【短篇】せかいおわりの七日間
軽率に世界を終わらせたくなったので。
せかいおわりの七日間
朝起きたら、世界は終わっていた。というより、自分以外の人間が消えていた。そのとき、僕は漠然と「ああ、世界は終わったんだな」と思った。何となく、その予兆はあった。随分前から、この世界で生きるのに向いていないと感じていたんだ。だけど、僕という人間が死ぬまでは、この世界は未だ受け入れたままでいてくれるんじゃないか。いきなり僕を追い出すことなんてしないんじゃないか。そんな儚い希望を抱いていたわけだ。
でも、現実はそう甘くはなかった。残念なことに、僕はこの世界から追い出されてしまった。本当に残念だ。無念でもある。なんて、それっぽいことを思っておいた。口にはしない。何を言っても、聞く人なんていやしないんだから。
世界が終わった日は、とても天気が良かった。晴れ晴れとしていて、清々すると言っても過言じゃない。僕の身体は鉛のように重くて、起き上がるのも億劫だった。不思議な感覚。さっきから、唇に無理矢理何かを押しあてられて、そこから注がれた液体がそのまま僕の身体を通っていくような。自分の身体が、まるで浄水器になってしまったような。何かはわからないけれど、確かに何かが変わっているような感覚が消えてくれない。とうとう、僕は人間じゃなくなったのかもしれない。でも、それなら僕はこの世界から追い出される必要もなかったんじゃないのか。この世界が終わって、僕は人間じゃなくなって、それで、果たしてこの先には何が待ち受けているというのだろうか。
<1日目>
僕以外の人間が消えたと言った。あれは嘘だった。同じアパートに住む、僕の隣人はちゃんと存在していたからだ。彼の名前はメイト。僕たちが住むアパートは酷く壁が薄くて、深夜に彼を呼ぶ彼の友人の声が聞こえていた。メイト、メイト、と。だから、僕は彼のことを外人だとずっと勘違いしていた。顔を合わせた彼は、日本人だった。でも、髪は金髪だった。耳にたくさん穴が開いていて、痛くないのかとちょっと怖くなった。僕もだけど、彼も僕がいることに驚いて、それから部屋に招き入れてくれた。そして、お互いの話を少しした。
メイトは、破滅衝動が服を着て歩いているような人で、僕が関わったことのない人種であることに間違いはなかった。だけど、二人だけだから。どうしたって、この世界には二人っきりなわけだから。僕は、メイトとしか話せないわけだ。もう二度と、メイト以外の人と話すことはない。そう考えたら、黙っているわけにもいかなかった。それに、今更普通のフリをする必要なんてない。だから、僕は、これまで誰にも言わなかったことだってメイトに話した。メイトはずっと笑っていた。メイトはどうだろう。元より、そういう人間だったように見える。でも、じゃあ何でメイトはこの世界から追い出されてしまったんだろう。そして、僕と同じ世界に来てしまったのだろう。謎は益々深まるばかりだ。とはいえ、深まった謎の答えを教えてくれる人だっていない。
つまり、もう何も考えなくて良いんだ。考える必要なんて、ない。
<2日目>
「悪いことをしてみたい」
と言った僕に、メイトはお酒の入ったコップをくれた。「ソファにぶちまけたら良い」と笑うメイトは、確かに悪い奴だった。本当にこれは悪いことなんだろうか、と思いながらコップを傾けた。ら、急に気分が悪くなった。たかが、お酒の入ったコップをソファにぶちまけるだけのことだ。ただ、それだけのこと。そうわかっているのに、自分が酷い極悪人になったような気分だった。硬直する僕を、メイトは目だけで笑う。
「今更?」と。
「良い奴も悪い奴も、そんなんねぇのに」
メイトの台詞に、その通りだと思った。だから、僕はコップをソファに落とした。落としたコップからお酒が溢れて、表面を濡らす。いや、表面だけじゃなくて、中まで浸みこんでしまったかもしれない。そう考える。ただ、そう考えただけだ。思ったような気持ちにならなくて困惑する。何も感じないわけじゃない。だけど、何かを感じたわけでもない。
