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七夕とオシラサマのおはなし。 おまけで河童のおはなし。③

オシラサマ

 「動物の皮」で思い出されるのが、東北の民間信仰に連なる遠野の「オシラサマ」伝説です。オシラサマに関する習俗は東北各地でいろいろと異なるのですが、この有名な伝承では、馬と娘との悲恋から養蚕業の起源へとエピソードが繋がっていきます。
 このオシラサマ伝説も先述の七夕と同様、実は中国に元ネタがあり、元のお話でも同じように馬と娘の結婚譚(馬の娘に対する一方的な愛情とも…)から養蚕業の発祥へと話が続いていきます。娘が馬の皮に包まれ空へと飛び去り、その後に馬の皮の中で蚕となって発見されるというもので、蚕の顔が馬と似ているのはそのためである、と語られています。
 馬も養蚕業も、もともと日本にあったものではなく、古墳時代の前後から大陸より徐々に渡来したものと考えられています。大和朝廷の時代になると中国大陸との交流が盛んになり、馬や絹織物に関しての技術者も数多く日本に渡ってきました。そうした物流や技術と共に、それにまつわるしきたりや、あるいは人々の口を通していろいろな「お話」も伝わってきたのではないでしょうか。乞巧奠に由来する宮中の七夕行事や、遠野のオシラサマ伝説もその流れのひとつだと考えられるでしょう。

 オシラサマに関する習俗ではしばしば「イタコ」とのつながりが見られます。イタコは死者の口寄せ(魂を呼びよせその思いを代弁する行為)をする盲目の巫女です。東北の一部ではオシラサマの祭日に、イタコがオシラサマを「遊ばせ(呪文を唱え踊らせる)」た後に家神さまの神意を伝える、いわゆる占いが行われます。ここでは、オシラサマは馬や養蚕とだけ関係しているのではなく、農耕や狩猟、あるいは女性や子供たちの神さまとして祀られているのです。
 津軽のある伝承では、次のようなエピソードがオシラサマの由来とされています。
 「峠の空き家で休んでいた盲人に歌を所望した「たこ」と名乗る謎の女の声が「自分のことを話せば命はない」と彼に告げる。夜が明け里に下りた盲人はそれを村人に話してしまい命を落とす。その後に村に現れた「たこ」は村人たちにも他言を禁じ、これを破れば村は水没すると脅す。村人は峠のまわりを柵でふさぎ、「たこ」が峠に戻れないようにして彼女を退治する。彼女の正体は蛇であり、村人たちはその蛇と盲人とを祭ってそれが後のオシラサマとなった……」
 このお話、形はかなり崩れてしまっていますが、どうやらもともとは異類婚姻譚のひとつであったと思われます。蛇婿や天人女房の類話によく見られる「言う言わない(あるいは見る見ない)の禁忌」があることや、蛇が水害をもたらすことに触れていることが大きな特徴で、また「峠に戻れない」というのも天女が天界に戻れないのと根本的には同義だと考えられます。
 この伝承の、盲人や「たこ」というワード、それに加えて現代にまで残るオシラサマにまつわる様々な風習を考えると、馬や養蚕技術が伝来するもっと以前から、おそらくイタコとそれにまつわる民間信仰が既にこの地に存在していたのではないでしょうか。しかもそれは、この津軽の伝承のように異類婚姻譚にまつわるものであった可能性が高いと思われます。
 大陸から新たにもたらされた養蚕や馬の飼育などを主産業として、人々の生活スタイルが変わっていくにつれ、そこにあったイタコの習俗と信仰は徐々に衰退していったのではないでしょうか。そこへ渡来人の持ち込んだ物語が習合されて、オシラサマ伝説は現在のような形へと変化していったのかもしれません。しかしそのような習合が可能だったのも、元の信仰に、すでに異類婚姻譚の要素があったからなのでは……そう考えると、オシラサマ信仰の推移も七夕伝説の変遷とある意味で似ているように思えます。

 ところで柳田國男は、原初的なイタコやオシラサマの信仰にも「杓子」が関わっていると考えていたようです。イタコは冥界から魂を呼び寄せる巫女であり、その身に死者の霊魂を宿らせて語らせたり、あるいは神の言葉を伝えたりします。まさに先述のとおり、女性であり杓子(=ひょうたん)であるわけで、イタコとは冥界と現世を行き来するための道具そのものなのです。オシラサマ、あるいはオクナイ様と呼ばれる家神様の本体はヘラ状の木片だったりしますが、これがしゃもじ(杓子の一種)と形が近いこともそのせいなのかもしれません。霊魂をその身によせて神と同一化する巫女のルーツを、まず日本神話の玉依姫にみた後に、その杓子との関連を古代から連なる地方信仰の巫女(イタコ)にも照らし合わせてみると、やはりイメージが重なってくるわけです。
 遠野の伝説では、中国由来の馬と養蚕の伝承がもともとの習俗に上書きされていると考えられるのですが、実は杓子のイメージもその中にちゃんと残っています。
 悲恋の後日譚において、娘は両親の夢枕に立ち、馬と娘の生まれ変わりと思しき蚕を「臼」の中で飼うようにと伝え、これが養蚕業の始まりとされます。臼はその空洞性からやはり女性や子宮と同一視される呪具のひとつであり、比較的近い時代に書き換えられたと思われる遠野のオシラサマ伝説も、女性という「器」を通じて魂が冥界と現世を行き来しているという精神を、後世にきちんと伝えているのです。

