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雨声

目次

 灰の雲が星を覆い隠す夜だ。
 砂浜の岩陰に腰を掛けてぼんやりと海を眺めている彼は、星の見えないこういった夜を、海を眺めて過ごすことにしている。
 目を細めると、海は空に似て見えた。昼間は穏やかな海も夜が更ければ表情を変え、漆黒を湛え始める。雲の隙間から漏れる柔い月の光が、水面を控えめに輝かせ、それはまるで空に瞬く星たちのようだった。
 そうして時間が過ぎるのを待っていれば、ふと、彼は風が近くで静かに巻き起こったのを感じ、反射的に顔を上げた。
「あまり夜の海を見つめてはいけませんよ。呑み込まれてしまうかも」
 上から声を降らせるのは彼の見知った人物であり、彼女を一瞥すると彼はまたぼんやりと海を眺め始めた。彼女がこういった風に突然現れることにも、彼は何となく慣れてしまっているのである。
「……あなたですか。幽霊かと思いましたよ」
「いやだわ。幽霊なんて信じていないくせに。今日は星が見えませんから、きっとここにいらっしゃると思ったんです。夜の海は星空に似ていらして?」
「星空の方が何倍も綺麗ですよ。……曇ったから、仕方なく」
「あらまあ、手厳しいことね」
 口元に柔く消え入りそうな笑みを浮かべた彼女は、やはりどこか幽霊のようだった。呑み込まれてしまいそうなのはどっちだ。彼はそう口の中だけで悪態をついた。黒い海に浮かぶ光の粒が少しずつ影を潜めていく。どうやら、厚い雲が月の光を遮り始めたらしい。
「……で、何か用なんですか」
「それ、あなたの口癖なのかしら? あたしにはあまり可愛げのないものに感じられるけれど」
「俺はあなたに可愛げを感じてもらう必要がないですから。……で?」
「一応、知らせに来たんです」
 何を。彼がそう言葉にする前に、彼女はおもむろに彼の目の前で白い傘を広げて見せた。
 白いそれが夜の色に溶けて、空に広がる灰の雲のように見える。その色は、目の前の人の瞳の色によく似ていた。
「何を。雨も降っていないのに傘なんて」
「これから降るんです。分かりません? 海の香りとは違う、雨のにおい」
「……つまり雨が降るから、帰れと」
「いいえ? どうせ言っても聞かないでしょう、あなたのような人は。傘もあたしの分だけしか持って来ていませんし」
「……じゃあ、何をしに来たんですか」
「あら、言ったでしょう。知らせに来たんです、雨が降るって」
 それだけ言うと、彼女は踵を返し砂浜を後にしようとした。しかし、四歩進んだところで一度立ち止り、こちらを振り返らずに何かを呟く。その言葉は夜の闇に溶けたように感じたが、彼の耳だけがそれを拾うことができた。
「かなしみというのは良いものね。傘を差さずに済むのだから」
 ぽつり、彼の瞼の上に滴が落ちる。
「――雨、のにおい」
 彼はそう呟き、光の粒が見えなくなった海を見ていた。


20151024
シリーズ:『仔犬日記』〈ドッグ・イヤー〉

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