいなかったのだ。
 少女の指差したその星は自らの名前を言わず、ただ、ちかりと青く煌めくばかりだった。


 黒を湛えた瞳の奥に残る、青い光を彼は想う。
 空色の少女が発した問いに、彼は答えられなかった。それもそうだろう、彼は天文学者でも占星術師でもない、星を観ることが趣味というだけのただの青年だ。名前を知らない星や由来を追っていない星座も多い。そうだ、当たり前だ、答えられなかったからといってそれが悪いわけでもない。そう喉の奥で彼は言い訳を吐いた。そうだろう、おれは天文学者じゃないんだ。知らないこともある、ましてや答えてやる義理もない。
 ちらつく青い光と澄んだ空の色に悪態をつくその心とは裏腹に、彼の指は床に置かれた星座図鑑を捲り捲り、あの星光を探している。
 闇に煌めいた一点の青、それを見上げる少女の瞳も闇の色を映してはいたが、その黒の輝きといったら! それはさながら黒水晶、水溜まりに映る星空の色、夜に塗れない黒猫の美しい毛並み。彼は見付けられない星の名を心臓の奥で罵りながら、短く息をついて瞼を閉じる。彼の瞳もまた、闇の色を宿した黒を湛えていた。だが、どうだろう、自分の黒は? まるで濁った泥の色、青白い顔をした人が纏う喪服、焦げついた炭のようではないか? 彼は瞼を持ち上げて、今度は溜め息を吐いた。
 彼は再び図鑑の頁を捲る。その指に向かって、心臓の奥に棲む真黒の鴉がつんざくような声を上げた。
 ――あの星の名を追うのは、誰のため!
 その問いに、彼は口の中で返事をする。
(誰のためか?……おれのためだ)
 ――そう、おまえのためだ。その星の名を教えてやりたいという、おまえのためだろう。違うかい? ねえ、違うかい。
 その鴉の声は、逝った幼馴染の声を孕んでいた。肺が凍るような痛みを感じて、彼は目を閉じる。
 ――そうやっておまえはわたしのことを忘れていくんだね。忘れていくんだよ、そうだろう。わたしの痛みも知らず、わたしの苦しみも知らず、わたしだけを忘れていくんだ。一人だけあたたかい陽に照らされ、やさしい稲妻に照らされ、易々と青い羽を手にし、そしてそう、おまえはわたしだけを忘れる!
 未だ声を上げ続けている鴉を瞼の裏で一瞥して、彼は自分へ向けて呆れ笑いをした。首を振って心の中で呟く。
(……あいつはこんなこと、言わないだろ)
 彼は目を開けて、窓の外を見た。
 どうやら、もうすぐ日が暮れるらしい。彼は山のように積まれた図鑑を一瞥して、息を吐いた。
 本棚を引っ繰り返したときは、早く、ただ早くと思っていたのだ。夜がやってくる前にあの青い星の名を、と。どうにも彼はそうしないといけないような気がしていた。
 だが、それは違ったらしい。恐らくあの星に名前はないのだろう。彼は眠っていないせいで霞む視界に眉根を寄せつつ、そう思った。或いは名前があったとしても、それは自分には見付けられない、遠い遠い名前なのだ。
 彼は溜め息を吐きながら、斜陽のかかる木の床に寝転がった。
 ならば、とどこか不鮮明になっていく思考の中で想う。ならば、名前を付ければいい。誰が? おれが?――違う、名前を付けるのはいちばん最初にあの青い光を捉えた者。澄んだ空の色が霞む瞳の端でちらつき、溶けた。真黒の鴉が何も言わないのは、おれが微睡みはじめたからだろうか。ああ、黒に瞬く星々は、寝不足の瞳にさぞかし沁みることだろう。
 薄れていく陽の光に、彼は夜の訪れを感じた。
 あの星は、いつの時代の光を煌めかせているのだろう。あの星は、どんな形をしているのだろう。あの星は、どんな名前をもらうのだろう。
 どんな名前をもらったとしても、あの星は今日も青く煌めく。それは確かなことだった。だが、心臓の隅で彼は願う。あの青が、落ちてしまわぬよう。あの青が、消えてしまわぬよう。
 瞼を閉じ切る寸前、瞳の奥で煌めく青の光を見る。
 そうして夜のにおいを想いながら、彼はゆっくりと、柔らかい眠りの底へ潜っていった。


20160222
シリーズ:『仔犬日記』〈ドッグ・イヤー〉
※あおいちゃん(@stardust_26_)をお借りしました!

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