テクノロジーで知覚の未来はどう変わるか?『バイオハッキング』試し読み
「世界の感じ方」を変える研究が進められています。
脳をハッキングして心の声を再現しようとする研究者や、AR装置で現実を拡張しようとする起業家、さらには自らの身体に装置を埋め込んで新たな感覚を得ようとするバイオハッカーなど、SFだと思われていたテクノロジーを研究し、実現しようとしている人々に迫った刺激的なサイエンスノンフィクション!
知覚科学の最前線をレポートする本書から「はじめに」をお届けします。
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指先に磁石を埋め込むと磁場を感じる
金曜日の夜。グラインドハウスの住人たちがレディオシャックに向かう。
ペンシルヴェニア州の郊外にあるショッピングセンターでは、彼らはいかにも怪しげに見える。まぶしい蛍光灯に照らされた姿は、地下室に棲息する生物を思わせる。この痩せこけて青白い顔にメガネをかけた地下のエンジニアたちは、バイオハッカー集団「グラインドハウス・ウェットウェア」の創設メンバーだ。しかしティム・キャノンとショーン・サーヴァーは、この界隈ではちょっとした有名人でもある。それは夜が更けたころにこの電子機器部品店へ買い出しに来るせいであり、また買った部品がごっそりとキャノンの腕に埋め込まれているからでもある。
彼らが建物に足を踏み入れたとたん、携帯電話ショップの男性が彼らの最新プロジェクトについて聞き出そうと、激しく手招きする。キャノンの前腕に埋め込まれた温度センサーのことだ。シリコン製のケースに入った板状の装置で、サイズはトランプ一組ほど。クリスマスツリーのように明かりがつく。このショッピングセンターではとうてい買えない代物だ。
「グラインダー」とは、人間の経験の拡張を目指して身体に手を加える「身体改造」装置を製作するバイオハッカーである。今夜はサーヴァーの手に埋め込む装置をつくるための部品を買いに来た。北を向くと明るく光る星型の装置を埋め込んで、手をいわば方位磁石にすることをもくろんでいる。うまくいけば、方位を測る能力が完全に体に取り込まれるとは言えないにせよ、本来よりはいくらか向上するはずだ。
「ほかに買うものはあったっけ?」と、電流を変調させるさまざまな電子部品の入った引き出しをあさりながらキャノンが言う。「抵抗器は何十個もあるよね」
「うん、どっさりね」と、サーヴァーが応じる。二人は実験室のストックに加える部品を探しながら、通路を何本も隔てて相手に話しかける。ジャンパーワイヤは? たくさん要るね。回路基板は? 買おう。圧電変換器は?「もちろん」とサーヴァーが答える。
買った品物を袋に詰めると、今度はレストランに寄り、オタク御用達のエネルギー源とも言うべきマウンテンデューを大量に補給してから地下室へ戻る。その部屋で、フランケンシュタインのように身体を改造して、自分たちの体に新たな知覚体験を与えることが可能か確かめるのだ。
グラインドハウスのメンバーは、婉曲に言えば、標準仕様の人体に備わる知覚装置に不満を抱いている。人間には味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚という五つの感覚が備わっているが、彼らはこれだけでは足りないと思い、この問題を解消すべきと考えている。そのうえ、この五つにもそれぞれ限界がある。人間が動物界のほかの住民たち、たとえばコウモリや鳥や昆虫と同じように太陽光の偏光(光の進行方向を表すパターン)を感知できないのはなぜだろう。サメのように電気を感じることができないのはなぜなのか。下等なシャコでさえ紫外線の波長を検知できるというのに、人間にそれができないのはどうしてなのか。
グラインダーというのは、バイオハッカーと呼ばれるアマチュア科学者からなる探索コミュニティーで電気工学を得意とする一派である。コンピューターのハッカーは悪質さや破壊行為ゆえに評判が悪いが、バイオハッカーは役立つ仕掛けや修復を加えるというポジティブな意味で体を「ハッキング」する。本書では、そんな彼らをフォローしていく。バイオハッカーは、コンピューターのシリコンの世界よりも有機体の世界に関心をもつ。インターネットで遺伝子操作に関する情報が容易に入手できるようになり、実験技術のコストも下がってきたおかげで、植物や細菌のDNAに手を出すバイオハッカーも現れてきた。これは「DIYバイオ」(自分でやる遺伝子操作)と呼ばれている。また、特殊な食事や栄養サプリメントを摂取したり、睡眠や運動や体力レベルや脳の健康状態を監視して最適化するのを助けるウェアラブルな生体データ測定装置を使ったりして、身体のアップグレードを目指すバイオハッカーもいる。ではグラインダーは何をするのかと言えば、彼らは自分自身をハッキングする。タトゥーやボディーピアスで飾りたてるよりもはるかに先を行く、身体改造コミュニティーの一員なのだ。なかでもとりわけ野心的な人たちは、新しい知覚装置を自分の体に装備しようと試みている。
しかしどんな方法を用いるにせよ、バイオハッカーを突き動かすのは、創造したい、強化したい、「ふつう」を脱したい、という衝動だ。自然は驚異的な力をもっている。バイオハッカーたちもそれを認めるのにやぶさかでない。しかし、これ以上はもう望めないというほどだろうか。キャノンは三杯目のマウンテンデューを飲みながらこう言う。「どうして体をいじっちゃいけないんだ?」
