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明日は卒業式です

 嫌なことがあったとき、上手いことのらりくらり交わすと、その場でのストレス解消にはなりますが、その後の自己嫌悪と倍増したストレスに苛まれます。しにたくなる。でもね、私には失うものが多すぎて、死にたいと言う気持ちより、失うことへの恐怖がずっと勝ってる。それさえも希死念慮の要素になっているんですけどね。

 私は本当に友達がいないです。たくさん仲良くしてくれる人はいれど、こういう行事ごとに感じる、大切な時にいてほしい人ではないんだなと感覚。本当に苦しい。友達はいいから、と仕事をしてきたのに、その努力さえも認められない。ひゃ〜、誰も努力なんて見てないんですよね、結局。私だって、この人が何に頑張ってるかって、全て把握できてないって言い切れるし。私がどれだけ頑張ったって、全て理解して認めてくれることなんて普通にないんですよ。
 だからといって、なんのために頑張ったんだとかかっこわるいことは言いたくないじゃん。その時の自分は、それで満足しているから、そのときの自分のことまで否定したら、いよいよ必要ない人間になってしまうんだよ。自分のこと認められる人が今は自分しかいないことを噛み締めて、言葉を見つけなきゃいけないんだよ。自分を認めるのも、貶してゴミのように扱うのも、最終的には自分がやることだからね。

 努力が認められない経験なんて、何度もしてきた。最終的には、とか言ってたけど、まああれは認められていないのと同じだよなっていうことばかりで。それを理解している自分のことさえ、誰も認めてくれていないので、普通にオワコン。人間というコンテンツが、終わっている。1回目に失敗だと分かった時点で、その後に何があろうと失敗であることには変わりないんだと思う。二転三転して、着地できても、体はボロボロだろうし。

 人には慣れがある。痛みにもきっと慣れるのだろう。けどこの慣れの感覚は、決して傷ついていないという意味ではない。ボロボロの状態でも、立っているだけで、ダメージであることには変わりない。それがおしゃれだったり、汚かったりするだけの違いな気がする。私はずっと、この痛みに弱い。

 自分のこと、話すと長くなるから、これから先出会ったひとと、全てを分かち合うことはできない気がする。ここから先、時間はあっという間に過ぎていくらしいし。まだ体感の時間と、実際の時間に大きな乖離はないと思ってはいるが、ここからがきっと早いのだろう。そんな時間のない私は、誰かに全てを伝える時間はないし、そんなことしていたらおばあちゃんになってしまう。まあそれでも良いのかもな、もう新しいこととか、なにも知りたくないし、得たくもない。

 明日は卒業式だ。多分、泣いてしまうと思う。悲しくて、涙を流せることは、みんなが思ってるよりも綺麗で、幸せなことだ。わたしの涙は、たぶん憎悪で溢れている。自分が1番分かってる、分かってるけど、頑張って分からないようにしているから、そこだけでもいいから、見ててよ。これを努力と呼ばないなんて、そんな冷たいこと言わないでよ。私からなにもかも、取っていかないでよ。

 いろんなものを持っていると思われている私が、こんなに喪失感であふれているなんてみんなには本当に意味がわからないと思う。ずっと言ってるけど、人間は基本ないものねだりしかできない。特に私は。私が持っているものは、私に取って当たり前だから羨まれても嬉しくないし。他人が持っているものは全て宝石のように輝いて見える。自分より、他人の方が多いから、周りには金銀財宝ざっくざく。取り放題かと思いきや、誰の何も奪うことはできない。

 「毎日辛いと人は死ぬから」こんな日にはこの言葉を思い出す。一気に来るなら来い、明日に持ち越さないでくれ。どうせ死なないから、今日は。あー、でも嫌だな。辛いな。かなしいな。
 私の負の感情からは、何も生まれない。人から言われた言葉がただ反芻するだけ。良い言葉も、悪い言葉も、全部が頭の中で混ざって、透明な涙になって出てくる。

 私は、大きいもの、細かいもの、写実的(現実的)なものがすきだ。だからどれだけ周りに認められても心が満たされないんだと思う。よりたくさんの人に、いろんな人に、っていう気持ちが、褒められると余計生まれてくる。あーだるすぎる。馬鹿め。お前は特になんもないのにさ。何者にもならないよ。

早く寝よう。そうじゃないと、この両手いっぱいのものを失ってもいいと思ってしまうから。

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