世界の全ては1/2

 「シュレディンガーの猫」を過信しています。そして、かつ信仰している。
 多分本来のシュレディンガーの考え方とは少しずれてしまっている自覚はあるけど、私は可能性はパーセンテージで表せられることじゃないと思っている。
 例えば?って言われると難しいけど、サイコロが目が出る確率は、全部の目共通で6分の1なはずだけど、絶対そんなことはない。みたいなことよ。そこに存在するのは全部二分の一。6が出るかでないか、1が出るかでないか。その二分の一が重なって存在しているだけ。

 私は最近受験を経験したのだけど、面接っていうのはこれを対策したら確実に受かる、みたいなのが存在しないわけで。極論だけど、テスト形式の試験は、全ての範囲を完璧に理解したら解けないわけがない問題が出されるけど、面接は対人間だから、事実云々ではないわけ。本当のことをいうことが全てじゃないって感じ。
 私は小学校以来、英検以外で何かを受けたことがなかったから、合否経験の乏しい人間だった。一時期やってたパン屋もコネで入ったし。合格発表の画面、これこそ本当にシュレディンガーだな、みたいなこと思ってボタンを押した記憶がある。まあ結果はなんであれ、そこには2択しか存在していなくて。それは発表の前日、もっと遡って受験日当日、なんなら出願の時点で決まっていたのではないのか、と思うんだす。

 受験を失敗してしまった時に、あの時あれをしておけば良かったっていう後悔って生まれないと思うんだす。なぜなら漠然としている上に、答えが配られない、そして対策の時間が長いからだす。これはテストでもそうだけど、ここの年表ちゃんと覚えれば良かった、とか、定期テストではあるけど受験ではもはや範囲広すぎてないと思う。だからさ、そういう目線で自分の身の回りに起こる出来事をみてみると、広すぎて、なにを失敗しても、後悔の仕方がわからなくなる。これは決して悪い意味じゃないよ。

 あの時ああ言えばよかったって、例えば好きな人との会話であったとしても、そこまでの会話が正解だったかなんて、相手にしかわからないわけでしょ。そうだったら、告白して失敗したとしても、もう出会った時からそうなっていた、と感じるしかないじゃん。運命、っていうか必然。なるかならないか、の二択。二分の一!

 あとは全部タイミング。ちょっと椅子から立ち上がるのが遅かったとか、改札出る前にトイレ寄っちゃったとか、そういうなんか小さい時間のズレで、合わなくなる歯車みたいなのが存在する。だから、こんな広い世界の中で、行動範囲やコミュニティが一緒とはいえ、街中でたまたま友人に会うことって、かなりの運命だと思う。私は、街中で友人に会うと、そんなに仲良くなくても少し運命を感じてしまって、好きになるタイプです。同じ時間に同じ場所に、意図せずとも向かっていることは、そんなあることじゃないと思うけど、めっちゃ街で会う人とかいるよね。エレベーター乗ろうとしたら降りてくる、とか。コンビニ入ろうとしたらコンビニ横の階段から降りてくる、とか。

 そういうもの、全部私たちの選択で生まれてるんだからね。運命とか奇跡とか、軽い言葉にするのは簡単だからしないけど、自分で選んだことで生きているって感じがして嬉しい気持ちになる。

 二分の一の確率、ほしい方を取る方法としては、とりあえずやってみる。これに尽きます。人間優しいし、法律ってそんな簡単に破れないから、悩んだらやってみたらいいと思う。私今までそこで後悔したことはない。やらない後悔よりやる後悔、とかいうけど、やる後悔ってそうそうないって。恋愛以外で。告白の時にしか使われない格言。

とりあえずって言葉、武器にして。

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