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日本語の時制~するV.S.した~

要約

 日本語の時制選択は英語などに比べて可動的で、主語も含めて解釈は文脈依存。しかしそれゆえに読者と登場人物の視点が同化しやすく、物語への没入感などを生み出しやすい、との知見を得た話です。


発端

 プラスチックの包装を開けようと格闘していて、何気なく「切れ目あったじゃん」とつぶやき、日本語の時制って変だな、と思ったのが発端でした。

 英語話者なら「Oh, there was a slit.」なんて間違っても言わず「is」を使うはずです。切れ目は今もそこにあるのに口をついて出たのは過去形、つまり袋が破れないか試行している時点が基準になっていたのです。

 たかがそれしきといえ、敏感にならざるを得ません。物を書くにあたり、文末を「~る/~する(ル形)」とするか「~た/~した(タ形)」で締めるかは大いに悩むところで、それは即ち作中のできごとを「どう認知し、どのように読者へ伝えるか」の確定作業でもあるのです。

 せっかく意識したからには、少し調べてみようと思いました。なお、こうした分野を学んだことのない素人なので、理解が正しいとは言えません。気になった方はご自身でも読んでみることをお勧めします。

やはり気になる人はいるようで

 きちんとした検索でなくGoogle調べで恐縮ですが、「日本語 時制 特徴」で検索をかけたところ幾つか論文が見当たりました。
 手あたり次第、わかる範囲で読んでみた雑感をまとめてみます(参考文献リストは末尾に載せています)。

日本語時制形式の意味 ―事態解釈の観点から―

 こちらの論文は、日本語時制の多様化を事態解釈と主観/客観の二視点から説明しようと試みたものです。
 全体的にフレームワーク多めかつ概念的で、先行研究にまで目を通していない私には部分的に辛うじて理解できる程度でした(定義が理解できないと難しかった)。

 興味深いことに、時制の判断基準には単に発話時点から過去・現在・未来のいずれであるかだけでなく、現実をどのように解釈するかも含まれているようです。
 たとえば伝聞が「~したらしい」と過去形になるのは伝え聞いた情報が過去時点のものだから、というだけでなく、直接観測できない現実(非直接現実)としてのニュアンスも含まれる、といった具合でしょうか。

日本語の時制表現と事態認知視点

 こちらの論文は時制形式を単独で論ずるのでなく、コンテクスト(文脈)と絡めて基準時や認知主体が固定的でないことを説明するものでした。
 特に日本語小説の中でル形とタ形が交互に現れるとの指摘は調べものをするに至った一番の関心ごとでしたし、はじめて読む人にも幾らか馴染みやすいものでした。

 著者によれば、ル形とタ形の使い分けは「事態が認知主体から見て過去・未来のどちらの方角にあるか」によるもので、認知主体は可動的であり判断は文脈に委ねられるとの分析が成されています。語り手や登場人物など、主体が変わり得る、ということですね。
 論文中では小説文の引用もあるのですが、確かに視点が何の断りもないまますり替わっていますね……これをナチュラルに読んでしまっている自分にも驚きました。

 言語特性として、認知主体を表す主語が介在しないからこそ登場人物と読者の視点が同化しやすい、というのは重要な示唆に思えます。「〇〇は痛みを感じた」と「痛い」の一文では後者の方が明らかに主観的で、当事者性がありますしね。

日本語の文学作品における時制

 こちらもル形とタ形の混用について。著者自身も小説を書かれる方であり、どちらの形式で描くか迷ったからこその疑問だったようです。
 興味深い事実として、草稿時点の小説をすべてタ形で描いたところ、読者モニターおよび編集者から「臨場感がなく物語の中に入っていけない」との指摘を受けた、との記述があります。文法および時系列的には正しいはずの「~た/~した」の連続に戸惑うのも、このあたり、すなわち主観性を排除してしまう点にあるのかもしれません。
 他論文の引用部分ですが、ル形/タ形を混用することは文末のリズムを整える意味のほかに、語り聞かせる作中の事実を読者に「今」のできごととして疑似体験させる効果もある、との記述には納得させられました。

 著者の面白い試みとして、小説二作(一作は自著)の文末をル形/タ形の二項選択方式とし、文末表現の組み合わせを選んでもらうアンケート調査を執り行っています。結果はどの組み合わせも「有意差をもって他の組み合わせよりも多い」とは言えず、文末をル形/タ形にするかは個人の感覚によるところが大きいと示唆しています。

ル/タの選択

 ざっくりですが、三つ読み終えての所感です。日本語のル形/タ形をめぐる表現には次のような特徴がみられました。

  • 時制の判断基準が明示的でなく、文脈に依存する

  • 単に時制のみを表すのでなく、事態と主体の心的距離や主/客観性など諸要素によって変化する

  • 英語において過去形(語り手視点)で統一されるような小説文体であっても、日本語小説での主体は可動的である

  • 日本語小説では臨場感や当事者性を表すためにル形が用いられることが自然であり、適切に混用することで客観的事実と(作中人物の)内的事象を同時に記述できる

  • ル形/タ形の選択に一部置き換え不可の事例はあるものの、両者の使い分けに絶対の基準はなく、作者の裁量に委ねられる

 当たり前のことかもしれませんが、自分なりに言語化してみるとすっきりしますね。日頃の読者としての感覚とも合致するように思います。
 これを踏まえた上で、著者としての立場でどちらを選択していくかですが……客観的であるべき記述は別として、個人的には、作中のできごとと読者の距離感をどう演出したいかによるのかな、と思います。

 ル形は臨場感がある、の一言で片づけてしまうには抵抗があるので、たとえば次のような場面はどうでしょう。

 <人物A>は四肢の力が失われるのを感じた。いまは気を緩めるべきでない、立ち向かうべき時だ。そうわかっているのに、崩れ落ちる己の視界は自身の手を離れたかのように侭ならぬ。

 今とっさに作り上げたシーンですが、虚脱感を覚えるような場面で、「失われるのを感じる」としてしまうのは違和感があります。なぜならこの時点で主体=人物Aは自身の体のコントロールを失っており、目の前の事象から心的には「遠ざかっている」からです。
 この説明が的を射ているかはわかりませんが(たぶんツッコミどころも多いでしょう)、過去の記述としての用法のほかに、タ形の記述には突き放したような感覚があることは否定できないでしょう。直接観測できる事柄か、コントロールの及ぶものかなど、さまざまな尺度に照らし合わせてル形/タ形を選択していくことになります。

 今回調べてみてよかったと思うのは、自分なりに「なんとなく」で選んでいた尺度を見直す機会になった点です。絶対の基準こそありませんが、こうやって「なんでだろう」と問いかけながら、磨いていきたいものですね。

参考文献

山本雅子.日本語時制形式の意味 ―事態解釈の観点から―.言語と文化 : 愛知大学語学教育研究室紀要.2010,50 (23),1-16

樋口万里子.日本語の時制表現と事態認知視点.九州工業大学情報工学部紀要.2001,人間科学篇 (14),53-81.

中原功一朗.日本語の文学作品における時制.関東学院大学経済学部教養学会紀要論文.2011,巻数(51), 1-24.

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