「メイト」
呼ぶと、メイトは億劫そうに顔をあげた。僕は、ソファをじっと見下ろしている。少し喉が乾いていた。でも、お酒を飲んでも潤せない。
「一回、殴らせてくれない?」
「調子乗んなよ。俺は痛いのは嫌いなんだ」
そう言いながらも、メイトは満更じゃなかった。僕は金だと思っていたけれど、本人曰くシルバーだという髪を掻き上げて、本当にどうでも良さそうに笑う。
「誰かを殴りたいなら、外に出りゃ良いだろ」
と、その言葉の意味を僕は図りかねた。それは、どういう意味なのだろう。もう、この世界には僕たちしかいない。二人しかいない。ただ、二人きりなのに。出かかった言葉を、僕は噛み砕いて胃に落とした。その空洞の重さが気持ち悪くて、危うく吐いてしまいそうだった。
<3日目>
メイトに「薬をやる」と言われたのは、3日目だった。何の薬かと思えば、精神薬だった。メイトは精神病を長く患っていて、その薬が余っているので、僕に分けてくれるのだと言う。理屈はわかったが、意味がわからなかった。何故、僕にその精神病の薬とやらをくれる気になったのだろう。
「鏡見ろよ。酷い顔してるぞ」
そんなことは知らない。僕は、自分の顔をまじまじと見る趣味はない。それに、僕は
「僕は病気じゃない」
メイトは僕を見て、薬を見て、もう一度僕を見た。表情は変わらない。メイトは良く笑うけれど、それ以外のときは呆けているような顔をしている。何を考えているのかわからない。何も考えていないような、本当に呆けた顔でいる。そんな顔のまま、ぽかんと口を開く。歯が幾つか欠けていた。
「そりゃ俺にも病気かどうかはわかんねぇよ。でも、そういう顔のときは、薬を飲めば何とかなんだよ」
「でも、病気だから薬を飲むんでしょ」
「そうじゃないときもあんだろ。お前、チョコラBBとか飲まねぇのかよ」
「知らない」
「あっそ。じゃあもう良い」
そう言って、メイトは薬を棚に放り投げた。そして、ベッドに凭れかかる。呆けた顔をして宙を見上げているメイトを見て、壁を見て、もう一度僕はメイトを見る。
「メイトは、いつ自分が病気だってわかったの?」
僕の声に、メイトは伸びをしながら口を開く。
「わかってねぇよ。今もわかんねぇ」
「え?」
「わかんねぇけど、病気ってことにしたほうが楽なんだよ。俺は。お前みたいにぐちぐち悩む必要もねぇ」
「何それ」
「別に良いだろ。金払って自分が楽になりゃそれで。むしろ、お前」
メイトと視線が合う。真っ黒の瞳孔が僕を見ている。その瞳に映った僕は、確かに変な顔をしていた。
「知らねぇ医者に、何期待してんだ?」
メイトの真っ黒な瞳孔から、僕の姿が消える。誰も、僕を映していない。から、僕は一人になった。
わからない。わからない。メイトの言っていることが、僕にはわからないし、わからないけど、わからないけど、僕が何を期待しているのかもわからないけど、だけど、だとしたら。ぐわんぐわんと、脳が揺れる。あ、また。変な感覚だ。世界が終わってから、時折ある。僕が僕じゃなくなるような、自分が人間なのかわからなくなるような。手と足の先が冷たくなって、痺れていく。麻痺するってこういうことなんだろうな、と冷静な自分が横やりを入れる。笑い話にしようと躍起になっている冷静な筈の自分が、僕の頭を揺らしている。
「メイトは、期待しないの?」
僕の口から落ちた言葉は、いやに冷えていた。メイトが面倒そうに僕を見て、その瞳孔が丸くなる。この丸みと色を、僕は見たことがある。皆既日食だっただろうか。真っ黒な月だ。僕は、これを見たことがある。いつだっただろうか。わからない。それすらわからないけど、ただ。
このときに僕は、深く深く傷ついて、それこそ全身が冷たくなるほどの憎悪を抱いたに違いないんだ。
