目の前の1秒に「欲」は存在しない。
質問です。
日本にはあるのにカンボジアの村にはないものってな〜んだ?
村での今日の1日をご紹介するので、
ふたつの答えを探しながら読み進めてみてくだい。
今日はカンボジアの村から執筆しています。
あたりにはすっかり夜が来て、
聞こえるのは家族の話し声と犬の遠吠えと、トカゲの声だけになりました。
今朝も鶏と犬の鳴き声で目を覚まし、1日が始まりました。
一番鶏とはうまく言ったもので、毎朝明るくなる1時間ほど前に最初の鶏が鳴きだしたかと思うと、それに釣られるようにして次から次へとたくさんの鶏が鳴き始めます。
犬は少し寝坊助で、一番鶏からしばらくして、そのあとを追います。
そして、市場へ仕事に出かける村人のバイクが石を蹴る音が聞こえてきたら、そろそろ起きる時間です。
近くの学校に三々五々子どもたちが集まり始める自転車の音を聞いていると、100mほど離れた家から僕を呼ぶ声が聞こえてきます。
ご飯を作ってくれた合図です。
ご飯を美味しく頂いたら朝の水浴びを済ませて、洗濯に取り掛かります。
そしてこの辺りからは、されるがまま。
市場に行こうと言われれば行くし、
お寺に行こうと言われれば行きます。
そうこうしていたら太陽は真上まで移動して、カンカン照り。
今日は子どもたちに川まで連れていかれました。
そして、ひととき遊んだあとで「帰ろう。」と言われたので帰ってきまして、
本日3度目の水浴びを済ませたか済ませないかのタイミングでまたもや子どもに誘われました。
子どもたちは水浴びのあとに密かに推し進めている僕の省エネアクションを許してくれるはずもなく、結局汗だくになるまで遊んで、
そしたら食卓に呼んでもらってご馳走様。
本日4度目の水浴びをして、
村のお父さんと雑談なんかしたりして、
なんだかんだで今はもう布団の中なのですが、
僕は今日もとても満足な1日を過ごしました。
さて、ここまで読んでいただいたあなたに、冒頭の質問をもう一度。
日本にあるのにカンボジアの村にはないもの、な〜んだ?
分かりましたか?
答えはふたつありますよ。
答えその1は「主導権」です。
ここでの生活、僕に主導権はありません。
そう言うと、
「え〜、嫌だ。」という声も聞こえてきそうですね。
それがそうでもない。
大きな流れに乗っかった暮らしができるのは、案外悪くないものなのです。
「主導権」はつまり「欲や執着」と言ってもいいですから、
ここでの生活において、僕からは「欲」も「執着」も綺麗に削ぎ落とされるんですね。
そうすると、気持ちがいいもので、すべてを受け入れることができるようになります。
体からも心からも余計な力が抜けて、軽やかになるんです。
そして、身を任せて流れ着く先には必ずと言っていいほど楽しいことが待っている。
そのことが体感的に理解できるようになります。
さて、答えその2。
それは「時計」です。
村には時計がありません。
星野リゾート的なことを素でやっている。
ただし、時計がないからと言って時間を忘れてダラダラしているわけでもない村の人。
そんな村人たちを観察して分かったことがあります。
それは目の前の時間に全力を注いでいるということ。
この村の人には
「今日は何時までにあれを済ませなきゃ。」
という概念はありません。
その代わり、
「今はご飯を美味しく作ろう。」
「今は夕食の魚を釣ろう。」
「今は、休もう。」
など、目の前の時間にしっかり集中している。
完全なるシングルタスク。
そうすると不思議なもので、
ちゃんと時間の辻褄が合いまして、
毎日同じ時間に1日を終えることができるんですね。
これをメソッドとして体系的にお伝えするにはまだまだ観察が必要ですが、時計のない村で人々が毎日同じ時間に朝を初めて同じ時間に1日を終えることは紛れもない事実なのでした。
「余計な執着や欲をなくす。」
「目に前の1秒にすべてを注ぐ。」
この平和な村から学んだ、軽やかに生きるためのヒントでした。
本日も文末までお付き合いいただきありがとうございました。
それでは、また次回。
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