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『失われゆく我々の内なる地図』試し読み

渡り鳥はなぜ、長距離を迷うことなく移動できるのか――。こんな疑問の解明に挑んだ同志社大などの研究グループが、渡り鳥の一種「オオミズナギドリ」の脳内に「コンパス細胞」があるという手がかりを突き止めた。(産経新聞より)

引用は、米科学誌「Science」に掲載された研究成果を伝える産経新聞の記事からです。

ナビゲーション能力というと、渡り鳥など動物のものが良く話題になります。ですが、実は人間にも立派な「ナビ機能」が備わっています。しかも『失われゆく我々の内なる地図』(4月12日刊行)によれば、その機能は、「出来事を記憶し思い出す」「人間関係を理解する」「抽象的な概念を操る」「良好なメンタルヘルスを保つ」「認知症を防ぐ」など、さまざまな心や脳の働きにかかわっているのだそう。

しかし著者が本書を通して繰り返し指摘しているのは、GPSなど便利なものに頼り、その力を使わないでいると、それが衰えていくということ。楽な移動に慣れたり、そもそも移動自体もあまりしなくなった今、そこにはどんな代償が伴うのでしょうか?

あまり知られていなかった人間のナビゲーション能力の様々な側面と、それが現代的な生活によっていかに衰えていきつつあるのかを、脳・心理・社会など多彩な論点から迫った本書から、第二章の冒頭をお届けします。

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うろつきまわる権利

 

 今から三〇年ほど前、カナダ、エドモントンのアルバータ大学で心理学を教えていたエド・コーネルは、九歳の少年の捜索を指揮している警官から電話を受けた。その子は、数日前に田舎のキャンプ場から行方不明になっていた。足跡からして、数キロ離れた沼地の方向へ歩いていったらしい。警官は彼に尋ねた――九歳の子どもはどのくらい遠くまで行きますかね? コーネルと同僚のドナルド・ヘスは数年前からウェイファインディング(人間に本来備わる「空間を把握する力」を使って目的地までの道を見つけること)に関する行動について研究していたため、専門家として白羽の矢が立ったわけだ。質問に答えようとして、ふたりは子どもが迷子になったときにとる行動について、ほとんど何も知らないことに気づいた。ふたりだけでなく、誰も知らなかった。迷子の子どもはどのように行動するのか? どんなルートを取るのか? どんな目印を使うのか? どのくらい遠くまで行くのか? ふたりは、関係のありそうな文献にさっと目を通し、分かるだけのことを答えた。「返ってきた言葉は屈辱的だった」と、彼らはのちに書いている。「あまり役に立たないな。いいですよ、先生。今日はこっちで霊能者に頼んでみて
もいいし」。

 それからまもなく、コーネルとヘスは、その種のものとしては初めての実験を行った。大学近くの草原周辺に暮らしている三歳から一三歳までの一〇〇人の子どもの親に連絡を取り、関係者全員の許可のもと、それぞれの子どもにこれまでひとりで行ったなかで家から一番遠いところまで自分たちを連れていってもらいたいと頼んだ。研究者たちは子どもの後ろを歩き、彼らの行動を観察し、道筋を図に記入し、距離を測った。なにもかも子どもたちが決めた。いつでも好きなときに休んだり、家まで戻ったり、親を呼び出すことができた。子どもたちがどのように進む方向や道を決めるのかという疑問に、科学的な目を向けたのはこれが初めてだった。研究の成果は、行方不明の子どもを発見するチャンスを増やしただけではなかった。子どもがどのようにして空間とかかわり、世界について学ぶのかについて、それまでの理解を変えたのである。コーネルが発見したように、子どもたちは違ったやり方をするのだ。

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 エド・コーネルと連絡を取るのには時間がかかった。研究職から引退したあと、ワシントン州のカスケード山脈をかすめるコロンビア川上流の小さな町ホワイト・サーモンに引っ越していたからだ。そこで彼は、地元の捜索救難チームのボランティアとして働き、行方不明の人々を発見することに力を注いでいる。九月も末のある朝、私たちは町の大通りにあるカフェで会った。彼は私を連れて、周辺を案内してくれた。シダー、オーク、モミ、ツゲが混じりあう珍しい植生。牧場とブドウ園が幾重にも連なる。東に向かって、風景は温帯の森からサバンナへとしだいに開けていく。途中あちこちでコーネルは立ち止まり、現地の生態系の境目や、変わりやすい天気について語るのだった。彼はまた放牧地で道に迷い、あるいは険しい渓谷にはまり込んだ人々の救助を手伝った場所をいくつも指し示した。コーネルは何事にも熱中して取り組むタイプで、人間の行動ばかりでなく、周りの環境にも際立った観察眼を見せる。これは救難の場で役に立つのはもちろん、そもそもなぜ人が迷うのかを研究する学者としてもぴったりの資質である。

