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読書感想文

中学校ではまあ体育のチームで余り英語のペアワークで余りをままやってきた私だが、今はその時の半端なぼっちの絶対値を逆に振ったくらいの程度で高校生活を謳歌している。
このたび懇意にしている心やさしい陸上部の女の子にお勧めの本を聞かれ、家にあった西加奈子さんの円卓を貸した。彼女はほとんど本を読まずに16年間を過ごしてきたようで、朝の電車で数ページずつ読み進めては新しく知った単語を教えてくれる。聡い、とか、結託、とか。そんなん通らずにここまで来られたんやとは思うけどおもろくて素敵だ。

この本読んで彼女がどう感じるのかを少し知りたくて渡したから、いつになるかはわからないけど感想を教えてくれるのを楽しみに待ってる。教えてもらったあと私が思ったことを文章にできそうになったらまた書きたいと思う。

私は去年の夏休みにこの本で読書感想文を書いた。現実の原稿用紙が今どこにいるのかは知らないけど、大体そのまま書いたはずの下書きのデータがあったので載せる。

 「円卓」を読んでいる間ずっと、自分の感情が動いているのを感じていた。これを書くために読み返すのが3回目だったので、さすがに泣かないだろうと思っていたけど、ちゃんと涙が出た。健やかで切実で、きらきらしている。8月4日、驚くべきことに今は飛行機の中である。窓際はちょっと暑い。隣に母親が座っていて、別に何も言ってこないがさすがに気づいているだろう。さっきから結構泣いている。悲しいわけではないから感情の整理がうまくつかない。人に勧めてこの本を読んでもらったとして、どれくらいの人が私と同じような気持ちになるんだろうと思う。なんでこんなに涙が出るのかよく分からないけど、私にはそういう本や曲がいくつかある。私が最初に「円卓」を読んだきっかけは、ラジオか何かでラランドのサーヤさんが紹介しているのを聞いたことだ。いつ買ったのか今は家にある。
 「円卓」の主人公は小学三年生の、「こっこ」こと渦原琴子。公団住宅で三つ子の姉と両親、祖父母に全てを愛されて暮らす。6畳の居間に、潰れた中華料理屋から譲り受けた深紅の円卓。隣の棟に新生児のときからの幼馴染のぽっさん。こっこは偏屈で硬派で軽やかな性格、この本はめちゃくちゃに染みる文字の塊だ。
 自分に弟か妹ができると聞き、家族の皆のように喜べなかった、喜ばないといけないと決められているのが納得できなかったこっこが、家族の中で唯一尊敬している祖父の石太が日常英会話辞典を携えて付き添う夏の20時、ぽっさんに会いに行く場面がある。
 「め、めでたいやないか」「なんでじゃ」「な、なんでて、命、の誕生は、素晴らしいことや」「嬉しない。なんで家族がみんな、揃いもそろって、あない阿呆みたいに喜ぶんか、うちにはわからんのじゃ」「う、嬉しなかったら、よ、喜ばんでも、ええ」「そうか」
 ぽっさんはこっこの感情を丁寧に受け止める。石太がぽっさんを頼もしく思ったことも露知らず、二人はそのあと、難しくて優しくてソークールな話をする。
 私が何を学んだか正確に言葉にするのは難しい。ただ、小説とか芸術とかそんなに仰々しいものじゃないけど自分の中では、生活することは表現だと頭のどこかで分かっていたい、みたいな思いが強くなった。私もいつか創作をしたいとも思った。創作したいと思ったり、表現することの意味を掴んでいたはずなのに忘れたり、けどやっぱり考えてみれば立派な理由なんかはないような気がしたりもしながら、結局衝動で書いたものもあるしつくらなかったものもある。でも読み返すと、このときは軽い躁状態にあったのかもなとか分かることは色々あって、少なくとも自分にとっての面白みや貴重さはなくならないし、そのうちもっと記憶を美化しだすかもしれないし、せっかく期限があって読んでくれる人がいるのだからと書くこれもわりと馴染んで、何年か後に読んでみたいなんて思うから、さしずめ何かはしていたいのは根にあるのかもしれない。「円卓」は言葉にしかできないことを、全力で伝えてくれた。身体の中で何かが燃えるような活字だった。はじめに読んだとき、この次に読んだ本がたまたま桜庭一樹さんの「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」だったので、それぞれの衝撃のあとにうさぎ小屋の印象が強く心に残っている。
 こっこが、隣を歩く背が高くて上品な同じクラスの香田めぐみさんの澄んだ左目を、好きだ、と思う場面がある。こっこが、いつかぽっさんと同じ時間に死ねたらいいと、初めて死ぬことを寂しいと思う場面がある。読んでほしい。全部いい言葉だった。誰かが誰かの唯一でいるのは奇麗なことだと思った。私にも、この人とは曇りのない叙情的な関係を築けている、と感じる人が一人だけいて、それは望んでどうにかなるような幸運ではなかったのだろうとまだ思っている。私は人が人に対して誠実で優しくあることの得難さを分かりはじめた。努力家で尊敬できる女の子だ。私にとってのその多少の切実さみたいなものを、損なうようなことはしないでいようと思える。同じ高校に受かって春休みは随分遊んだけど、お互い勉強せずに合格できたわけではなくて、4月からずっと新しい勉強や課題に追われて会う頻度も減った。今年彼女はまた受験生だし、来年大学受験に合格したら、県外に引っ越してもっと会わなくなるだろう。私たちは確かに子どもで大人だ。少しずつ、確実に。寂しいなとはちょっと思う。
 今年の私の八月六日と、こっこの八月六日は奇しくも同じ時間の中にあった。現在の私は未だ手つかずの課題山積、大小の不安も責任も尽きることをしらず、世界からは差別も戦争も、それらに並べるのにも気が引けるような浅はかで凶暴な悪意もなくなりそうにない。でも、私は可能性が許す限り生きたいかもしれないと思うような本だった。

ここまででたぶん規定の原稿用紙4枚半とかで、斜に構えるのも真面目に書くのも恥ずかしいなと思いながら、書き切って出すという行為はしたくてがんばった半年くらい前の私、の言葉だ。

最近これと、あと2、3年くらい前に書いてた文章や小説とかを読んだ。感想の概要は、前に進んでいるかどうかはともかく変わるもんだな😫といったところ。まあ年が年やしな。それもあって書きたいことがちょっと増えたので、中身を忘れないうちに消化していきたいと思う。

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