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何処かで生きていたらいい

なんの偶然か、親しい人を急に亡くした経験のある人と話す機会が立て続けにあった。

親しい人を急に亡くすという経験は、多少なりとも共通の心理状態をもたらすのかもしれない。何年もそこにあったものが無くなると違和感を覚えるように。

私自身よくあるのは、自死した親友が実はこの世界のどこかで幸せに生きているのではないか、という想像(妄想?)だ。勿論、骨壷も見たし一周忌でお線香もあげに行ったから亡くなっていることは理解している。

街中で親友に顔が似ている人とすれ違うと、わざと振り返ってその人を見送る。もしかすると彼女なのではないか。私に気付くのではないか。そんな事を逡巡しているうちに、似ている人は雑踏の中に消えていく。

先だって、私より先に生まれたはずの彼女の年齢を追い越した。これからも私ばかり歳をとっていくのだと気付いて、身体を持て余す感覚を覚えた。彼女の親ほどの年齢になったとき、私たちの関係は変わるのだろうか?もし子供ができていたら、娘に対する愛情のような感覚も友情の中に混ざるのだろうか?

親友が不在の生活にも徐々に慣れてきた。慣れという感覚は人間が生きていく上で必要な感覚なのだと改めて思う。一種の自己防衛なのだと。

彼女の両親との会話で印象に残っていることがある。亡くなるまでずっと絶縁状態だったから、ある意味では彼女の不在に慣れ始めていたという話だ。「〇〇(最後に住んでいた地名)にいるか、どこにもいないか」と悲しそうに呟いていた。確かに彼女はどこにもいないのだった。しかしどこにでもいるのだった。私は私の親友が今もこの世界のどこかで、この宇宙のどこかで幸せに暮らしていると願ってやまない。

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