 うろつきまわる子どもたちについて調べたコーネルとヘスの研究からは、いくつかの驚くべき洞察がもたらされた。主なものとしては、子どもをひとりでうろつかせておくと、他の人々、特に親たちが考えるよりも、はるかに遠くまで移動するというものだった。その距離は予想したよりも平均して二二パーセントも長く、なかには三倍あるいは四倍も遠くまで行くこともあった。だがとりわけコーネルの興味をひいたのは、子どもたちがどのように旅したかであった。今まで行ったなかで一番遠い所まで行くように言われた子どもたちは、誰ひとりそこまでまっすぐには行かなかった。彼らはぶらぶら歩き、いろいろなものに気を散らされ、長い回り道をとった。「子どもが行くところはどこにでもついていったよ」とコーネルは思い出すように言う。「“近道”するのに、ショッピングモールを通り抜けもしたし、雪の積もった空き地も横切ったし、サッカーの試合をしているところを突っ切ることさえあった。もっとよく見ようとして消火栓によじ登り、木の葉の山を蹴とばし、石を投げ、立ち止まってバーベキューを眺める。生まれついた本能に従っているようだった。たくさんの子が、前に行った道から外れていると平気で認めたものだ。ある子どもは、歩き終えるまでに二時間以上かかったよ」。

 自分の子ども時代を思い出してほしい。こんなふうにあてどもなく、心のままに、知らない世界へ入っていくことで、子どもは空間に対する理解を発達させ、またやり通した場合にはウェイファインダーとしての自信を手に入れる。これは生存戦略である。世界を知るということは、その中で安心していられるということだ。私たちはみな、衝動に駆られた冒険家として人生を始める。コーネルは、自分が子どものときにもそんなふうだったことを覚えている。探検したいという衝動は、人を人たらしめるもののひとつだと彼は言う。「未知なるものの中に入り込むこと、秘密のルートを見つけること、自分しか知らない場所を知ること、秘密の砦、洞穴への近道――子どもはそういったものが大好きだ。それは子どもたちに、彼ら自身の認知について、記憶について、目印(ランドマーク)の使い方について、そう、何もかも教えるんだ」。子どもたちは、大人には見えない場所を見るだけでなく、衝動的にそこに入り込もうとする。ロバート・マクファーレンは、その著書『ランドマーク』の子ども時代の地形についての章でこう述べている。小さな子どもにとって「自然はドアでいっぱいだ……そして一歩進むたびにそのドアはぱっと開く」。彼はこう続ける。

 木の洞は城への入り口だ。乾いた土に開いたアリの巣穴は、世界の向こう側へと導く。木の枝の山は宮殿だ。水たまりは、海底の王国の玄関だ。三歳や四歳の子どもにとって「風景」は背景でもないし、壁紙でもない。それはチャンスにあふれ、移ろいやすい質感を持った媒体なのだ……私たちが無味乾燥に「場所」と呼ぶものは、幼い子どもにとっては、夢と魔法、そして実体からなる野生の複合体なのである。

 コーネルとヘスがこの研究を始めていた頃、ニューヨーク市立大学の地理学者ロジャー・ハートはニューイングランドの小さな田舎町で子どもたちを対象にした二年にわたる研究の真っ最中だった。その町に住んでいた子どもは全部で八六人だった。彼は子どもたち全員を観察し、彼らと話をした。ハートの研究は地理学と心理学の両方にわたっていた。彼は子どもたちが近所の通り、庭、野原、小道とどうかかわったか、またそれらが彼らの考えや行動にどう影響したかに興味を持った。子どもたちはいろいろな場所に「いる」のを楽しむのとまったく同じように、そこに「たどり着く」のを楽しむ――これはハートがなした不朽の洞察のひとつだ。「多くの場合、彼らは『そこに行く』わけではない。彼らはただ探検している」。新しく発見した道や近道は、子どもにとってわくわくする宝物となる。だからわざわざいつもの道をそれて、新しい道を使うのだ。自己啓発の指導者たちは、旅をすることは目的地に着くよりも重要だとよく言う。だが子どもは言われなくても分かっている。彼らにとって、旅はすべてなのだ。

* * *

 読者のなかで、今述べたハートによる子ども時代の描写が心に響かない人がいたとしたら、ひょっとして一九七〇年代以降に生まれたのかもしれない。実はここ四、五〇年間で、子どもたちがうろつきまわる機会は大きく減っているのだ。統計を見てみよう。

