とっておきの〈人の動かし方〉とは?『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』試し読み
「客観的な事実や数字は他人の考えを変える武器にはならない」など、認知神経科学が近年発見した数々の驚くべき研究結果を示し、他人の説得しようとするときに私たちが陥りがちな罠と、それを避ける方法を紹介します。キャス・サンスティーンが「他人を説得するための優れた方法だと思っていたものは、いまや間違いであることが明らかになった。その誤りを正し、役に立つ助言を詰め込んだ本書は、あなたの人生すら変えてくれるかもしれない」と評する本書から、「はじめに」をお届けします。
■ ■ ■
はじめに――馬用の巨大注射針
人は誰しも何らかの役割を担っている。自分の役割について深く考えない人もいれば、絶えず意識している人もいるだろう。夫や妻として、親として、友達として、あなたはその役割を果たしている。また、医師や教師、ファイナンシャルアドバイザー、ジャーナリスト、経営者として、そして何よりも人間としての役割を、日々果たしているに違いない。
すべての役割に共通する任務は、相手に影響を与えることである。私たちが子供にものを教え、患者の手助けをし、クライアントの相談に乗り、友人には手を差し伸べ、SNSのフォロワーに情報を提供するのは、それぞれが他人とは違う経験、知識、技術をもっているからだ。しかし、私たちはその任務をうまく果たせているのだろうか?
とても重要なメッセージをもつ人や、最も役立つ助言のできる人が、必ずしも絶大な影響力をもつわけではないように私は感じる。怪しげなバイオ技術に数十億ドルを投資するよう説得できた企業家がいる一方で、地球の未来のために取り組むよう国民を説得できなかった政治家もいる。近年の歴史はそのような謎だらけだ。だとしたら、他人の考え方に影響を与えられるか、それとも無視されるかの違いはどこにあるのだろう? 逆に、あなたが他人の影響で自分の信念や行動を変えるときの決め手は何なのだろうか?
あなたという存在はあなたの脳が作り上げている、というのが本書の基本となる前提だ。心をよぎった考え、抱いた感情、下した決断――それらはすべて、脳内のニューロン〔神経細胞〕が発火することによって生み出されている。とはいえ、頭蓋骨の中に鎮座しているその脳は、完全にあなたのものというわけではない。それは、何百万年という歳月をかけて書かれ、書き直され、編集されてきた遺伝情報による産物でもあるからだ。その情報を知り、そのように書かれてきた理由を理解すれば、他人の反応をより正確に予測することができるだろう。また、ついやってしまいがちないくつかの方法では人を説得できないのに、違う方法なら成功するのはなぜかもわかってくるはずだ。
この二〇年間、私は人間の行動について研究を重ねてきた。人が前言を翻したり、信念を新たにしたり、記憶を書き換えたりする仕組みを知るため、仲間とともに数多くの実験を行っている。インセンティブ、感情、背景、社会的状況に体系的な操作を施したうえで、人々の脳内を覗き、身体反応を観察し、行動を記録してきたが、それによって明らかになったのは、多くの人が「こうすれば他人の考えや行動を変えることができる」と信じている方法が、実は間違っていたという事実だ。他人の考えを変えようとするときに犯しがちな誤りと、それが成功した場合の要因を明白にすることが本書の目的である。
まずは、私の身近に起こった話から始めたい。私は危うくある男性から、科学者としての長年の経験に背く決断を促されそうになった。その男性は予想を絶する影響力で、世の人々をけむに巻いている。
