グリム童話考察⑨/KHM2「猫とねずみのともぐらし」考察

(ブログ https://grimm.genzosky.com の記事をこちらに引越ししました。)

※あくまでもひとつの説です。これが絶対正しいという話ではないので、「こういう見解もあるんだな」程度の軽い気持ちで読んでください。
※転載は固くお断りします。「当サークルのグリム童話考察記事について」をご一読ください。

KHM2「猫とねずみのともぐらし(訳によっては「猫とねずみのおともだち」など)」について(主に主人が)考察したので、書いてみます。
が、これがまた文章にしづらい考察でして……。考えるより感じろ、みたいな。

とりあえずお話のあらすじは下記から。

猫とねずみとお友だち(Wikipedia)

KHMとはグリム童話の並び順で、このお話はKHM1の「かえるの王様または鉄のハインリヒ」に続いて2番目に配置されています。
200あるグリム童話の中で初版からずっと2番目なので、グリム兄弟的に大事なお話なのかもしれません。
ちなみに元ネタとなったと言われるお話は北方ゲルマン族の「熊と狐」というお話で、大まかなあらすじは大体一緒なのですが、それがグリム童話では猫とネズミになっています。

さて、今回のお話も今まで考察してきたように、「表のお話」と「裏のお話」の二重構造になっていると考えます。
「表のお話」は読んでのとおり、猫がズルをして壷の中身をみんな食べちゃって、最後はネズミも食べちゃった、というお話です。
このお話は他のお話と比べて童話にありがちな理不尽な要求をされたり登場人物が意味不明な行動を取ったりといったくだりがほとんどないので、すんなり読めてしまうと思います。
実際、表のお話だけで十分読み応えありますし、教訓話としての体をなしています。

が、やっぱりそれだけではないのでは?というのが私と主人の考えです。
おそらくこのお話の「裏のお話」は、「命がどうやってこの世に顕れるか」という世の中の仕組みを書いていると思われます。

猫は3回に分けて壷の中身を食べてしまいます。
食べるたびに猫の体はどうなっていっていると思いますか?
肥えていってます。これは、原文でそう書いてあります。
冬の期間分のたくわえですから、3回目は満腹になって、おなかがでっぷりしているでしょう。
おそらく妊婦さんのイメージです。(あくまでもイメージのお話であって、実際に猫が妊娠したということではありません)
また、「皮なめ」「半分平らげ」「すっかり平らげ」は、出産のイメージも兼ねているのではないかと思われます。
はじめは頭がちょっと出て、次に体が半分出て、最後に全部出て……と。
壷は子宮を表すこともあるそうですし、猫≒月≒女性という考えもあります。
猫≒月≒女性というのは、猫の瞳孔が細くなったり丸くなったりするさまが月を連想させ、月がだんだん満月になる様子が妊婦さんのおなかを連想させるからだそうです。
ちなみにこのお話は訳者によって猫がオスでネズミがメスだったりするのですが、原文ではどちらがどちらの性別というのはわからないそうです。

猫が「すっかり平らげ」てしまった壷は、空っぽになります。
壷の中身が、砂時計のように猫の口を通して猫のおなかに移ってきた、「向こうからこちらへ連れてきた」というイメージです。この「口を中心とした、腹と壷の対比のイメージ」はこのお話の重要なポイントと思われます。
さて、向こうからこちらへ何かを連れて来るなら、かわりに空っぽになった向こうへこちらから何かを送らないといけません。はい、ネズミさんです。
原文では壷は「Töpfchen」と書いてあります。
また、ネズミが「ワインの一滴でも飲みたい」と言う文があるのですが、そこで「Tröpfchen(一滴)」という似た単語を(おそらくわざと)使っています。
これは、空っぽになった壷にネズミが送り込まれることを暗示しているのかもしれません。要は死亡フラグです。

なお、このお話のネズミは最後に壷の中身を確認に行くまで、家の中に引きこもっていて、外へ出ていません。
これは、おそらくネズミもまた子宮の中にいるイメージと思われます。
外に出ることになった際、猫が「窓の外に舌を出したような味がするだろうよ」的なことを言います。「窓」という出入口を意味するワードを出しています。「口」と同様、向こうとこちらを行き来するイメージの重要なワードです。
猫に食べられたネズミはどうなってしまったのか?
おそらく窓という出口を通って子宮から外に出、向こうの世界に生まれることになったのでしょう。
こちらの世界で死ぬ=あちらの世界で生まれるという考え方です。

ラストにネズミを食べて向こうへ(お話内のイメージでは空っぽになった壷の中へ)送ることによって、臨月となった猫はこちらの世界へ何かを産み落とすのでしょう……というお話なのだと思います。
猫が直接こどもを産むというわけではなくて、どこかで何かがかわりに生まれているであろう、ということを暗示している、ということです。

要はこのお話は
“生と死は隣り合わせ”
であり、
“何かが死んで何かが生まれる”
という、ある意味当たり前の、この世の理を書いているのだと思われます。

生の喜びと死の悲しみは一対であり、どちらに転がるかわからない。そして同じ病院内の病室で老人が亡くなり分娩室で子どもが産まれるように、世界ではたくさんの命が息絶えているのと同時に、その隣でたくさんの命が誕生している。
そもそも猫とネズミが同居という時点でラストのオチが明らかなわけですが、ネズミが死んだら世界はその分が減ったままの世界になるわけではなくて、どこかでかわりに生まれてその分増えている、減りすぎてなくなることもないし、増えすぎて困ることもない、世の中ってそんな風にできているんですよ、と。

お話の中で壷を置くのが教会なのは、おそらく生と死のイメージで、猫の言い訳が「子猫が生まれる」なのも、裏のテーマの「誕生」にかけているのではないだろうかと思われます。
猫の言い訳の「いとこが男の子を産んで……」の部分を原文に忠実に訳すと「彼女はこの世界に息子ちゃんを持ってきた」になるそうです。
そして物語の最後の一文「世の中ってこんなもんですよ」という文言、これも原文に忠実に訳すと「世界はこういう風に運行しています」のようになるそうです。
世界と言う言葉が繰り返し出てきます。つまり「世界はこうやって回っているよ」と、世界の仕組みを表していることを言いたいのではないかと。

以上です。伝わりましたでしょうか……。
おそらく現代の日本人にはピンとこないと思います。
「死ぬ人がいりゃ生まれてくる子どももいるとか、当たり前じゃん」と思う人がほとんどでしょうし、また生と死が同等である前提の価値観でのお話なので、「生きるのって辛くね?w」とか、少しでも生を否定するほうに比重が傾いている人(日本人に多そう)にはイメージがつかめないかもしれません。
また、「眉唾」「深読みのしすぎ」とお思いの方も多いことでしょう。主人は自信ありげですが、私も若干眉唾です。
でもまあ世の中ってこんなもんですよ、きっと。(適当)

Written by : M山の嫁