「ねぇ、メイトは期待しないの?」
「おい、お前」
「誰にも期待しないの? 期待しないで、期待されないで、それで良いの? それで満足なの? 自分だけで、本当に満足できるの?」
「おい! 落ち着けよ!」
メイトが慌てて立ち上がる。僕は、動けずにいる。ただ、その場に立ち竦んで、知らない内にぼろぼろと涙を流していた。メイトは、はじめて見る表情をしていた。僕のことが怖いのか、それとも面倒なのか、何もわからない。わからない。だけど、そうだ。僕は、今でも。
「ごめん、ごめんなのかな。わからないや。僕、わからないんだ。そういうことか。僕、ずっとずっとわからないんだ」
でも、それじゃ駄目だから。この世界では生きていけないから。もっと、ちゃんと、わかってる人間にならないといけないから。そして、そうやって、一生悩み苦しみ生きることが美徳だと、信じ続けないといけないから。
「わからないんだ、僕。死んでも、わからないんだよ」
死んだら救われるなんて、嘘だった。僕は、きっと何回死んでも、同じことで悩んでいくんだと思う。
<4日目>
自分の苦しい感情を吐き出すのが苦手だった。心の痛みを理解するのが苦手だった。気持ちや感情という不確かなものに縋る人間というのは、惨めで愚かで恥ずべき人間だと思っていた。でも、世界が終わって思うんだ。もしかしたら、そう思わされていただけなのかもしれないって。
暴力は気楽だった。暴力はとてもわかりやすい指標で、殴られれば痛いし、血が出るし痣にもなる。そして、傷つけられたほうは被害者になる。傷つけたほうが加害者になる。とてもわかりやすい関係で、僕は好きだった。でも、心は傷つけられても血は出ない。痣にもならない。だから、誰も手当をしてくれない。そうして自然と自分で治す癖ができた。たかがそんな言葉で傷つく奴が悪いんだという言葉を疑ってもいなかった。誰もが自分の傷は自分で治しているものだと思っていたし、血も出なければ痣にもならないその傷を、誰が本当に傷だと判断するのだろうと思っていた。
悲しいと思うこと、怒ること、傷つけられたこと。全て、自分で何とかすれば良い話で、相手に憤る意味を僕は知らなかった。わからなかった。どうして、皆が泣くのか。泣いている人を皆が慰めるのか。それが、本当にわからなかった。ただ泣くことに何の意味があるのだろうと思った。泣くときは、何か意味があるのだと思っていた。だから、僕は。
あれは、真っ白な部屋だった。どうして、泣いているのと聞いたとき「自然と涙が出てしまうんです」と言われて、僕はそういう人間が世の中にたくさんいることを知った。自然と涙が出ることなんてあるのだろうか。そんなわけがない。皆、そうやって泣けば自分が許されることを知っているから、駄目な自分を守って貰えると思っているから。だから泣くんだ。そのとき、壁にかかっていたカレンダーには、綺麗な風景の写真が印刷されていた。皆既日食。僕には、きっと一生見られない風景。そうか、これもそうだ。一生、僕にはわからないんだろう。そのまま、わからないで済めば良かったんだ。
凄いですね、と。心優しい人ですね、と。言われることが増えた。そうして、そう言われる度に、僕の心と呼ばれる部分が血を噴き出すようになった。馬鹿々々しい。心が血を流すことなんてないと知っているのに。痣ができることなんてないとわかっているのに。それなのに。
心は血が噴き出て、痣ができて、殺されてしまうこともあるんだと知ったその日から、わかったフリをしていた僕の心から血が溢れて止まらない。ああ、もうどうにもならないね。この量なら水槽でも足りないよ。そうだ、水族館を作ろう。僕の心から流れた血に、僕がこれまで食べた魚の残骸を泳がすよ。そうして、薄暗い水族館で、真っ赤な海を泳ぐ死んだ魚を眺めないか。そう言って茶化す冷静な僕の言葉を、僕は笑いながら聞いている。ああ、そうだ。涙は流れるよ。こういうとき、知らない内に涙は流れるけれど、そういうときは笑わないといけないんだ。わかるかい。わからないだろう。僕は、ちっともわからない。