• 子どもの「ホームレンジ」――子どもがひとりで家から出て遊ぶことを許されている距離――は、調査されたすべての国で過去二世代もしくは三世代で減少している。九〇パーセント以上減った例もあるくらいだ。

• イギリスでは、学校以外の場所にひとりで行くのを許される小学生の割合は、一九七一年の九四パーセントから二〇一〇年には七パーセントに落ちた。

• イギリスで、近所の公園や原っぱなどで外遊びをするのは、七歳から一一歳までの子どもの四分の一以下である。彼らの親の世代が同年齢だった頃には、四分の三の子どもが外で遊んでいた。今、その年齢の大部分の子どもは家で遊んでおり、七〇パーセント以上は、どこで遊んでいても常に監視されている。

 二〇一五年に、イギリスのシェフィールド大学の研究者たちは、シェフィールドの町で暮らす家族を対象に親子三世代にわたりインタビューし、子どもの頃どういうふうに歩きまわっていたのかを調べた。学者たちの言う「子ども時代の空間次元」を探ったのである。典型的なケースを紹介しよう。家族のなかで、一九六〇年代に育った祖母は、友だちと会うために四、五キロ離れた地元のユースクラブまでひとりでよく歩いて行った。一九八〇年代に子ども時代を過ごした彼女の娘は、家から五〇〇メートルほど離れた店に行くのを許された。そして今、一〇歳の男孫がひとりで行ける一番遠い場所は、道路を一〇〇メートル行った先の友だちの家だ。この家族のホームレンジはほんの三世代で数十分の一に縮んでいる。これはかなり劇的な変化だが、たいして珍しいケースではない。今日の子どもたちは、祖父母と比べて、探索することも、戸外を経験することも少なくなっており、遊ぶ仲間の子たちも少なく、だいたいいつも親の目がある。彼らの空間生活は管理されており、ほぼ自分の家だけに集中している。

 この変化はどうして起こったのか? そこにはふたつの要素が特に関係しているようだ。第一の要素はもちろん交通の問題である。道路には途方もない数の車が行き来し、そこを途方もない数の不注意なドライバーが猛スピードで走り抜ける。一九五〇年以来、イギリスの交通量は、一〇倍に増えた。袋小路にでも暮らしていないかぎり、家の外で遊ぶことはもはや考えられず、親は道路を横切らないと行けない場所には子どもを出したがらない。車にひかれて死んだ子どもの数は、交通量の増加にもかかわらず実際には減っているが、その理由は道路がそこそこ安全になったからではない――道路にはもう子どもがいないのだ。

 子どもが自由に歩きまわるには、道路の安全は現実問題として不可欠である。その一方で子どものホームレンジが小さくなったもうひとつの理由は、ほぼ完全に親の想像によるものだ。「知らない人は怖い」と彼らは考える。通りも公園も遊び場も、小さい子どもを誘拐しようとしている人々がいっぱい、というわけだ。こうして多くの親は、子どもが安全なのは家にいるときだけだと信じ込む。最近、親と子の関係について国際的な調査が行われたが、質問に答えた人々のおよそ半分が、最大の心配ごとは、子どもに対する犯罪だと述べた(高いところではスペインの六〇パーセントから、低いところではスウェーデン、中国、オランダの三〇パーセント前後まで。こうした不安を煽っているのは、わずかな件数の子どもの誘拐、性的いたずら、もしくは殺人事件についてのセンセーショナルな報道である。

 こうした事件に向けるメディアの強迫的なまでの執念は、現実の脅威を誇張してきた。二〇一六年にイギリスで殺された一六歳以下の子どもは四人である。過去二〇年間、毎年九人を超えたことはない。年によってはひとりもいないか、ひとりだけの年もある。知らない人々への恐怖を誇張することなく正しく捉えるのは、子どもの自由への影響を考えれば、きわめて重要である。実はここに厳しい事実がある。実は、子どもは知らない人よりも、知っている人々、なかでも親や継父母によって殺されたり、危害を与えられるケースの方がはるかに多いのだ。ニューハンプシャー大学で「児童に対する犯罪研究センター」の所長を務めているデイビッド・フィンケラーによれば、アメリカ全土で知らない人に誘拐される子どもの数は行方不明の子どものうちで〇・〇一パーセントであり、暴行や拉致など子どもへの重大な犯罪の全体数は、一九九〇年代初頭から大きく低下してきている。これらのデータが示すのは――交通の問題は別として――子どもたちが近所の道路や街はずれをうろついても、両親や祖父母のとき以上に危険なことはないということだ。