* * *
二〇一五年九月一六日の夜八時頃、私は居間のソファに座って、CNNで共和党の第二回候補者討論会を見ていた。二〇一六年の大統領選はアメリカ史上きわめて興味深く、予期せぬ展開や驚きに満ちていた。結果として、人間の本質を知るうえでも魅力的な研究対象となった。
カリフォルニア州シミバレーにある、ロナルド・レーガン記念図書館。そのステージ中央に立っているのは二人の最有力候補者である、小児神経外科医のベン・カーソンと、不動産王ドナルド・トランプだ。移民問題と税金に関する討論の合間に、自閉症についての議論が持ち上がった。
「カーソンさん」と司会者が問いかける。「ドナルド・トランプ氏は、子供のワクチン接種と自閉症に関連性があると、公の場で何度も主張しています。これに対して医学関係者は強く異を唱えていますが、小児神経外科医であるあなたも、トランプ氏はこの発言を慎むべきだと思いますか?」
「このように言わせてください」カーソンは答えた。「これまでに非常に多くの研究が行われてきました。しかしワクチンと自閉症の相関を示す結果は報告されておりません」
「では、トランプ氏は自閉症の原因がワクチンだという発言を控えるべきか?」司会者が繰り返す。
「いま申し上げたとおりです。その気があるのなら、そうした研究論文をお読みになるといい。彼は頭の良い方ですから、真実を知れば正しい判断を下せるでしょう」
私はカーソンの考えすべてに賛同するわけではなかったが、この件に関しては同意していた。神経科学者という職業柄だけでなく、当時二歳半と生後七週間の二人の子をもつ親として、たまたまそのような文献に触れる機会が多かったからだ。だからこそ、トランプの次の言葉に対する自分自身のリアクションには驚愕した。
「私に言わせてもらえるなら、自閉症はいまや流行病ですよ……すでに制御できなくなってきている……小さな可愛らしい赤ん坊を連れてきて、注射をする――子供用なんかじゃなくて、それは馬に使うようなばかでかいものに見える。実例ならたくさんありますよ。私どもの従業員の話ですが、つい先日二歳の子が、二歳半の可愛らしい子供が、ワクチンを受けに行った一週間後に高熱を出しました。その後ひどい悪い病気になり、いまでは自閉症です」
私が即座に示した反応は本能的なものだった。看護師が馬用の巨大な注射器を私の赤ちゃんに突き刺すイメージが頭に浮かんで離れない。予防接種に使われる注射器が普通サイズのものだということくらい、百も承知のはずなのに――私はパニックに陥った。
「どうしよう? うちの子が自閉症になったら」。そんな考えが頭をかすめること自体ショックだったが、それでもなお、親であれば誰もがよく知る不安という感情が、たちどころに心を支配した。
カーソンが切り返した。「しかしですね、ワクチンが原因となった自閉症などないことは、実際に十二分に立証されているんですよ」
そうだ、ちゃんと立証されている。カーソンはいくらでも研究論文を引っ張り出してきてくれるはずだ。それでも、私の頭の中に巻き起こった嵐は鎮まろうとしない。馬用注射器の太い針が襲いかかり、私の赤ちゃんは病魔に冒される。
しかしどういうことなのか。一方の演台に立つのは小児神経外科医で、数々の医学論文や長年の臨床経験などの強みがある。もう一方の別の演台に立つのは実業家であり、その主張はつまるところ偏見と直感の産物だ。それなのに、長いあいだ科学の教育を受けてきた私が、後者に説得されそうになるのはなぜなのか?