そうだね、わかってるフリに慣れ過ぎて。
これがもう本当の僕になってしまったから。
<5日目>
熱をだして、1日眠っていたらしい。起きた僕に、メイトが教えてくれた。頑なに薬を飲もうとしないので死んだと思った、と言う台詞は蛇足だろうと思う。僕は、やけに頭がスッキリしていた。スッキリし過ぎて、風邪薬と、前にメイトに言われた精神薬を一緒に飲んでしまうぐらいには。そんな僕を、メイトは訝しげな目で見ていた。
「お前、おかしいよ」
「何が?」
「だって、俺が親切心で薬飲めって言ったときは滅茶苦茶キレてたのに」
「そうだっけ?」
「そういうとこ」
そんな話をしながら、だらだらと時間を過ごす。そういえば、この世界が終わって数日が経った。この世界はいつまで続くのだろう。そして、僕はいつまでメイトと一緒にいられるのだろう。そんなことを考えた。考えて、笑った。メイトが不審なものを見る目で僕を見る。
「え、何ぃ?」
「いや、おかしかっただけ」
「だから、その内容を話せよ」
「ええ、何ていうのかな。何て言ったら良いんだろう」
「とりあえず言ってみれば?」
メイトは煙草を口に咥える。髪はシルバーで、耳たぶにはピアス穴が並んでいて、酒と煙草を嗜み、精神病を患っている。そして、その全てのことに堂々としている。それがメイトだ。どうして僕の世界にメイトがいるのかはわからなかったけれど、少しずつわかりはじめている。未だ、輪郭だけで埋まっていない。だから、僕は曖昧な表現でぼかして逃げようとする。だけど、確かなことは。
僕は、きっとメイトみたいになりたかったんだ。
「一回、君を殺させて欲しいんだけど、良いかな?」
そう言ったときのメイトの顔は本当に面白かった。「ふざけんな! 俺が先にお前をぶっ殺す!」って怒られても、おかしくておかしくて、もしかしたらはじめて本当に幸せを感じた瞬間だったかもしれなかった。
きっと僕は、昔からそういう人間だったのかもしれない。もし神様がいるのなら、僕をあの世界から追い出してくれたのは、間違いなんかじゃなかった。それだけを伝えたいと思う。
<6日目>
メイトの部屋には、びっくりするぐらいにお酒が置いてある。そして、そのお酒をあまりにも雑に飲む。僕はお酒は嗜むぐらいだったけれど、世界が終わった日から、昼夜関係なく飲むようになってしまっていた。メイトはそれが当たり前のようだったけど、昼間仕事に行っていた僕には堪えた。でも、今はどうだ。お互いに酔っぱらって、狭い部屋に身を寄せ合って話をしている。
「メイトはさ」と、僕が口火を切る。
「これまで、何してたの?」と。メイトは「あえ~」と呂律の回らない舌で答える。
「まぁ、普通だよ」
「嘘だ」
「本当だよ! 俺は、普通に生きてきたって」
「こんなにピアス開けてるのに?」
そう言いながら、僕はメイトの耳たぶを引っ張る。メイトは目を細めて僕の手を払いのけた。
「テンプレだな、それ。ピアスの数が何だってんだよ」
「不良っぽいじゃん」
「知らねぇよ。じゃあ何だ? ピアスの数で不良バトルすんのか? どっちが良い不良ですかって?」
「それは、わかんないけど」
「俺はどうでも良いんだよ。マジで、どうでも良い」
そりゃそうか、と僕はお酒を飲む。メイトは珍しく酔っぱらっているのか鬱屈した瞳で僕を見た。
「なぁ、何で俺がお前に声かけたか教えてやろうか?」
「なに」
「俺はさ、期待されたくねぇんだよ。まぁそれで良いんだ。こんな見た目の精神疾患持ちで、普通の生活ができねぇ奴。そう思われたいんだよ」
「……」
「誰にも期待されたくない。だから、俺は誰にも期待しない。それで良いんだよ。それで良いだろ?」