グラインダーたちの探求は、文句なしに好ましいとは言えないにしても、たぎり続ける不満を原動力としている。未改造の人体の脆弱さや限界に対する不満、進化の歩みの遅さに対する不満、そしてバイオハッカーたちが進展を望むSF的な知覚装置の開発や販売に対して大手研究企業が消極的であることへの不満だ。グラインダーたちの発想は―そして彼らの名も―ウォーレン・エリスのグラフィックノベル『ドクター・スリープレス』に由来する。この作品は二〇〇七年に誕生し、人体改造者たちが劣悪な暮らしを営む地下世界を描いている。シュリーキーガールと呼ばれる住人たちは、人工の歯や爪に埋め込まれた装置のネットワークを通じて、触覚を互いに共有する。コンタクトレンズを使ってインスタントメッセージをやりとりする者や、手のひらに埋め込んだ装置で相手の鼓動を手に感じるカップルもいる。ドクター・スリープレスは(言うまでもなく)マッドサイエンティストで、深夜のラジオ番組を通じてグラインダーたちに、ほかの誰も発明しないような未来を発明せよと訴える。「ホームセンターで材料を買ってきて、そのつまらない体を自分で改造することだってできる」と彼は力説する。「君たちはグラインダーだ。享受するに値すると思える本物の未来が到来するのを待つあいだ、君たちは仮想世界のアバターのように自分の体を加工するのだ。体にいろいろなものを加えて改良せよ。改善すべきキャラクターのように体を扱って、磨き(グラインド)をかけるのだ」。グラインドハウスでは「ジェットパックはどこにある?」を合言葉としているが、それもこの作品から借りたものだ。これは今のところ過去と大差ないと思われる未来に対するフラストレーションから生まれた切なる叫びである。
そんなわけで彼らは知覚について、今よりももっとよい未来を早く実現させようとがんばっている。グラインドハウスのメンバーたちは、電磁場が感知できるようにと指先に磁石を埋め込んでいる。そしてこの磁石と連携して近くの物体までの距離を測るソナーのような装置を開発した。キャノンの腕は一部が盛り上がっているが、ここには体内の健康データの読み取りを目指す初期の試みである装置が埋め込まれている。うまくいけば、この装置で体温がチェックできる。グラインドハウスの目標リストで次に挙がっているのは、「手の中のコンパス」である。ハトの帰巣本能をうらやましいと思ったことのある人なら、この能力を獲得したいと思うのではないだろうか。
彼らの基本的なやり方としては、体を切開して装置を埋め込み、それが神経系に働きかけることができるか調べる。これができていれば、進化という鈍重なプロセスを待たずに感覚の世界を拡張できたことになる。
グラインドハウスのメンバーたちは、独自に開発したやり方で、考えられる限り最も安価な道具を使って進化を追い越そうとしている。その一方で、人間の経験のなかでとりわけ深遠な謎である「知覚」を探索するという、はるかに大がかりな取り組みの一端も担っている。この探索に携わる者たちの出自はサイエンスのさまざまな分野にまたがっており、ほぼ全員がグラインドハウスよりもはるかに多くの資格と安全対策を求められる立場にある。学者、起業家、医師、エンジニアなど、職業もいろいろだ。しかし誰もが同じ問いにとりつかれている。私たちが外界と接するときに心の中で起きることについて、私たちはどれほど知っているのか? 知覚できる対象を今より増やすことは可能なのか? 脳の知覚力に厳然たる限界があるとしても、その限界の中で私たちが世界を感知する方法を強化したり変化させたりすることはできるのか?
知覚科学の世界は広く深い。何千何万という人たちが、互いに対立する理論や動機に導かれているにしても、同じような問いを追求している。「標準」とされる機能をなくした人にその機能を回復させようとする人がいる―視力を失った人に視覚を取り戻させるとか、聴力を失った人に音を再び聞かせるとか、麻痺をきたした人に触覚をよみがえらせるなど。また、「標準」という概念を超えてもっと先へ進もうと、新たな療法やウェアラブル装置によって感覚を変化または増強させる方法を模索する人もいる。さらに、受容器、神経、脳からなる感覚系が協調して働いて、世界を「リアル」に感じさせる仕組みについて、もっとよく知りたいと願う人もいる。
私は二〇年ほど前にジャーナリストとして仕事を始めて以来、キャリアのほとんどを科学ジャーナリストとして過ごしてきた。それでも本書の執筆に着手したときには、知覚科学は私にとってほぼ未知の領域だった。本書に登場する一〇〇人以上の人のうち、記事でその仕事を取り上げたことがあったのは六人だけだった。それでも、知覚科学が向き合う一見ストレートな問いの大きさに、私は心を奪われた。「現実」を今より拡張することはできるのか―。
唯一の普遍的な「現実」など存在しない
カリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院で教える仕事を一年間休むことにして、「現場に行け」というジャーナリストの鉄則に従った。フェイスブックに予定表を載せて、四つの国と八つの州へ取材旅行に出向いた。身なりなど気にせずに駆け回るジャーナリストを自宅に泊めてくれるという、寛大な友人や親戚や同業者たちの好意に甘えさせてもらった。知覚科学の実験やデモンストレーションに立ち会わせてくれると言われれば、実験室や研究室や手術室に足を運んだ。テープレコーダーを四台使いつぶし、ノート三七冊、レンタカー三台、それに数えきれないほどの電池を使った。ソファの肘掛けは、取材メモをパソコンに打ち込むときにスニーカーを履いた足を載せていたせいで擦り減ってしまった。神経科学者、エンジニア、心理学者、遺伝学者、外科医、ボディーピアス師、超人主義者(トランスヒューマニスト)、未来主義者(フューチャリスト)、倫理学者、デザイナー、起業家、兵士、シェフ、バーの客、調香師に会った。証明すべき壮大な理論や、到達すべき明確な目標があったわけではない。この世界に暮らす人たちの話を聞き、その人たちを観察することだけを考えていた。しかしやがて、知覚科学という領域のロジックと姿がわかり始めた。具体的なテーマが次々に湧き上がり、いくつもの取材で同じテーマが何度も現れ、かつては互いに無関係と思われたアイディアがかみ合いだした。これが起きるのはたいてい、どこかの実験室で何かをかじったり、においをかいだり、妙なヘルメットのようなものをかぶって暗闇をうろついたりしているときだった。
私が学んだなかで飛び抜けて重要なことは、唯一の普遍的な「現実」の経験など存在しないし、私たちが集団として共有する世界を描く客観的なポートレートも存在しないということだ。あるのは「知覚」だけ、つまり自分にとってリアルだと感じられるものだけだ。心的印象、感覚、経験を指す「知覚表象(パーセプト)」という専門用語があるが、知覚表象は現実とイコールではない。鏡に映った像が現実でないのと同じことだ。知覚表象は対象そのものではなく、対象の映った像である。そして誰もが知るとおり、この像はゆがんでいる場合もある。
というのは、脳は頭蓋内に収められて電気化学的に作用するゼリー状の物体であり、外界と直接やりとりする手段をほとんどもたない孤独な装置なのだ。脳と外界をつなぐのが感覚であり、感覚が伝える情報は常に伝聞となる。神経系の感覚的側面は、入力チャンネルととらえることができる。この経路にあるニューロンは「求心性」ニューロンと呼ばれ、脳に情報を伝える働きをする。神経系には「遠心性」ニューロンという出力チャンネルもあり、こちらは脊髄と脳で構成される中枢神経系から命令を運んでいく。この出力チャンネルは神経系の運動的側面として、反応や運動を制御する。
舌、鼻、眼、耳、皮膚といった感覚器の神経は、末梢神経系に属する。この系では、身体の表面かその近くに位置する受容器(感覚神経終末)が、化学物質や環境エネルギー(光や音波や音圧など)を感知する。すると翻訳プロセスが始動して、情報が脳に理解できる電気信号に変換され、神経によって伝達される。それからこの信号が脊髄と脳で収集され統合される。わかりやすく言うと、これらのとらえどころのないインパルスを人間に理解できる味やにおいや画像や音やテクスチャー(質感)に変える場が脳なのだ。頭蓋という暗い映画館で生(せい)の物語が上映されるとも言える。
この物語が必ずしも「真実」だというわけではない。脳は電気インパルスを読み取るだけで、その出どころにはまったく無関心なので、本当は実在しないものでも文句なくリアルに感じられる知覚経験が生じることもある。視覚を処理する後頭葉を電気的に刺激すると、光がフラッシュする幻影を生み出すことができる。腕や脚を切断された人は、失ったはずの部位のうずきを感じることがある。夢の中で豪華なケーキを味わっていて、目が覚めたら口の中は空っぽなのに咀嚼の動作をしていたということもある。
話はこれで終わりではない。各感覚は、想像を絶するほど大量でとうてい使いこなせないほどの情報を受け取る。情報の洪水におぼれるのを防いで筋の通った解釈を保つには、要約と編集が欠かせない。まもなく本書で触れるが、注意の割り振りや経験の分類について、脳の神経回路は本人の意識のおよばないところで任務遂行にかかわる決定を絶えず下している。そうせざるをえないのだ。たとえばこのページで文字の印刷された黒い部分と印刷されていない白地の境目を認識する作業には多数のニューロンが携わっているが、その一つひとつに許可を出していたら、本書を読み終えることなどとてもできない。聴覚と視覚を比べると、じつは聴覚のほうが速く働くのだが、それでも音と画像が常に同期するように、脳があとから情報を編集している。脳がこれをしなかったら、時間の流れがどうしようもなく支離滅裂なものに感じられるはずだ。雑多な音を整理して言葉に変えたり、光と影から物の形をとらえたり、味とにおいを認識可能なカテゴリーに分類したりする方法を脳が知らなかったなら、あらゆるものがわけのわからぬ混沌となるだろう。
