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またたきを飲む魚

目次

 硝子張りの壁、白く清潔感のある床、何処か無菌室のようなその建物は一般的に図書館と呼ばれる建物であった。毎日のように此処へ通っている少女は時々思う。此処は歴史の化石たちが眠るには明るすぎる、と。
 朝日が硝子を通して少女がもつ深海の髪を白っぽく輝かせた。柔い粉のような光は図書館を照らす。その光がつくり出した影の一角に彼女は歩み寄り、膝立ちのようなかたちで座り込んだ。
 光の当たらない昏いところで、多くの本が埃を被っている。彼女はその中の一つを手に取り、長いこと開かれていなかった頁を捲った。所々紙と紙がくっついてしまっている。彼女は一つくしゃみをして思った。こんなところにでも埃は溜まるのね、と。
 彼女が手に取ったのは何の変哲もない、ただの魚類図鑑であった。頁を捲っても捲っても、思考は文字や写真の上を滑っていくだけだったが、海の近くで生まれた彼女は心臓の奥で海を、潮の香りを求めていたのかもしれない。図鑑からは、かびた紙の匂いしかしなかったが。彼女は立ち上がり、花曇りの色をした瞳を一度硝子壁の外へと向けた。此処に海はいない。
 この本の館に自分以外の客は滅多に来なかった。それもそのはず、この図書館は彼女の祖父がひっそりとつくり上げた彼の書庫なのだから。この場所を知っているのは彼女と、彼女の祖父と親しい者のみ。一人でいることが好きな彼女にはうってつけの隠れ家だった。そのはずだったのだ。
 頁を進めて獰猛な海の王者の隣を通り過ぎ、淡水魚の美しい尾鰭を眺め、生きる化石の奇跡をなぞる内に彼女は微睡んでしまったらしい。意識を水面に浮かせたときにはもう、白かった朝日は赤い花びらを撒き散らして彼女の頬や髪を淡い赤黄色に染め上げていた。半ば慌てて頭を上げると、彼女の花曇りが他の丸い瞳とかち合った。
「……ああ、起きた? 君のね、お祖父さんから多分ここだろうから見てきてくれって頼まれたんだ。そしたら君、寝てるからどうしようかと思ったよ」
 明るい調子で目の前の少年が捲し立てる。本の頁を勢いよく進めるような口調にぼんやりとした頭で彼女は答えた。
「――誰?」
「誰、って? ああ、そっか。そういえば話したことなかったっけ? 君の家の近くに住んでるんだよ。君、海の近くの――カモメ岬の家の子だろ。カモメじいさん――君のお祖父さんとはよく話すんだ。君は知らないだろうけどね。いつも窓から海を見てるの、君だろう? 外に出てきたら話してみようと思ってたんだけどさ、君、全然出てこないから! 海が好きなら浜辺に行けばいいのに、いっつも窓から眺めるだけ。それって楽しいかい? あ、でもここにはよく来るの? カモメじいさんは君が外に出たときは十中八九ここ、みたいな言い方してたから」
 言葉が波になって彼女に覆い被さった。波を受けて濡れそぼった彼女の肩が震える。ひんやりと涼しいはずの部屋の中で、彼女の頬に汗が伝った。それは斜陽のせいか、それとも目の前の少年のせいか。
「……海を」
「ん?」
「海を、見てるだけなのは……海に近付くのが、怖いからです」
 彼女が何とか絞り出した声はひどくか細いものだったが、この硝子の館が静かなおかげだろう、透き通った音で少年の耳まで届けることができた。少年は怪訝な顔をして卵色の髪を揺らす。
「なんで?……ああいや、ちょっと分かるかも」
「潮の香りと血の匂いは、似ていやしませんか。……波が打ち上げるのは、貝の亡骸ばかりでしょう。海は、死の匂いがするんです」
 おかしなことだった。初対面の人間に話すようなことではなかった。それなのに何故か、少年の卵色を見ていると喉の奥から言葉がするすると出てきてしまうのだ。そんな自分を他人事のように見ている自分がいることに彼女は気が付き、そのおかしさに眉根を寄せた。
「まあ、確かに……海は怖いところだと思うよ、ぼくも。でも君、それ以外の海の表情を見たことがあるかい? あるだろ、夕焼けが海を赤く染めたり――そら、今の君の髪みたいにさ――月明かりで水面がきらきら輝くのを」
 少年の若草色の瞳が輝いている。少女は広げていた図鑑の一文をなぞるふりをして視線を机に落とした。
「ない――いえ、多分、見てなかった」
「ええ? いっつも海を眺めてたのに? じゃあ一体君は何を見てたのさ、空気?」
 からかうように彼がころころと笑った。彼女の深海色の髪が揺れ、花曇りの瞳は閉じられる。
「……海が怖いのは、母が血にまみれて死んだから。海の匂いは……そのときの匂いに似てるから。海を眺めていたのは母が海を好きだったから。あたしは海を眺めていたんじゃないわ。分からないけど、きっと母の面影を眺めていたの」
「じゃあ君、海が怖いわけじゃないんだ。人が怖いんだろ、どう?」
「さあ……母さまが死んでこっちへ来てから、お祖父さま以外とほとんど話さなくなったから……お祖父さまは怖くないわ、もちろん」
「ぼくは?」
「よく話すなあ、とだけ」
 彼が何か話すたびに、彼女は身体の何処かにある扉を叩かれるような気持ちになった。何となく速く感じる鼓動を抑えるため、図鑑の魚たちを自分の脳に食べさせる。ベタ、コイ、キンギョ、ネオンテトラ、ネコザメ、ナポレオンフィッシュ。効果はない。
「綺麗なものもたくさんあるよ、海には。落ちてるシーグラスとか、何かよく分からない白い石……化石か何かかな、拾うの楽しいし。それを見てからも遅くないだろ、海を怖がるのは。というか、君はもっと外に出た方がいいよ。肌白すぎだし、お化けみたいだ」
 少年の髪が斜陽に照らされて白く輝いた。それに反して彼の頬は夕日で朱く染まっている。彼は言葉の海を泳ぐ魚のようだった。彼の言葉が月明かりに照らされてきらきらと光る水面のように輝いて聴こえた。彼女は小さくくしゃみをして、図鑑を閉じた。彼女の瞳が頼りなさげに、けれど確かに彼の瞳を見つめた。
「――あなた、名前は」
「次に会ったら教えてあげる。君の名前もそのとき聞くよ。――明日、海を見に行こう」
 そう言って少年は彼女の横を通り過ぎ、本の館を出ていった。彼女は、彼のいなくなった空間に卵色と若草色を見た。水槽から水が溢れるように、肺から空気が、心臓から血が溢れ出しそうだった。彼女の朱に染まった頬は果たして斜陽のせいか。とにかく明日晴れればいい、彼女はそう思いながら閉じられた図鑑の表紙を撫でていた。


20151118 
シリーズ:『仔犬日記』〈白いるかの泪〉
タイトル:alkalism

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