「それは」そうだ、と僕は言いかけた。でも、そんな僕よりも早く酔っぱらったメイトが続ける。
「でも、違ったんだろうな。あの日、お前が、あんまりにも救いを求める目をしてたから」
だから、とメイトは笑った。そうだ、その通りだ。あの日、僕は。本当に世界が終わったと思ったのに、だけどメイトがいてくれたから。だから僕は、二人きりの世界になってはじめて、自分のことを話せるようになったんだ。自分の心を理解できたんだ。
「俺でも、未だ誰かの期待に応えられるんじゃねぇかって、思ったんだよなぁ」
パチ、パチ。パチ、と。あ、と。
目の前で、線香花火みたいな光が、点いては消えた。咄嗟に、僕はメイトに触れたいと思った。だけど、冷静な僕が止める。手が痺れて動かない。何か言おうと思った。だけど、冷静な僕が止める。喉が乾いて、乾いて、何も言えない。メイトが僕を見る。メイトのあの黒い瞳に映った僕は、何の変哲もない僕だった。顔色一つ変えていない。そんな自分を、はじめて見た。ああ、自分はこんな顔を、いつも、こんな、何の色もない、他人事の顔をしていたのだと気づいた。
「上がるより下がるほうが楽だ。馬鹿と一緒にいるほうが楽だ。お互いに考えなくて済む。誤魔化せる。誤魔化して、楽しいことだけ考えて生きていける。時には被害者面すれば良い。でも、それじゃ駄目だって言う奴がいるなら」
パチ、パチ。火花が散っている。僕の目の前で。
「自分から落ちたほうがよっぽど楽だろ。それを俺は知ってるから。だから、お前も落ちたほうが良いだろって思ったんだけど、ああ。いや、違う。なぁ、悪い」
パチ、パチ、パチ。あ。メイトの瞳が、きゅうと狭くなる。ふと見えた時計の針が、丁度24時を知らせる。ああ、明日になった。
「俺には、お前を救えない。お前は、ここにいて良い人間じゃなかった」
その声に、僕の世界が止まった。
<7日目>
世界が終わってどれぐらい時間が経ったのだろう。それはわからない。何もわからない。わからなくて良いんだ。だって、ただ二人だけの世界なんだから。僕を嫌いになっても構わない。相手が一人になるだけだ。それなら、きっと向こうは僕を嫌いにはなっても離れることはないだろう。
だけど、不安になる。いつ、彼はいなくなるのだろう。そのことばかり考えている。もしかしたら、彼は僕の妄想の産物で存在しない人間なのかもしれない。それが一番有力だ。でも、実在するとしたら。いつ、いなくなってしまうのだろう。いつ、いつ、いつ。いつ、僕の前から消えてしまうんだ。どうしたら、消えずにいてくれるんだ。そんなことばかり考える、この僕の不安を、わかってはくれないか。
24時の針が過ぎたのを見て、僕は台所へと向かった。メイトは何も言わなかった。僕がお酒のお代わりを持ってこようとしていると思ったのかもしれない。冷蔵庫を開けると、まだまだお酒は残っていた。ビールとハイボールと、チューハイ。メイトはレモンハイが好きだ。そんな要らないことを知った。メイトは何も言わない。僕も何も言わない。だとしたら、僕たちの世界はここで終わりに違いない。
明日、目が覚めたら。メイトはいないだろうという確信があった。そして、僕は本当の意味で一人になるのだ。一人で、この世界を生きていく。それでも良い。それが、僕に課された拷問だとするのなら、僕は元から罪人だったことになる。また、罪を重ねようとするのか、と冷静な僕が言う。僕は台所の戸棚を開いて包丁を手に取った。また、罪を重ねようとするのか、と冷静な僕が言う。また、罪を重ねようとするのか、と冷静な僕が言う。また、罪を重ねようとするのか、と冷静な僕が言う。何度も何度も、同じ言葉を言い続ける。だから、僕は冷静な僕を刺した。そしたら、良くわからないところから血が噴き出した。でも、大丈夫。心が刺されても、血は見えない。表面上は、どうということはない。僕はビールと包丁を両手に持っていた。メイトは酔っ払っていて、ベッドに寝転んでいるところだった。