外から入ってくる世界に対し、人は各自の装置で少しずつ他者と違ったフィルターをかけ、ときにはほかの人が見過ごすような点に気づくこともある。この事実こそ、唯一の現実というものが存在しない理由である。このような差異には、厳然たる遺伝によるものもある。知覚世界の限界が遺伝子によって定められていることに疑問の余地はない。フィラデルフィアにあるモネル化学感覚研究所にマイケル・トードフという研究者がいる。甘味、塩味、酸味、苦味、うま味という既知の五つの味を超えた第六の味探しを先導する人物として、第1章で本格的に登場してもらう。彼と昼食をともにしたとき、猫には甘味がわからないと聞かされて、私はびっくりした。「砂糖と水をそれぞれ別の器に入れて猫に与えたら、どちらも水のように扱われますよ」。人間や他の哺乳動物と同じく猫にも甘味の受容体をつくる遺伝子はあるが、その遺伝子が変異していて、機能する受容体がつくれないのだそうだ。進化の観点から考えればそれも当然だ、とトードフは言う。肉食動物が甘味を感知する必要などないのだ。アシカの味覚の世界はこれよりさらに狭いらしい。「ふつうアシカは食べ物をかまないで、そのまま飲み込んでしまいます。だから、味覚など要らないのです」
同じ種の中でもかなりの差異が見られる、とトードフは続けた。たとえば色覚異常については、白人男性のおよそ八%に赤と緑の視覚異常があり、さまざまな色調の認識や区別に困難をきたしている。別の例として、フェニルチオカルバミド(PTC)という化学物質の味を感知する能力に影響する苦味受容体の制御遺伝子について考えてみよう。およそ七割の人が、PTCに対してある程度の感受性をもたらす遺伝子のバリアントを少なくとも一つはもっている。しかし、残りの人はPTCの味がまったく感知できない。研究によれば、タバコや茶、それにキャベツやブロッコリのような渋味のある野菜(これらはみな類似した化合物を含んでいる)に対する反応の違いは、この遺伝的差異のせいかもしれないという。よって、ブロッコリというのはおいしい緑色の野菜だと思う人がいる一方で、苦くて非緑色の野菜だと思う人もいるかもしれない。トードフに言わせれば、「動物はそれぞれ独自の知覚世界を生きていて、私たち人間もやはり独自の知覚世界を生きているのです」
しかし、現実世界の絶えざるデータの嵐から情報を選り分けて、どれに注意を向けてどれを無視すべきか判断する脳の能力は、自然の産物であるだけでなく文化の産物でもある。注意の向け方を変化させることは可能で、それは現代のテクノロジーによってようやく実現できたというわけではない。人間は昔からその手のことをしてきた。この点については、本書で社会や文化の力による「ソフトなバイオハッキング」とテクノロジーによる「ハードなバイオハッキング」とのあいだを行き来するなかで明らかにしていく。「ソフトなバイオハッキング」という言い方で私が意味するのは、人が他者や環境に関する知覚情報のなかで重要なものに注意を向けることを無意識に学習する方法である。私たちはこの種のソフトなバイオハッキングの力を受動的に経験し、生涯にわたって吸収していく。たとえば言語、文化、人間を形成する日常的な経験などがここに含まれる。口に入れる食べ物、身のまわりの物事を表す名前、周囲の人がどのようにふるまって人の行動を強化するか、といった例が挙げられる。私たちはこれらから何が特別であるかを知り、自分の知覚経験をどう分類し命名し想起するかを学ぶ。過去の経験から、将来の知覚世界がどんなものになるか予測する。そうするなかで、過去の経験は私たちが注意を向ける際の指針となり、私たちは特定の刺激についてはよく考えるがそれ以外は無視するようになる。
各章の概要
第1章では、第六の味の探求で先頭を走る人たちについていくのだが、そこでソフトなバイオハッキングが作用している現場を目撃することになる。味覚研究者にとってとりわけ厄介な難題の一つが、ほかの五つとは異なる第六の味の知覚表象を表現しようとする際にぶつかる言葉の問題である。探し求めているものを表す言葉が存在せず、それゆえ心の中にその概念もない場合、どうやって新しい味を発見するのか。もっと端的に言えば、知覚表象を理解するのに言葉は必要なのだろうか。それとも逆に、言葉を生み出すには、心の中の概念のほうが先に必要なのだろうか。
言葉には、すでに確立された概念に注意を向けさせる働きがある。言葉が存在しなければ、新たな概念の認識が妨げられたり、少なくとも第六の味を独立したものとして切り出そうとする試みがいっそうややこしくなったりする。脂肪の味を感知できる人を探す世界最大の公開プロジェクトを率いる遺伝学者のニコル・ガルノーによれば、脂肪の味の命名に関しては、それを「脂肪の味」と呼ぶのは避けるべきとしか言えないそうだ。「そう呼んだら、どうしてもベーコンがイメージされてしまうでしょう?」と言って肩をすくめる。それから彼女の率いるアマチュア科学者のチームが私にさまざまなテストをやらせて、私が脂肪の味を感知できるか調べた(じつを言うと、純粋な脂肪の味はベーコンとはまったく違う)。
