これまでのこと

自分のことを他者に話すときのためにこれまでのことを改めて整理しようと思う

自覚症状

今まで19歳になるまでは裸眼で生活。自動車教習所に通うきっかけで初めてメガネを購入するくらい視力で困ったことはなかった。
21歳のとき初めて視野の中心で少しモノが抜けて見える感覚があったが特に気にしてはいなかった。それからも運転中に信号の矢印が見えづらいことがあり、矯正しても1.0まではっきり見えない。乱視が強いのかもと言われ、「そんなものなのか」と思っていた。
母親からちゃんとした眼科に通った方がいいと言われながらも、面倒な気持ちと当然ながら生活に支障がないことから先延ばしにしてた。
大学卒業が近づく中、近医を受診するも眼底カメラとMRIで異常なし。
自分は視力がしっかり矯正はできない、きっと乱視が強かったりイレギュラーなタイプだけど病気ではなくて異常はない、そんな認識で就職を機に函館で一人暮らしを始める。

自分は普通じゃないのか?

函館で初めての一人暮らしは周りの人に恵まれた生活だった。エキサイティングで笑いの絶えない、今の自分を形成する大部分がこの4年弱の期間に凝縮されていると言っても過言ではないと思う。このあたりの話はまた別の機会にお伝えできればと。
さて、大学を卒業してから3年間で仕事でも日常生活でも段々と支障が出始めてきた。夜の運転で見えにくさ、中心視野の違和感、強い照明でボールを見失ったり…日々の充実を感じていたからこそ、目の違和感による不安を見ないように押し込めていたのだと思う。

そんな目を背けていた不安も隠せないほど大きくなり、諦めにも似たような決意で眼科へ。
そこで初めて網膜の病気かもしれないと言われ精密検査。診断名は「AZOOR(急性帯状潜在性網膜外層症)」疑いというもの。
実際に病名がついて、しかも難病で、北大病院でもっと詳しい検査をしてと言われ、正直かなりショックだった。
将来になんの希望もなくなり、自分に意味も価値も感じられないままどうでもいいやと自暴自棄にもなった。

自分は普通じゃないのか?
当たり前の人生、当たり前の幸せを描くこともできないのか?
誰かに迷惑をかけ続けて生きていかなきゃならないのか?
今思うとそのくらい視覚障害者に対してネガティブなイメージしか持っていなかった。

転居、そして治療

診断をうけて、札幌へ戻ることを決めた。転職先も決まり、札幌へ転居。
それと同時に北大病院へ受診し、入院してステロイドパルス療法を受けることに。
この間、一番辛かったのは親へ病気のことを伝えたこと。網膜の病気で原因もわからない、将来は全盲になるかもしれない、仕事はいつまで続けられるかわからない
そんなことをありのまま伝えた際に親は「ごめんね」と言って涙を流した。
当然謝る必要はないし、誰のせいでもないのだけれど、自分のせいで謝らせてしまったことに深く心が動かされたことを今でも覚えている。そして自分が親になって、その心情により共感できる。

入院中はステロイドパルス療法を2ターン行い、約4週間を病室で過ごした。
結果は大きな改善は見られなかったが、スマホの細かい文字が認識しやすくなったなど自覚としては少し改善したように思えた。
ただ、ステロイドの副作用もあり持続的にこの治療を続けることができないことからこれ以上の治療はせず、定期フォローを行うことにした。
退院後にステロイドパルス療法の副作用として現れたのはムーンフェイスと呼ばれる顔が丸く腫れたように変貌することと、不安感・焦燥感だった。
他者から見てどの程度認識できたのか分からないが、自分には顔つきが丸くなり腫れているように感じた。
そしてそれがもう二度と元に戻らなくなるのではないかと考えてなんとも言えない漠然とした不安に常に追われているような気分になった。
目の症状も含めて自分の将来を悲観的にしか捉えられないような状態が1週間ほど続いたのは辛かったが、それがきっと副作用によるものだと認識できていたことが踏みとどまれた一因だと思う。

ビジネススクールと2つの出会い

入院期間中、大学時代の恩師と会って話す機会があった。
自分の病気を治療するために転居したこと、そして将来的に放射線技師を続けられないことを伝えると、小樽商科大学のビジネススクールへの進学を勧められた。
大学時代から存在は知っていたし、MBAに対して劣等感に近い憧れを抱いていたことから退院後に受験し、翌年から通学することとなった。
非常に刺激的で多くの経験をしたビジネススクールでの話はまたいつか別の機会に記載したいと思う。

ビジネススクールへ通学していた最終年度にはプライベートな部分で大きな2つの出会いがあった。
1つは飼い猫との出会い。
今まで一度も動物を飼ったことがなかった自分にとって驚きと発見の連続連続であり、他者を受容できる範囲が格段に広がったと思う。
もう1つは妻との出会い。
彼女と出会っていなければ今の病気に向き合い、立ち向かって未来に進もうと考えることはできなかった。
太陽のような明るさと純粋で高い人間性が今も私の支えとなっており、感謝しても感謝しきれない存在だ。
こうした人生の転機となる出会いがなければ、きっとこうして未来に向かってチャレンジすることもなく、希望を持てないままその生涯を終えていただろう。

障害者手帳の交付と当事者意識

初めて病気を診断されてから約10年後、私は障害者手帳の申請をした。
なぜ、すぐに申請をしなかったかと
「私はまだ目が見えている」、「私は障害者ではない」と自分の病気に向き合うことを避けていたからだと思う。
自分が将来直面する課題や困難に対してどこか距離を置いて関係のないもの、自分は大丈夫だろうと、健常者のふりをしてやり過ごしていました。

申請のきっかけは定期フォローアップのために通院した際に近医のロービジョン外来を紹介してもらったこと。
そして子供を授かったことからよりリアルに自分の10年後、20年後の姿をイメージし、在りたい自分に向き合わざるを得なかったこと。
2つの理由からようやく障害者手帳の交付を受けた。
これで私は障害当事者だ。

何が変わったか?

タクシーチケットが交付され、遮光眼鏡を9割引きで購入でき、医療費助成を受けられるようになった。
周囲の自分に対する接し方は何も変わらない。
なぜもっと早く申請しなかったのか!私は激しく後悔した。
つまり、気にしていたのは自分自身でしかなく、社会からサポートを受けられるようになったのだ。

そして気になることが増えた。
視覚障害者はどうやって働いているのだろうか?
身の回りに自分と同じような立場の人はいるのだろうか?
私は障害者だ、そう受け入れられたときから様々な団体・個人にコンタクトを取り、話を聞いた。
改めて視覚障害者の就労について多くの課題があり、同じ悩みや想いを持っている人がいる。

私は残された時間を何に注ぐべきか?
その答えを今も問い続けている。


以上がこれまでのトピックを簡単にまとめた流れだ。
これからそれぞれの詳細についても気の向くままに綴っていきたいと思う。

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