答えははっきりしていた。だから私は現実に戻ることができた。
カーソンが「知性」を狙ってくるのに対して、トランプはその他すべての部分に訴えかけてくる。しかも彼は、それを定石どおり、こんなふうにやってのけた。
トランプは、状況をコントロールしたいという人間の根源的欲求と、そうしたコントロールを失うことへの不安を巧みに利用した。彼は他人の失敗を例に挙げて感情を誘導することによって、聴衆の脳の活動パターンを自分と同期させ、彼の視点を通じてものを見るように仕向けたのだ。そうやって、彼の忠告に従わなければ悲惨な結末が待っていると信じ込ませようとした。のちに説明するとおり、不安を植えつけるというのは、人を説得するアプローチとしては弱い。実際のところ、希望をもたらす方がずっとうまくいく場合が多い。しかし次の二つの条件下では、不安がうまく機能する。ⓐ「何もしない」ことを仕向けようとしている。ⓑ説得しようとしている人がすでに不安定な状態である。これら二つの基準はここでも満たされている。ⓐトランプは予防接種を受けないように働きかけており、ⓑ彼のターゲットである若い親は「不安」の代名詞的存在だからだ。
トランプがどうやって思考に影響を与えたのかを理解して初めて、私は立ち止まり、状況を見直すことができた。この件に関して私は意見を変えない――長女に以前そうしたように、幼い息子にも予防接種を受けさせるつもりだ。けれども、いったいどれだけの若い両親が、彼の意見に動かされてしまうのだろう? もしもカーソンが、人々が真実を知ってから正しい判断をするのを待つのではなく、彼らの欲求や願望、意欲、そして感情にもっと適切に働きかけていたら、どうなっていただろう(カーソンのやり方がなぜ失敗しやすいのか、他にどんなやり方があったのかは、第1章で紹介する研究について読めば明らかになる)。数百万人の視聴者に語りかけていたカーソンは、状況を改善するまたとない好機を逸してしまった。だが、これは誰もが経験する状況でもある。日常的に何百万人と接することはなくても、自宅で、職場で、ネット上で、実生活で、毎日誰かと接触しているからだ。
実のところ私たちは、情報を伝えたり意見を述べたりするのが大好きだ。オンライン上ではこれが顕著に見てとれる。毎日休みなく、四〇〇万のブログ記事が投稿され、八〇〇〇万枚の写真がインスタグラムにアップされ、六億一六〇〇万件のツイートがサイバースペースに放たれているのだから。これは一秒に七一三〇ツイートという計算である。これらすべてのつぶやき、ブログ、アップされた写真の背後にいるのは、あなたや私のような人間なのだ。なぜこんなにおびただしい数の人たちが、貴重な時間を膨大に費やして、毎日情報を共有しようとするのだろう?
他人に情報を与える機会は、内的な報酬をもたらすようだ。ハーバード大学が行った研究では、人は自分の意見が他人に広まるならば、進んで金銭的利益を見送る傾向にあることがわかっている。ここで述べているのは、考え抜かれた見識についてではない。バラク・オバマはウィンタースポーツを好むのか、紅茶とコーヒーはどちらがおいしいか、といった平凡な話題についての意見である。脳をスキャンすると、自分のとっておきの知恵を他人に伝える機会を得たとき、脳内の報酬中枢が大いに活性化するのがわかる。意見を伝えるときの喜びを知っているからこそ、人は他者とコミュニケーションを取ろうとするのだ。これは私たちの脳がもつ見事な特性だ。というのも、この特性のおかげで知識、経験、アイデアがそれを初めて手に入れた人の中に埋もれにくくなり、私たちの社会もそこから様々な恩恵を受けられるのだから。
もちろん、そうなるには情報を流すだけでは十分ではない。反応を引き起こすことが必要だ――スティーブ・ジョブズはこれを「宇宙にへこみをつける」と適切に表現している。意見や知識を伝達するとき、そこには影響を与えたいという意志が伴う。目的とする変化は大小様々だ。社会的大義への関心を高めたいのかもしれないし、売り上げを伸ばすため、もしくは芸術や政治への人々の考え方を変えるためかもしれない。子供の食生活を改善するため、自分への心象を変えるため、世の中の仕組みをもっとよく理解してもらうため、チームの生産性を向上させるため、あるいは仕事を休んで南国へ家族旅行をしようと夫を説得するためかもしれない。