次に、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』によってにおいと記憶の結びつきを不滅なものとして確立した国、フランスへと本書の舞台は移る。ただし私たちが学ぶのは、においと忘却の結びつきだ。さまざまなにおいを識別する能力の喪失は、アルツハイマー病などの記憶障害で初期に現れる臨床症状である。「アトリエ・オルファクティフ」(においのワークショップ)を訪ねて、認知障害をきたした人の記憶想起や親しい人とのコミュニケーションを助ける手段としてにおいを利用している化粧品業界のボランティア団体とともに過ごす。ここでは文化によるソフトなバイオハッキングの作用を観察することができる。人がにおいに対して抱く思いというのは、育った場所によって異なる。なじみ深い食べ物、見慣れた日用品、身近な植物など、生活経験にかかわるすべてが、言葉とにおいの結びつきを方向づけるからだ。私がワークショップの主任調香師を務めるアリエノール・マスネから次々にサンプルを渡されたとき、フランスで育った彼女の抱く連想とは違い、自分の育ったカリフォルニアの文化に結びついた連想に何度もとらわれたのはそのせいだ。私にとって、ライラックは石鹸の香りであって花の香りではない。ラベンダーの香りをつけた紙片を渡されれば暖かい丘の斜面に心が飛び、そこからまたしても花の名ではなく、今度は「松の木」が心に浮かぶ(「ラベンターはとてもフランス的なにおいですからね」と彼女は寛大にも言ってくれる)。それでも、彼女と私で共通するにおいの記憶もある。二人とも海のにおいはすぐにわかる。アルツハイマー病患者のコミュニケーションを助けるためににおいを利用する場合には、何のにおいか正しく識別することは重要でなく、においが呼び起こす記憶だけが大事である。
モントリオールとパロアルトとワシントンDCでは、ソフトなバイオハッキングが情動の領域でとりわけ効果を発揮するのを見る。私たちは自分の属する文化から、感情と関係する心身の状態を解釈する方法を学び、さらに他者の情動を読み取る方法を学ぶ。これはもっともなことだ、と臨床心理学者のアンドリュー・ライダーは言う。このとき私たちは、モントリオールにある彼の実験室で学生が実験するのを見守っていた。情動と社会関係に関する情報が無限に存在する世界では、文化的に最も重要な信号に、すなわち自分と周囲の人にとって最も意味のある信号に注意を向けるべきなのだ。「複雑であいまいな世界では、新たな情報がとめどなく吐き出されます。だからエネルギーを注ぐのは自分にとって大事そうな情報だけにしたほうがよいのです」とライダーは語った。
ロサンゼルスとサンフランシスコ・ベイエリアでは、fMRIスキャナーの内部(専門家によって)とカクテルバーや居酒屋(私によって)でおこなわれた痛みの研究を通じて、私たちが内的状態を知覚する方法について驚くべき洞察を得る。私たちは往々にして体と心の痛みを別個のものととらえ、身体の傷と精神の傷という二項対立として考えがちだ。しかし恋愛や拒絶と関係する痛みについて研究している社会心理学者のナオミ・アイゼンバーガーは、それらがじつはどちらも脅威を処理する同じ脳領域で扱われる傷だと考えている。彼女の研究は言語を出発点としている。私たちが社会的な痛みと身体的な痛みをまったく別種の経験だと思っているにもかかわらず、それらを表すのに同じ言葉―「うずく」や「折れた」など、カントリーミュージックでおなじみの言葉―を使うという点に着目するのだ。
「情動的な痛みをめぐっては偏見が存在すると感じることがあります」と、あるときカリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究室でアイゼンバーガーが言った。「身体的な痛みは完璧に理解可能です。たとえば脚を骨折したら、痛むのは当然ですね。ところが社会的な痛みについては、『乗り越えろ』とか『何ともない。気のせいだ』などと言われがちです。ですから、どちらの痛みにも同じ神経領域が応答すると聞けば、やはりそうかと腑に落ちる人もいるのではないでしょうか。つまり、身体的な痛みも社会的な痛みも、どちらについても真剣に受け止めるべきと言えるでしょう」。この考え方から、失恋の痛みを鎮痛薬のタイレノールで癒せるかとか、愛する人の手を握れば体の痛みがやわらぐかといった、思いがけない新たな問いが出てくる。私たちは長らく体の傷の痛みを緩和するのに氷嚢やアスピリンを使ってきた。しかしこれからは、暮らしの中できわめて不快だが誰にでも訪れる知覚経験である社会的な傷の痛みを治療する新しい方法が見つかるかもしれない。
テクノロジーによる「ハードなバイオハッキング」と私が呼んでいるものを扱う研究者も本書に登場する。ここでは人が知覚を変化させる目的で意図的に装着したり携帯したり、あるいは体に埋め込んだりする装置に注目する。この種の装置は、知覚経験を形づくるうえで社会的な力と比べてはるかに能動的である。頭の中で起きることをテクノロジーで操作するという話が未来的な提案のように感じられるなら、人類の生み出した初期の知覚形成装置を思い出してほしい。時計である。時間をテーマとする第6章で、時間の知覚は神経と社会と機械の力が混ざり合ったものであり、どうやら体の内と外の両方から生じているらしいということがわかる。ロンドンの博物館とコロラド州にある政府系研究所で、きわめて特殊な時計を管理する人たちに会う。その時計の一つは時間に関する私たちの知覚を標準化するために設計されたもので、もう一つはその知覚を変えるためにつくられている。
