見出し画像

オムレツに落書きしたの、ないしょね

目次

 ことこと、ぐつぐつ、とんとん、新しい朝には食器と食材がキッチンで踊る音が聴こえてくる。
 オムレツの焼ける香ばしい匂いと、昨日の内に煮込んでおいたジャムが入った鍋の蓋を開ける音、そしてブラックペッパーを手に取る鼻歌。母の奏でるそれらの音楽を目覚ましに、ぼくはすっかりお腹を減らし、今日の天気と朝食に胸を躍らせ、急いで階段を駆け下りた。
「あら、おはよう! 朝ごはんの香りで目が覚めた? まったく、食いしん坊さんね!」
「おはよう、ママ。よそ見してるとそのチキン、ブラックペッパーのかけ過ぎで辛くなっちゃうよ。ぼくたちだって、ママみたいに辛いものばっかり食べられるわけじゃないんだからさ」
「もう。分かってるよ、ほんとにきみは私よりしっかりしてるみたい!」
「こういうの、はんめんきょうし、っていうんでしょ。この前、ママの部屋にあった……ナントカっていう本に書いてあったよ」
 ぼくがそう言えば母は、ひどいなあ、と笑いながら、今朝庭で採れたのであろう、つやつやのオレンジをこちらへ投げてよこした。オレンジを絞ってジュースを作るのは、ぼくの朝の仕事だ。ジューサーの置いてある、母の隣まで小走りした。
「そうだ。ねえねえ、お昼には友だちを呼んでいらっしゃいな。昨日、釣りが得意な私の友だちがたくさんお魚を置いて行ったから……みんなが大好きなフィッシュサンドがいっぱい作れるの!」
「それはいいけど、ママ。ぼくら子どもに肝心なのは、とびっきりのデザートだよ」
「ガトー・オ・ショコラとアップルパイ!」
「――乗った!」
 そんなやり取りをしている内に、チキンの入ったオーブンが、早くしろ、と大声を上げた。その声にぼくと母の頬は一気に高揚し、ぱたぱたと急いでオーブンの扉を開けた。
 カリカリに焼けた、少しばかりスパイスの効き過ぎの特製チキンに、母は楽しそうにナイフを入れる。それを横目に、ぼくはキッチンの窓を開け放った。朝食たちに窓の外の空気が、おはよう、と挨拶をし、それらは朝の香りになる。
 一日が始まることはこんなにも楽しく、嬉しいことなのだと知っているのは、きっと世界中でぼくらだけなのだ。不意にぼくはそんなことを思った。それを感じ取ったのか、母はぱっとこちらを振り返って、まるで少女のように微笑んだ。
「じゃあ、じゃんけんで負けたほうが起こしに行くのよ」
「起こしに行くって、もしかして?」
「もちろん、寝起きがとっても悪いお寝坊さんを!」
「いいよ。でも、ママはじゃんけん強いからなあ」


20140710
シリーズ:『仔犬日記』〈ドッグ・イヤー〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?