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生きづらさと上手な生き方

 はじめに書いておきますが、多分この文章は貴方を救うことはできません。
 ただ単に、一人の人間の話をつらつらと書いていく次第です。

人間が好き

 まず、僕は人間が好きです。
 もし転生があるのなら、僕は電柱になって皆さんを社会的インフラの視点から見守りたいと思ってはいるのですが、人間として生まれて良かったと思っています。あと、クラゲも好きです。最近、スマホでクラゲを飼い始めたら思った以上に可愛くて癒されています。クラゲ飼いたいな。金持ちになったら、飼いたい。飼えるの? とりあえず、当面は水族館で良いか。
 最近は「多様性」や「ダイバーシティ」などなど、難しい言葉が溢れかえっておりますな。新たな人間の可能性に価値を見いだしているのは良きことだと思いますが、その一方で結局はこの過程もテンプレート化するための情報収集なのだな、と思う冷めた自分もおるのです。でも、社会が発展するためにも必要なことなのだなと納得する部分もあります。
 人間を人間たらしめる要素とは何なのでしょう。どうしたら、自分は人間だと胸をはって言えるのでしょう。僕はパスカルの「人間は考える葦である」という言葉がとても好きなのですが、つまりは僕にとって自分を人間だと思える瞬間が「考えること」以外にないからなのだろうなぁとも思います。
 社会には社会の思想があります。意識をもたない集合体、と僕は社会を呼んでいます。でもそこに集う人間は、誰もが意識を持っている。個性を持っている。価値観を持っている。だからこそ、社会は軋むのでしょう。時には暴動のような姿になって、現在あるべき方向へと進んでいくのかもしれません。
 個人的にですが、人間として生きる以上、社会と触れ合うのは仕方がないことだと思っています。そもそも、生まれた時点で社会の一員に組み込まれてしまっているのですから、今更何を言っても仕方がないことだと思うのです。僕は、誰かが共感してくれれば良いと思いつつも、僕を理解して欲しいとまでは言うつもりはありません。ただ、こんな奴もいるのだと思ってもらえば、それだけで満足です。

全人類ヒーロー計画

 僕は、この世界を変えようなどと大それた目標を持っているわけではありません。子供の頃の夢は「ヒーロー」でした。それも、幼い頃の自分を今の自分が救ってやりたい。でも、物理的に無理な話です。時間は絶えず流れ続けていますから、過去の僕を現在の僕が救うことは物理的に無理なのです。
 だから、僕は僕のように苦しむ誰かを救いたいと思うようになりました。貴方は悪くないんだと言ってあげたかった。それで良いんだと言ってあげたかった。これは悪い病なんだと言ってあげたかった。いつかきっと落ち着くときがくる、時間が薬になる、と言ってあげたかった。
 目の前で困っている人を見捨てる人間にはなりたくない。誠実に生きていたい。
 そう思って、今も生きています。そして、仕事もそうしています。そうすると、仕事中に色々な事件が舞い込んでくるのですが、それで良いのだと思います。人間に対して、非効率的だと思いたくはありません。仕事に関しては、勿論効率を求めますが、それとは別の人間の部分は非効率で差し支えないでしょう。人間と仕事について混同している方もいますが、僕は人間と仕事は確かに繋がっているようで、差別化できることだと感じています。それこそ、オン・オフの切り替えですね。でも、そんな簡単にスイッチ一つで人格が入れ替わるのなら、みんな苦労はしないでしょうね。
 昨今の風潮で気になるのは、この世が「全人類ヒーロー計画」を進めているように見えるところです。勿論、人間として生まれたからには誰もが主人公です。ただ、それを社会で主張するとなると、社会は破綻します。何故なら、社会は意識を持たない集合体だからです。全人類の意識に配慮することなど到底できません。全ては、社会に集う人間同士の話に帰結します。
 つまりは、今、目の前にいる相手に対して貴方は誠実に対応していますか? ということなのです。この世には、想像もつかない数の人間が生きていて、一生出会うこともない人がいるのであれば、今目の前にいる人と出会えたことは運命なのか、はたまた偶然だと思うのか。その意識が大切なのではないでしょうか。そして、自分の意見を述べる前に、目の前の人に対して自分は本当に誠実に対応しているのでしょうか。
 意識を持たない集合体に対して、幾ら声をあげても届きません。今、目の前にいる人に誠実に対応すること。自分という人間について、素直に話すこと。それが、まず第一歩なのではないかと思います。そして、人間に対して誠実でありたいと思っているのであれば、そうであって欲しいと願います。
 意識を持たない集合体は答えをくれません。そして、自身を取り巻く手の届く範囲の世界しか、僕達には見えないのです。ねえ、自分が死んだ後のことまで考えていますか? 自分が死んだ後、この世がより良くなるために、とは誰のための言葉ですか? 誰にとってのより良い世界ですか? それは、本当に貴方の求めているものなんでしょうか。
 僕は、自分が評価された分だけ、評価されなかった人がいることを知っています。仕事とはそういうものです。全員に100点をつけられたら、さぞや楽でしょうね。でも、そういうわけにはいきませんから、100点をとれたとしても、隣に120点をとった人がいれば、120点をとった人が評価されるわけです。それでも、前に進むしかない。その覚悟を持って、僕は仕事をしています。その理由は何でしょう? 自分でもわかりません。
 ただ、全人類がヒーローになったら世界は崩壊するのだろうな、と思っています。

