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感性と、届くものと

感動したもの、心が震えたものが、それを苦しみながら生み出してくれた人に届かないということは、実はよくある話で。
作り手が届けてほしいと思っている以上に、世間では「伝わっている」と思い込んでしまうことが多いような気がする。

私は感動を本人に伝えたいタイプだけれど、それが迷惑だとか一般的な意見でしかないと尻込みをして、鍵垢でツイートしたりエゴサ避けをしてこっそりつぶやいたり、そんな人が大半なように思う。それはきっと、自分の感性を否定されたくないからなんじゃないかな、とも。

昔は、自由に呟いて吐き捨てて、それがチラシの裏だって言えたTwitterも、今ではバズることを考えている人がたくさんいて。そのために批判したい人もたくさんいて。批判は届けようとするのに、感動は届けようとしない。それはきっと、横槍を入れたがる人が必ずいるから。自分の感性を否定されたくないから。逆方向でバズりを経験したくない、絞り上げられたくない。
プラスのベクトルに向く気持ちすら否定される、SNSは心の拠り所でありつつ残酷な場所だと思う。

今日私は、普段趣味の域としてここでは書いていないアカウントの話をする。趣味に関しては、私が趣味とすることに対してはどんな愚痴でも嫌味でも言ってくれたら良いと思っているけれど、それを生業とする人たちは繊細であることを想像し、人としての思いやりを持って言葉を発してほしいなとも思う。

何故、書こうと思ったのか。

それは仮にも自分が発信する立場を自覚したことが何度かあること、感じ取らなくていい部分まで感じてしまうことが多々あること、何より、届けたい気持ちが溢れていること。

noteなので、思うままに書く。回りくどいかもしれないけれど、読んでほしい、伝えたい、ではなく、熱量を届けたいという思いが強いので、それを前提としてお付き合いいただきたい。

内田裕基氏。脚本家、小説家。(Twitter@u2daa)彼の活動の幅が実は私の感じてきたものと重なっている部分が多い。

言葉を紡ぐ。ミニシアター系の映画を見る。純文からラノベ、同人まで、プロからマイナーまで。小説も漫画も映画も音楽も、自分の触手が伸びるものを全身で受け止めた。うまく生きられないもどかしさも、見えない誰かへの余計な思慮で、自分を恣意的に傷つけるしかなかった。心が震えると、何らかの形でアウトプットする。アウトプットしたものはただ吐き捨てられているだけの言葉の羅列と、絵と、デザインと、生臭いニオイがするものたちばかりだった。

子供が生まれてから、ニチアサの脚本の素晴らしさを知った。プリキュア、戦隊、ライダー、何年も見続けることになる。これらに救われた時期も多々あった。なぜか。それは私の基盤に与るところが大きいから。

話を進めるにあたり、少しだけ私の感性のベースを頭に入れていただきたい。
年子の弟がいるので、幼少期は男女の別なく過ごした。成長するにつれ、田舎で、男の子ばかりの近所で、大人から自分だけが「女だから」と除け者にされることが嫌というほど増えた。勝ち気で強気だったので余計、自分のジェンダーについてもずっと悩んでいた。厳格な家庭で、やはり女であることで虐げられたが、女であることを理由に非難されるのだから能力は男以上に備わっている必要があると、そうでなければ人として対等に扱われない、と、「女」をいいように使われた。小学生にして、接待の酌すらさせられた。世間とは、社会とは。そこに組み込まれた自分とは。物語の主人公と、バイプレイヤーと、モブと、表と裏の社会と、権力と、圧力と…そんなことを小学生ながらにして必死に受け止めようとした。すべてをうまくこなせない私は劣等生。100点から1点でも欠けることがある私は出来損ない。親の敷いたレールすら走れない愚か者。
これが私の基盤である。

さて、話を戻そう。氏の脚本は、私の基盤の「脆い部分」「隠しておかなければならない(本当は表現したい)部分」をどストレートに突いてくる。わかりやすく言えば、「優しさ」「繊細さ」「思いやり」「儚さ」「美しさ」の5要素を、非常にバランス良く書き上げている。「こういう世界だったら」と思う理想を、柔らかさとぬくもりを、映像で謳い上げるための土台を作れる(自分以外の誰かの手を介して、自分の意図したものを届けることができる)のは、その環境を整えるのは、私には想像し得ないほどの苦労と努力があったのだろうと思う。苦しい、辛いといった負の感情を抱えながら、あんなにもきれいでやさしい物語を描き得るその才覚を、心の負担を、感じざるを得ない。

上辺だけの物語ではない、感情移入をもたやすくさせるのは何故なのだろう。
例えば年下彼氏のゆずくんの物語。黒猫が擬人化して飼い主のもとを訪れる。伝えられないもどかしさ、言えない苦悩を抱えるゆずの心情を、私は知っている。
また例えれば、にどめのはつこい。認知機能の低下した縁者を、私は何人看てきただろう。そして現在進行系で、世話をする毎日なのである。痴呆老人と暮らしてわかったは、「自分が心に強く思ったこと」とその世界で生きていくようになるということ。そして、自分には話を聞く、合わせるしかないということ。否定もできない。ただ、そこには彼らの美しく輝いた時代があり、自分はその世界に組み込まれるしかないということ。それは「苦」なのか、負の側面だけなのか?考える日々とこのお話の美しさは、リンクしていた。終りがあることはある程度予測できている。早く過ぎてしまえばいいとも思い、その時間が大切で愛おしいとも思う。矛盾はしているが、そんな人間らしさと複雑な感情に翻弄されながら、花は散るからこそ美しいという世界で一生懸命生きている。


私ならもっと、と思うのに、自分にはその資格や権利がないこともどこかでわかっている。これ以上踏み込めないけれど、相手の幸せを願うこと。それを他者として見たとき、心からきれいだと思うこと。誰だってきっと、恋愛だけではなくそんな感情を抱いて生きている。そういう根底の部分を、繊細に、美しく描きあげる氏の作品を、もっと見たいと心から願っていた。

そこに、今日のフリート。
今後映像作品の本を書かないかもしれないということ。
それがご本人だけの要因ではないということ。

声を上げたいと思った。

氏の描く世界の美しさを、誰かに伝えたいと思った。

常々、仲のいい友人とは、LINEで氏の作品に対する感動を共有していた。Twitterでも呟いていた。
でも、それは
書き手に、制作陣に、伝わるものではなかった。

精魂込めて、命を削った作品に反応を感じられない、それがただ吐き捨てられたような感覚になるのを、私は知っている。
大人の世界で「それ」が起こっているのなら、それは、職業として存続できるかどうかも意味してくる。

だからこそ伝えたいし、拙くても伝わるのだと思いたい。

私は、彼の作品のあたたかさが好きだ。
彼の作品のぬくもりを、沢山の人に感じてほしいと思っている。

何もできない私の掃き溜めが、汚れたものではなく、ケセランパサランになる日が来ることを願って。


※今後、ドラマの感想を追加できればとは思っていますが、私生活が多忙なためいつになるか…ジモダンの2作品、本当に美しいので、ぜひ書きたい。

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