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『遠いところ』 “沖縄”が舞台である意味

配信で観た感想、ということをまず述べておきたい。映画館で観た場合の感じ方、受け止めるボリュームとは程遠いからだ。
とは言え、劇場で観た場合のことをあまり想像したくないほどに、キツい描写が続いた。

『オッペンハイマー』を観た後ということもあり、描かれたものと描かれなかったもののバランスを考えてしまった。オッピーは「描かれなかったもの」のことを強く考えさせられたが、今作は「描かれたもの」についてということになる。まず言っておきたいのは「描写が過剰すぎた」と感じたということ。とにかくアオイ母子のことが心配になるし、それは演者に対してのものが上回って、物語のことよりも撮影現場での配慮が足りていないように見えて仕方ないのだ。

鑑賞後に制作サイドの発信をチェックしたくなったし、そこでは当然肯定的なものばかりということになる。前述のような受け止めをしている者にとっては違和感が強くあるし、主演の実年齢も驚きでしかない。そこまでして描きたい、伝えたいことについてはもちろん尊重するが、同時に「そういう絵を撮りたいがための」作品になっていないか、という疑念は生じることになる。それを強めるのは、あの売春の元締めをボコボコにする(急な)展開だったりもする。どうせならマサヤにして欲しかったが、アオイは自分を守る人物ではなく、発火点は友人だったということだとは理解している。それは本当に悲しい。

沖縄の物語、の割には現地の演者が多くないのも批判の対象になるだろう。こうまでして「沖縄の貧困、若年出産、DV」を過剰なまでに描写するには、演者が本土の人材の方がむしろ都合がいい、ということなのか?
「貧困、若年出産、DV」が沖縄だけの問題ではないのは前提としてあるわけで、それでも沖縄にした意味を薄めているな、と思う。そういう気持ちがぐるぐる回っての疑念なのだ。好きな俳優も出ていて、その人はどう見ても信頼できるなと思えるし、そういう役どころだ。しかし、というね……。

ちなみに池田成志も出てきたが、沖縄だと光石研が良かったなとか思ってしまったが、つまるところ「沖縄舞台の映画作品」の多くは沖縄以外のスタッフ、キャストによって撮られてきたということか。そういう意味では、今作はまだ当地の人材を各所に配していると評価すべきなのかもしれない。

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