イマジナリーフレンド(仮)

 自分のことは自分が一番良くわかっている、という言葉があります。でも、果たしてどうなんでしょうね。自分の腹掻っ捌いても、僕には見えないわけですから。(前にも書きましたが)
 さて、僕の社会性が0なことはそろそろこの文章でも感じ取っていただけてるのではないかなと思うのですが、じゃあそんな僕がどうやってこれまで生きてきたかというと、自分の中にもう一人の自分を作るという作業です。
 これを言うと「多重人格?」と思われてしまうのですが、そうではありません。自分を客観視する自分を作るのです。僕も人間ですから、苦しくてしんどくて夜中に泣いて枕をバンバンたたきたくなるときもあります。そういうとき、心の中で囁いてやるのです。「もう止めよう、こんなことをしていても意味のないことだ。こんなことで、貴方の気持ちは慰められない。それよりも、ゆっくりと眠りなさい」と、自分で自分に語りかけるんですね。
 こういう経験、ありませんか? 僕は結構あります。布団の中で泣きながらシャドーボクシング()したり、手を噛んでみたりしても、冷静な自分が「大丈夫、大丈夫だよ。明日に差し支えるから、今日は寝ようね」と言ってくれるわけです。まぁ言ってるのは僕なのですが。兎に角寝ろ、と言ってるのがわかりますね。これまでの経験からでしょうか。変に真面目で効率的な自分と、素直で感情的な自分が混同しているのがわかりますね。
 上記のことをイマジナリーフレンドと呼ぶかはわかりませんが、僕の世界が僕の中で完結していることがわかる話だと思います。脳内に何体いるんだろう。でも、それでも生きてるのですから、世の中は不思議ですね。

生きている

 生きているということが、何よりも尊いと僕は思っています。煙草と酒が趣味だから早死にだと笑いながら、でもそれでも生きてるだけで幸せだ。そう思うと、世の中が色々違って見えるのではないでしょうか。
 どこか鬱屈している。苦しくて苦しくてしんどくて仕方がない。それでも、明日はくる。僕の好きな言葉で「それでも朝はくる」というのがあるのですが、所謂時間に身を任せるということです。ちなみに、仕事のMTG前にはいつも思っています。つまりは、苦しいのもこの数時間だけなのだ。その間だけ我慢すれば良いのだ、と思うということです。
 この瞬間だけ我慢すれば良いと思うと、少し心が楽になります。そうだ、終わったら好きな物を食べよう。いや、最早ぼこぼこに言われたって良い。どうでも良い。そうだ、この1時間、2時間だけ心を無にして我慢すれば良いんだ。その後は、ラーメン食って帰ろう。
 そう思えるようになると、だいぶ生きやすくなりました。といっても、これが僕の第一歩だったわけですが。自分ではどうにも出来ないことがある。そう思うと、少しだけ心が楽になるかもしれません。辛いと思うこと、しんどいと思うこと。それを口にするのは、大変勇気がいることです。
 どうか、生きていて良かったと思える日々を歩んでください。僕は、生きていて良かったと思っています。生きていたい、死ぬときまで。そう思うと、自分の大切なものが見えるのではないかと思うのです。
 ちなみに、僕はまず「自分の大切なもの」を考えるよりも、「絶対に自分ができないこと」から、自分の大切なものを考えたほうが良いと思います。貴方の曲げられないそれが、とても大切なことなのだと思います。

しずかに満ちる

 常にハッピーでいられたら楽しいかもしれませんが、疲れますね。だから、静かに満ちていけば良いんじゃないでしょうか。ゆっくりとゆっくりと、だけど前に進んでいればそれで良いんだと思う昨今です。
 何の話だったんだ? そう、僕は人間が好きです。人間に生まれて良かったな、そう口にしたら涙が出るぐらい、誠実に生きていたいと思います。

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