だがここで問題がある。私たちは自分の頭の中からこの作業に取りかかる。つまり、誰かに影響を与えたいとき、何よりもまず自分自身を念頭に置き、自分にとって説得力があるもの、自身の心理状態、欲望、目標などを考えるのだ。しかし当たり前のことだが、目の前にいる人の行動や信念に影響を与えたいのなら、まずその人の頭の中で何が起こっているのかを理解し、その人の脳の働きに寄り添う必要がある。
カーソンを例に挙げてみよう。経験豊かな医師で科学者でもある彼は、ワクチンが自閉症の原因ではないことをデータによって確信していた。それゆえに、同じデータを読めば他の誰もが納得すると思い込んだ。しかしながら人間は、情報に対して公平な対応をするようには作られていない。数字や統計は真実を明らかにするうえで必要な素晴らしい道具だが、人の信念を変えるには不十分だし、行動を促す力はほぼ皆無と言っていい。相手が一人でも大勢でも――部屋いっぱいの潜在的投資家でもただ一人の配偶者でも――同じことだ。気候変動について考えてみよう。地球温暖化に人類が関与していることを示すデータは山ほどあるのに、世界の五〇%の人々がそれを信じていない。政治についてはどうだろう。民主党の大統領が国を発展させたと示すどんな数字も、筋金入りの共和党支持者は受け入れないだろうし、その逆も同じだろう。健康については? 運動が身体に良いというのはたくさんの研究で立証され、信じる人もたくさんいるが、悲しいことにその知識だけで人々を歩かせたり走らせたりすることはできない。
実のところ、今日の私たちは押し寄せる大量の情報を身に受けることで、かえって自分の考えを変えないようになってきている。マウスをクリックするだけで、自分が信じたい情報を裏づけるデータが簡単に手に入るからだ。むしろ、私たちの信念を形作っているのは欲求だ。だとすれば、意欲や感情を利用しない限り、相手も自分も考えを変えることはないだろう。
* * *
本書ではまず、影響を与えようとする人々の本能について説明を行う。脅して何かをさせようとする、相手が間違っていると主張する、コントロールしようとするなど、相手の考えや行動を変えたいときに陥ってしまいがちな習慣は、人間の心理にそぐわない。私たちの思考プロセスにはいくつかの核となる要素があるが、相手の気持ちを変えられるのは、それらの要素と一致したときであるというのが、本書の主張である。各章では、事前の信念、感情、インセンティブ、主体性、好奇心、心の状態、他人といった七つの重要な要素に注目し、それぞれがどのように影響を及ぼし、また妨げるのかを、順を追って検証する。
こうした要素を理解することができれば、自分が影響を与える側でも受ける側でも、その行動をしっかり評価することができる。本書の大部分は影響を与えようとする側の視点から書かれているが、時に立場を交代させて、「誰かの意見を聞いているとき、あなたの脳では何が起こっているのか」など、影響を受ける側からの見方も紹介している。物事の一面を理解すれば、別の一面も理解しやすくなるものだ。
人の心理に影響を与える要素を完全に把握するためには、まだまだたくさんの研究が必要だ。とはいえ、私たちがすでに獲得した知識も、部分的ではあるがきわめて重要なものである。たとえば、脳の報酬系と運動系のつながりについて理解すれば、その時々でアメとムチのどちらが効果的かということが推測できる。またストレスが脳に与える影響を知れば、テロ攻撃直後に否定的なニュースを聞くと、人々が尋常ではない反応を示すことも納得できる。
本書とともに、私たちはいろいろな場所へ旅をする。ニューロンが絶えず情報伝達を行っているあなたの脳内から、人々の行動学的、生理的反応を記録している私の研究室を駆け抜け、外の世界にも飛び出していく。たとえばアメリカ東海岸の病院。医療スタッフに「手洗い」を浸透させたことのなかったその病院は、一日にしてほぼ九〇%まで順守率を高めることに成功した。コネチカット州の介護施設では、コントロールしているという感覚を増大させることによって、入居者の健康状態が改善された。ある一〇代の少女が住む地域では、数千人の人々が、少女が無意識に誘発したと思われる心因性の症状を訴えた。私の疑問はいつも「なぜ」で始まる。なぜこの方法だと反応が返ってくるのに、あの方法ではだめなのか? なぜジョンには返事をするのに、ジェイクを無視するのか? それぞれの反応が生じる理由を理解すれば、毎日の生活で直面する具体的な問題を解く手段が習得できるかもしれない。
最後までお読みいただきありがとうございました。私たちは出版社です。本屋さんで本を買っていただけるとたいへん励みになります。