結び

 さて、とりとめもなく七夕周辺のお話を綴ってきましたが、星空を見上げるときのイメージが今までと少し変わってきましたでしょうか?
 そういう視点であらためて見てみると、夜空にも大きなひょうたんがひとつあることにあなたも気付くはずです。春夏秋冬、いつの季節でも北天でくるくると回りつづけるあの北斗七星は、この世から天界へと魂をくみ上げ続ける大きな大きな柄杓だと思えてきませんか? そしてその七つの星が織り成す大きなひょうたんがくみ上げた水は、これまた大きな流れの天の川となって夜空を光の輝きへと染めていくのです。
 天の川とは祖先たちの魂が流れる川である……と、遠いとおいむかしの日本人たちはそう考えたのかもしれません。彼らにとって「七つ星の水にまつわる物語は水多き七月の夕べに語られる」というこだわりがあったのか無かったのか、それを知る由はありませんが、星空を彩るロマンとしてはなかなかに良くできた偶然だなあと、私はそう思うのです。

おまけ

 川辺の織姫と水神との関係で、もうひとつ忘れてはならないことがあります。このコラムの中で津軽の伝承を紹介する際にちょっとだけ登場した「水害」、すなわち水神の祟りです。
 異類婚姻譚とは、祖霊が女性という器を通ってこの世に再生するという思想が根底にある伝承だということは既に説明したとおりです。時代が進み、こういう古代思想が形骸化して物語や儀礼の中だけに存在するようになると、その習俗についても時代を反映した「解釈」が生じるようになります。例えば大きな水害が起こって甚大な被害が出たとき、水辺にたたずみ祖霊の到来を待つ巫女は、実は神の怒りを鎮めるための「生贄」だったと解釈され、以降の水害や或いは治水事業においても同様の行為が求められます。民話によくある「大蛇の要求に応じて泣く泣く食われにいく村長の娘」というのはつまりそういう意味です。
 先日、「橋」についての資料を読んでいたとき「川浸り餅」という習慣に目が留まりました。これは十二月の朔日に牡丹餅などを川に供えたり投げ入れたりする行事で、川での水難を防いだり、またこの餅を食べると病気にならない、などの言い伝えがいまなお全国各地に存在しています。
 なぜ餅を投げ入れるのかというと、その由来は『三国志演戯』から来ているという説があるようです。そこでは、諸葛亮孔明が軍を率いて荒れ狂う川を渡る際、生贄を捧げようとする地元の民に対して、野蛮な風習を諌めて生贄の代わりに「饅頭(まんじゅう)」を投げ入れさせた、という描写があり、それが日本における川浸り餅の原型ということにされています。確かにまんじゅうには「頭」という文字が入っており、大昔には実際に人間を生贄として捧げていたことは間違いなさそうです。しかし偉大な孔明先生のお知恵により、現代の私たちはお餅を食べるだけで水難や病気から逃れるという恩恵が得られるようになりました。(ちなみに私の地元でもその日にお餅を食べる風習が残っているのですが、由縁が戦国武将の出陣譚に変えられてしまっています……。)
 川浸り餅の行事ではお餅を供えて食べるだけでなく、川にお尻をつけると河童にさらわれない、などとする地域もあるようです。河童は水神の零落した姿ともいわれ、川で尻子玉を抜かれるというのは、杓子で魂をすくい取られるようなものなのかもしれません。
 え? 河童は杓子なんか持ってないって? いえいえ、ちゃんと持ってますよ。河童の大好きなキュウリ、実はあれがひょうたんの成れの果てなのです。瓜(ひょうたん)と水神はどこまでもペアとして私たち日本人の意識の底に息づいているのです。

(了)

 Written by : M山

主要参考文献・図書・ウェブサイト
 ・「魔法昔話の起源」ウラジミール・プロップ著
 ・「いまは昔 むかしは今」網野善彦ほか編
 ・「遠野物語拾遺」柳田國男著
 ・「古代から来た未来人 折口信夫」中沢新一著
 ・「円環伝承」 http://suwa3.web.fc2.com/enkan/index.html
 ・論文「シャクシ・女・魂‐日本におけるシャクシにまつわる民間信仰」
  東北民族学院助教授 王 秀文(Wang Xiu-wen)
 ・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
  「イタコ」の項・「おしら様」の項