時計がかなり大きな屋外の建造物(日時計や時計塔を思い出してもらえばよい)から卓上や手首やポケットへと居場所を変えていったのと同様に、ほかの知覚認知にかかわる装置も人間に合ったサイズへと小型化し、ウェアラブル装置となったり、さらに進歩して体内への埋め込み装置となったりしている。テクノロジーは「まさに『ドクター・フー』に登場する鈍重な悪者のように、僕らに迫ってきている」と、あるときロブ・スペンスがトロントの自宅で語った。「僕らの体の中へと侵入しつつあるというわけだ」。スペンス―アイボーグという名前のほうがよく知られている―は、身をもってそれを知っている。右の眼窩にカメラを装着しているのだ。これについては第10章で、ウェアラブルコンピューターを使って人間と機械を融合することによって人間の知覚を増強しようとする拡張現実の探求者たちを訪ねる際に詳しく取り上げる。
知覚形成装置は人の生活に深く根づき始めている。その理由の一つはその種の装置が持続的に装着できるようになったからであり、また体との結びつきが強固になってきたからでもある。現在、このジャンルで市販されている装置の多くはウェアラブルで、手首のまわりや眼の前にちょっと装着するようにできている。しかし今のところ医学的必要性のある人に限られている新しい技術のなかには、体の中に埋め込むものもある。このタイプの次世代は、脳への埋め込みへ向かっている。また、知覚の最前線を探求する科学者たちも脳を目指している。本書の第1部のうち視覚、聴覚、触覚を扱う第3章、第4章、第5章では、現代の脳科学における非常に特別なストーリーをたどり、脳の電気的言語を解析しようと今まさに進められている研究を追う。これは、神経科学者が印刷というアナログな世界になぞらえて「書き込み」と「読み出し」と呼ぶ、対をなすプロセスの研究である。書き込みとは脳に情報を送り込むことであり、読み出しとは脳からの指示を解釈することだ。
私たちの感覚は、世界からデータを受け取って、それを脳に理解できる電気信号に変換するという書き込みを常におこなっている。光子が網膜の光受容体に当たると電気信号のリレーが始まり、脳はこの信号を画像として解釈する。化学物質が舌の受容体に結合すると、脳はその結合によって生じる電気的なメッセージを砂糖の味などとして認識する。第一世代の書き込み装置の多くは、医学的な問題を抱える人に感覚機能を回復させるためにつくられた。そこで本書では、機械で機能を強化したバイオニックアイをもつディーン・ロイドに登場してもらう。網膜色素変性症で失明して何年も経ってから、ロイドは人工網膜を移植された第一世代の一人となった。この装置が電気インパルスを網膜に書き込むと、脳はそれを視覚に対する信号として解釈することができる。「これは人間の標準的な視覚とは違う」と、ロイドは臨床試験に参加した仲間を引き合いに出して説明する。それでも視覚は視覚であり、本書では世界がロイドにはどう映るのか見せてもらう。
読み出しは書き込みのあとにおこなわれるプロセスだ。つまり、脳の信号から知覚経験へと逆方向に翻訳することになる。たとえば、誰かに写真を見せられたり、録音された音声を聞かされたりした場合に、脳の活動パターンを逆向きにたどって、もとの刺激を再現することはできるのだろうか。読み出しは書き込みよりもさらに手ごわい。それに挑む研究者たちの実験室へ足を運ぶ前に、指摘しておきたいことが一つある。現在の段階まで研究が進展してきたのは、脳の言語を翻訳する能力の大幅な向上に加えて、関係するさまざまな分野の取り組みがあったからにほかならないのだ。知覚科学が誕生してまもないころには、研究は身体の末梢に限られていた。つまり体表面、感覚器官、およびそこに所属する神経終末だけを相手にしていた。たとえば味蕾や網膜細胞や皮膚を刺激して、生体の応答を調べた。これは主に心理学者と生理学者の領分であり、彼らは刺激と行動を関連づけて、神経系の連鎖においてあとのほうで起きていることを理解しようとした。「まあ、体の外側を調べるのは簡単ですね」と、昼食の席で心理学者のトードフは柔らかな口調で言った。しかし内側を調べるのははるかに難しい、と彼は続けた。「舌を調べるのは簡単です。その舌で起きていることすら解明できないなら、互いにつながった何十億個ものニューロンの中で起きていることなどわかりっこありません」
しかし世間で言われているのとは違って、脳は不可知な「ブラックボックス」ではない。ただとにかく複雑で、体と免疫系にしっかりと守られているのだ。生きている人の脳で実験するのは物理的にも倫理的にも難しいため、かなり最近まで脳に関する知見の多くは人間以外の動物の研究で得られたものだった。それでもこの二〇年ほどのあいだに、いくつかの重要な新技術が生化学や神経科学や遺伝学の知見の蓄積をもたらし、知覚研究に影響を与えた。ヒトゲノム計画はそれまで閉ざされていた遺伝子と受容体の世界を開き、DNAと感覚機能の関係を明らかにした。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)をはじめとする神経イメージングにより、研究者は脳の電気的活動を細密に画像化し、刺激と応答の関係をさらに正確に突き止められるようになった。新世代の多電極脳埋め込み装置のおかげで、生きている脳の働きについても驚くほど正確に記録することが今や可能である。