ああ、そうだ。そうだ。そうだよ。これで、終わるんだ。
これでようやく、僕の世界が終わるんだね。
「俺、寝るわ」と呑気な声で言ったメイトの下に戻り、僕は包丁を振りかざす。振りかざした、その瞬間、脳裏で色んなものが弾けた。
黒い月が僕を見ている。そうだ、これが普通なんだ。普通なんだ。普通なんだ。僕がおかしいんだ。そうだ。僕がおかしい。おかしいんだ。治さなきゃいけない。黒い月が僕を見ている。僕がおかしい。向こうが正しい。誰もが被害者だ。それが普通なんだ。弱い奴が正しいんだ。何も出来ないと泣く奴は守られて、血反吐を吐く僕のことを、誰も守ってくれない。ああ、そうだ。守る意味もないだろうね。誰も、僕のことを、僕の本当の気持ちを。守ってくれない。言わないお前が悪いんだと罵倒する。思ったことを言える世界じゃないから、僕はこうなっている。全員が好き勝手言ってたらこの世界は崩壊しているよ。とっくの昔に。
ああ、だからこの世界は崩壊したのか。
包丁を、刺した。刺した。刺した先は、メイトの直ぐ傍だった。目を閉じていたメイトが目を開く。瞬間、僕の目から涙が溢れた。溢れて止まらない。もう、自分でも良くわからない。わからない。わからない。包丁を握る手が震えてどうしようもないのもわからない。メイトは僕の涙を頬で受け止めて、包丁を見て、あの呆けた顔のまま言った。
「俺のことを殺したいの?」と。その言葉に、僕は益々涙が溢れた。
「ち、がう」
「違うの?」
「違う! 殺したくない! でも、でも……」
僕は包丁を持ち上げる。手が震えてどうにもならなかった。メイトの瞳は僕を見ている。
「僕の知らない内に死ぬなら、今死んで欲しい!」
それが、僕の言葉だった。ようやく言えたことだった。メイトは涙でぐちゃぐちゃの僕の顔を、あの呆けた顔で見つめて、ふっと笑う。馬鹿にした笑いじゃなくて、自然と漏れた息だった。
「俺、未だ死にたくないんだけどな。でも、まぁ殺したいなら殺せよ」
そう言って、メイトは身体の力を抜く。僕の眼下には、手を挙げたメイトがいる。そうだ。そう。それで良い。たかが、人間一人の人生だ。僕の人生は、もう終わった。終わったんだ。だったら、ここからは好きに生きたら良い。好きに、したかったことをすれば良いだけなんだ。
それなのに、僕は、メイトを刺すことはできなかった。何もできなかった。ただ、涙が溢れて、喉に引っ掛かった声をだすだけで、何もできなかった。ふと、僕の手に何かが触れる。それはメイトの手だった。メイトの手がやんわりと僕から包丁を奪う。それを見て、僕は益々泣いた。何でかはわからなかった。
「お前、やっぱおかしいよ」
と、メイトは言う。その声に、僕は泣きすぎて答えられなかった。メイトは包丁を部屋の隅に放り投げて、空いた手で僕を抱き寄せる。それに反発しようとして、やめた。涙が止まらない僕の涙に、メイトの手が触れる。拭うような仕草をしたけど、全く涙は拭えていない。何故って、ずっと涙が溢れているからだ。そんな僕を眺めていたメイトは、はじめて、本当にはじめて、困ったように笑った。
「悪い。前言撤回になるかもしんないんだけど」と。
そうして、本当に綺麗に笑ったんだ。
「おかしいお前を、おかしい俺に救わせろよ」
喉が詰まる。喉が詰まるし、心は今も血が流れて止まらない。でも、それでも良い。それでも。だって、この世界に、もう二人きりなんだから。
僕たちは、おかしい者同士で愛し合うしか道がないんだ。
でも、その言葉が僕が一生求めていたものだったって、ようやく気付いた。そう言って欲しくて僕はこれまで生きていたんだって気づいて、僕も抱きしめ返した。
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