自他評価の乖離

 笑顔が多い人生にしたい。ポジティブな気持ちになる時間を、1秒でも長くしたい。自分を肯定できるようになりたい。まあいろいろあるけど、これでよかったなって思って死にたい。
 それと同時に、自分の醜さに気付きたい。己の価値のなさを常に感じていたい。自分自身の無能さを噛み締めたいし、味わった上で飲み込みたい。

 自分に対する、自分の評価って難しい。私あんなに仕事頑張ったのに、上司が認めてくれない、とか。あんなに優しくしてるのに、あの人私のこと全然好きじゃなさそう、とか。最初は相手の気持ちとか考えて、よくある1人反省会とかしてたけど、もう、やったって仕方ないし、終わりは来ないし答えもでないことに気付いてやめた。

 友達多いって言われてもピンとこないし、喋るのが上手いって言われてもあの時喋れなかったしな、と思うし、人から褒められることの評価に厳しくなってしまう。
 でも、私1人の世界で、私は1番にしかなりえないので、自分で自分を褒めることに抵抗はない。とにかく、他者評価が常に自己評価の上をいく。これは当たり前のことだと思ってたんだけど、多分これ、ネガティブな人の考え方。自己評価がどれだけ高くなっても、相対的には自己評価が高くなることはないってこと。

 私が問題だと感じているのは、その二つの評価の乖離がすごい人。たまーにいる。自分の成功例を、平均値と捉えて自己評価に繋げてしまうひと。

 わたしはポジティブポジティブ言っときながら、根っこがネガティブな人間なので、自分の失敗例を平均値と捉える。必然的に自己評価は下がる。
 でも、そういう人は、たまたま周りがよかったとか環境に恵まれていたからとか全く考えずに、成功体験を自らの手柄とする。これめっちゃ怖い。

 まあ私はポジティブな人間、嫌いじゃないので変わらず付き合いはするが、私が感じてしまう評価と、彼が自分に下す評価の差を感じる時に、そっと目を瞑りたくなる。目をつぶしたくなる。

 逆に、周りに褒められすぎて、カンストして、自己評価爆上がりの人とかも、いるよね。そういう人って、確かにすごいんだけど、褒められている範疇の上まで自信を塗り固めて見せてくるから、そこは別にってところまで、綺麗に見せてくれるよね。ありがたいんだけど、もっと完成してから見せてくれてもいいんだよと感じる。けどメイビーこのカンストは厄介だと思う。自分じゃ気付けない、多分プライドとかがそこで生まれちゃうから。

 自分に自信を持つことは、日々の余裕に繋がる。何をするにしても、所作が大人になって、カッコよくなる。すごい浅い言葉だけど、そういう人って本当にかっこいい。
 でもそのかっこさは、自己評価と他者評価の乖離がない場合にしか適応されないので、相変わらず、自己分析の大切さを身に沁みて感じさせられる。私もそれになりたかったなー。

 こういうの、今の時代だと、インスタとかツイッターとかのSNSでも存在する気がする。本来のインスタは、絶妙なカラーの背景でストーリーを載せたり、ブーメランで撮った自撮りの動画を投稿したりするものなのに、そういうのをダサいと思う層がいる。ストーリーはそんなに上げない方がかっこいい、アイコンは初期の方が良い、投稿は自撮りを載せない、とか、なんとなくかっこいいインスタの定義がずれてきているし、それを理解した上でやっているとすごくダサくなる。もうこれは解決しようがないジレンマ。新機能のノートだって、使うのダサいと思ってしまうし、なるべくストーリーに文字は載せない方がオシャレとか感じちゃう。ほんとにいやだー、インスタやめたい。けどたまに承認欲求から載せたくなっちゃうし、めんどくさー、こんなアプリ生み出さないでください、くやしいので。
 しかもそこの部分が、本当に若者の感覚すぎて、私の好きだった年上の男性はすごく典型的な、ダサストーリーをあげていました。それでいいんだけど、私には関係ないんだけど、そういう部分にすごく悔しさを感じてしまう。感じる必要ないのに!!

文の書き方とかも、って言ってるとキリないわ。もうスマホやめよう。

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