この件について詳しく知るために、カリフォルニア大学バークレー校を訪れて、fMRIを用いた刺激の再構成実験を見せてもらう。脳の活動を読み出して、もとの知覚経験を再現するという実験だ。ここでは、fMRIスキャナーに入った被験者にポッドキャストの音声を聞かせ、研究チームは被験者の脳を盗み聞きしてその音声を解読しようとしている。よその研究室の研究者たちと並んで、彼らは頭の中で聞こえる内的発話と呼ばれる声を読み出すのに使える精度をもつヒト聴覚モデルの構築を目指している。意識の上で言語化された言葉が翻訳できるようになれば―これよりはるかに抽象的な思考についてはまだ無理だが―脳卒中や神経変性疾患で声による意思疎通ができなくなった患者の助けとなるかもしれない。
書き込みと読み出しを扱う三章の最後の舞台は、外科医のシェリー・レンがロボットアームを使って仕事をしている手術室だ。このロボットアームが第一歩となり、いずれは人の手に劣らず器用に動作できるだけでなく、繊細な触覚も経験できる義手へとつながるかもしれない。レンの遠隔手術を助けようとしている研究者たちは、この研究を応用して、麻痺患者が装着して自分の意思で制御できる人工器官を実現したいと考えている。外界から入ってくる感覚のフィードバック(物体の重さや衝突の強さ、体の温度など)を伝えるとともに、脳から出される命令に従うことのできる義肢の開発とは、脳の書き込みと読み出しを極限まで一体化させることだ。たとえるならば、リアルタイムでのリアルな触覚という幻想を壊さないように、生体と機械の完璧なシンクロが求められるバレエのようなものだ。そんな継ぎ目を感じさせないなめらかさが最終的な目標だ、とスタンフォード大学の神経機能代替分野の専門家、クリシュナ・シェノイは言う。本書では彼の研究室も訪れる。研究者たちは、こうしたシナプスの言語を流暢に操って「脳と会話できる」ようになることを目指している。
書き込みと読み出しにかかわる技術のほとんどはきわめて実験的で侵襲性が高いので、研究に重点を置く大学や病院がほとんどを担っている。しかし、手術を受けなくても知覚をハッキングすることはできる。本書の終盤では、研究のため、そして楽しみのために、装置を自作したり市販の装置を使ったりして感覚を変容させる人たちが登場する。
この第3部では、体からの距離が最も遠い装置からスタートし、距離が近いものへと進んでいく。まずは仮想現実(VR)を取り上げる。これは完全に体の外にある技術で、ヘルメットやゴーグルだけでなく、サラウンドの音響や振動する床を備えてにおいまで送り込まれる専用のハイテクな部屋も使い、だまされた脳が行動を変化させるくらいリアルに感じられるシナリオをつくり出す。私たちは軍の基地を訪れてゴーグルを装着する。ここでは研究者たちが、兵士を戦場に配置する前に恐ろしい戦闘のシナリオを「事前体験」させると心的外傷後ストレス障害(PTSD)への耐性を高める助けとなるか調べる実験をしている。それからスタンフォード大学の実験室でヘルメットをかぶる。この実験室では、仮想現実を使って被験者を奇妙な体の中に送り込み、妙な課題をやらせている。宙を飛ばせたり、風船を割らせたり、体をごしごし洗わせたりしているのだ。これらの課題によって、社会や環境にかかわる習慣の改善が促進されるか調べることが目的だ(ただしやりすぎは禁物。というのは、仮想現実実験の背後にある知覚マジックの一部は、被験者にはトリックが繰り出されるところが見えないという点にあるからだ。ただ、仮想農場を訪れて以来、私はハンバーガーをいっさい食べなくなったと言っておこう)。
次に、拡張現実(AR)のウェアラブル装置の世界に進む。メガネや腕時計などの小型装置を体に(ただし内部ではなく表面に)つけて、知覚認知を増強するのだ。拡張現実の世界は、「人間が暗視能力やオートズームつきの眼をもたないのはなぜか?」「自然界に存在しえない風味を人間が感知することは可能か?」「姿の見えない相手にハグを送るにはどうしたらよいか?」といった突拍子もない疑問を抱くデザイナーであふれている。ここで私たちはアイボーグに出会い、ほかにも新世代の拡張現実装置を一般市場に送り出そうともくろむ多数の起業家たちに会う。体との距離が限りなくゼロに近い場所に装着する―コンタクトレンズを眼球に張り付けるのだ―拡張現実システムの「iオプティック」を生み出したエンジニアや、パーベイシブ(ユビキタス)コンピューティングを専門とする大学教授のエイドリアン・デイヴィッド・チェオクに会いに行く。チェオクの研究室では、指輪、スマートフォンアプリ、さらには人工の唇を使って、触覚、味覚、嗅覚の経験を遠隔地に伝える方法を研究している。チェオクにとって拡張現実が仮想現実と決定的に違う点は、ヘルメットに搭載されたコンピューター画面を眺めたり専用の部屋に閉じ込められたりする必要がなく、軽量の装置を身につけるだけなのでふつうに体を動かしたりほかの人と交わったりすることができ、「複合現実」の経験がもっと自然で心をとらえるものになるということだ。「仮想現実システムの中に人間を入れるのではなく、それとは逆のことをします。私たちが仮想の世界を体にまとうのです」とチェオクは説明する。
本書が幕を閉じる舞台は地下の一室だ。
それしかありえない。
地下室―そしてシリコンヴァレーではガレージ―というのは技術革新の生まれる場であり、人類が荒唐無稽な夢を形にし、何かを発見して手を加え、試作品をつくり上げる場だ。人間が進化を早送りできればと願い、自然が何万年もかけてランダムな突然変異によって新たな知覚経路を与えてくれるのを待たずにその時間を飛び越えたいと思う場でもある。そんなわけで、グラインドハウスのメンバーたちに再び登場してもらい、それ以外にも自分の体を改造して知覚を拡張しようとする人たちに話を聞く。彼らが目指すのは、人間が本来なら知覚できない環境情報を感知することだ。彼らの実験はたいてい磁石を体内に埋め込むことから始まるので、ここでいう環境情報とは主に電磁気となる。一方、ジャーナリストとして私が目指すのは、彼らが実験したときに起きることについて神経科学的な説明が可能かどうかを明らかにすることだ。
知覚のハッキングがもつ意味について、最後にもう少し言わせてほしい。社会的な力によるソフトなバイオハッキングが威力をもつのは、それが広く行き渡り、ひそかに作用し、コントロールするのが難しいからだ。私たちはふだん、そんなことが起きているのに気づきさえせず、言葉や社会的キュー〔顔の表情や身振りなど、他者との関係において行動の指針とすべき合図〕の異なる場所へ旅行したときなどに文化の違いを目の当たりにして、ようやくその影響をちらりと感じるくらいだ。しかしどんなものに注意を向けるかという習慣は学習によって獲得されるものなので、学習によって変えることもできる。第六の味の探索につきまとう言葉の問題を思い出そう。その味がどんなものかを表す言葉や概念はまだ存在しない。しかし、二〇〇〇年代以前に小学生だった人は、味が五つではなく四つとされていた時代を覚えているのではないだろうか。第1章で、科学者が第五の味をどうやって発見し、私たちがその味を知覚する方法をどうやって学習したか紹介する。この話は、脳の適応能力について多くのことを語ってくれるはずだ。
テクノロジーを使った脳のハッキングには、社会的なハッキングよりもさらに大きな威力があるだろう。脳のハッキング自体はまったく新しいアイディアというわけではなく、たとえば向精神薬がある種の脳のハッキングを利用するとか、物語が人を空想の世界へ誘う力をもつといった例を容易に思い浮かべることができる。しかし今までの脳のハッキングには持続性がなく、「現実世界」からの一時的な逃避であり、現実世界の代替を目指すものではなかった。スマートウォッチやスマートグラスのような、常時装着可能な装置を使って感覚系に直接働きかけることで知覚を変化させる試みが始まるなかで、私たちはもっと持続的に知覚を意のままにコントロールでき、平凡な自己を非凡な形で拡張することさえできるかもしれない時代に差しかかっている。
グラインドハウスのメンバーなど一部の人にとって、体にもとから備わる仕組みに加えて自ら選んだ知覚装置や発明品を体に装備するという展望は、人を束縛から解き放ち、進化を加速する方法になると考えられる。一方、のちほど登場する「ストップ・ザ・サイボーグズ」のメンバーのように、危惧を覚える人たちもいる。他者がつくってコントロールする装置と本来の知覚器官が絡み合うことによって、今までになく逃れがたい「現実」の幻想がつくり出され、その影響を把握するのが難しくなるからだ。彼らの言うとおり、テクノロジーは決してニュートラルではない。他者のデザインを通じて経験にフィルターをかける一つの方法なのだ。感覚と世界とのあいだに人工の紗幕を垂らすことで、これらのテクノロジーは人に強大な力を与えるかもしれないが、人の注意や経験に制約や影響を与えたり、行動を大きく変えたりすることもあるかもしれない。これらの装置は絶え間なく微妙な影響をもたらすので、当事者はそれに気づかないかもしれない。
しかしこれらの批評家たちとのちほど論じるとおり、行動に影響を与えるというのは人間的な働きである。私たちはすでに、言語や文化や社会的なやりとりを通じて他者の考えを互いに誘導しているではないか。今までと違うのは、知覚認知を機械と密接に結びつけられるようになったことだ。そして、それらの技術が広く受け入れられるようになったなら、他のユーザーたちからなる電子的ネットワークにも知覚認知を結びつけることにより、その影響を広範囲に行き渡らせ、場合によっては正体を明かさずに影響を広めることもできるという点である。考えようによっては、私たちは昔からバイオハッカーとして、ともに生きるというただそれだけの行為によって互いの現実を形づくってきたとも言える。今、技術を利用する者として、私たちは自らの現実を再び形づくることができるかもしれない。ただし今度は自分の意思で、いかにもそれらしい市販の装置を使って。
これはささいな選択ではないはずだ。私たちは種として自らの進化をもてあそぼうとしている。体の末梢から奥深くへ、知覚の宿る場へとテクノロジーを送り込もうとしている。脳の言語、すなわち電気化学的なざわめきを感覚や経験や感情―つまり存在そのもの―に変えるデータの流れを解釈する方法を学びつつある。この情報が理解できれば、それに手を加えることもできる。もう一度、印刷というアナログな世界からたとえを借りよう。物書きなら誰でも知っているとおり、読み書きができれば大きな力が手に入る。しかし、編集を支配することができればもっと大きな力が手に入るのだ。
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