 こうした現実があるにもかかわらず、アメリカでは地域によっては子どもを監視なしで歩きまわらせるのは社会的に受け入れがたくなっているようだ。警察は、子どもをひとりで学校まで歩かせ、公園で遊ばせ、あるいは車にひとりで残した親に対して、「未成年者を危険にさらす行為」の罪で逮捕、訴追している。こうした常識を破って、ユタ州では、二〇一八年に「放任主義育児(フリーレンジング・ペアレンティング)」を選ぶ人々を保護する法律を通過させた。子どもが自立するためには、ひとりで行動させることが必要だという考えからだ。これは良いニュースだが、それにしても子どもがいつもやっていたこと――探検の自由――を保障するのに法律が必要というのは、信じがたい気がする。

 一方、現代の子どもが束縛されている背景には、車の多い道路や犯罪に対する誇張された恐怖ではなく、デジタル・テクノロジーやソーシャル・メディアがあると考える人々もいる。タブレットで遊んだり、チャットアプリで友達とおしゃべりしたり、SNSで自撮りの写真を交換したりできるというのに、なんで外に行きたがるのか。要するに子どもは、祖父母が通りや公園でやっていたこと――つまり親の目や耳が届かないところで、友達とつるんで遊ぶこと――をオンラインでやっているにすぎないというのだ。だがデジタル空間でそうしているのは、必ずしも子どもたちがやりたくてやっていることではない。二〇〇九年に世界二五カ国で七歳から一二歳の三〇〇〇人の子どもたちを対象にした調査が行われた。それによると、ほとんど全員がいちばん遊びたい場所は外だと答えた。また九〇パーセント近くが、ネットより友達と遊ぶほうがいいと言った。だがたいてい、彼らにその選択肢はない。私たちは、子どもがじかに一緒に集まるのを難しくしてしまった。彼らが二番目に好きなことを喜んで受け入れたのも別に驚くことではない。

 外の世界とのかかわりの欠乏は、ほぼ確実に子どもから貴重な経験を奪う。ある程度まではフリーオンラインゲームで、友達とつきあい、探検し、うろつくことができるかもしれない。だが私たち人間は、これだけ高度に知的で複雑な存在になっていても、いまだに空間の生き物であり、動きまわるように進化してきた歴史がある。私たちにとって物理的世界と交流することでしか――世界の次元を試し、その扉を叩くことによってしか――学ぶことができないものがあるのだ。好奇心がもっとも強く、もっとも制約のない子ども時代にそれができなければ、二度とそのチャンスを手に入れることはないだろう。

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 自由で自主的な遊びの時間から子どもたちは何を手に入れるだろう? 空間的な制約のもと、大人に監視された遊びから得ることのできないものとは何なのか。進化論の立場から子どもの発達を研究し、現代の教育システムを長年にわたって論評しているアメリカの心理学者ピーター・グレイは、子どもが遊びを通じて学び取るものを、他の手段で教えることはできないと考える。その著書『遊びが学びに欠かせないわけ』(築地書館)に彼はこう書いている。

 食べ物や空気、または水を与えないのと違って、自由な遊びを禁止しても、子どもを身体的に殺すことはないかもしれない。だがそれは精神を殺し、心の成長を阻害する。自由な遊びは、子どもが友だちを作り、恐怖を克服し、みずからの問題を解決し、自分の生活をコントロールするのを学ぶ手段なのだ。……私たちが何をしてあげても、どれだけたくさんのおもちゃを買ってあげても、あるいはまた子どもとの会話や読み聞かせなど、いわゆる質の高い時間を与えたり、英才教育を受けさせたりしても、子どもから取り上げる自由の代償にはなりえない。

 「自由な遊び」から学べることは空間の認識と、そのなかで動きまわる自信である。どちらもナビゲーションとウェイファインディングの基本となる重要な資質だ。心理学がもたらした大量の証拠からは、自由に歩きまわるのを許されている子どものほうが、周りの環境や方向についての感覚がすぐれていることが分かっている。農村地域で育った人々のほうが都会で育った人々よりも、ナビゲーションに長けている傾向があるのもこれで納得できる。ある研究によれば、八歳と九歳の子どもに自分が住んでいる町をスケッチさせると、しょっちゅう自転車で走りまわっている子どもは、そうでない子どもよりもはるかに詳しく描くことができ、その年齢としては高度な空間認知の存在が見て取れた。別の研究でも、ひとりで通学する八歳から一一歳の子どもは、大人に付き添われたり、車で送り迎えされたりする子どもよりも、住んでいる地域の地図を正確に描けることが分かっている。これは、主体的学習と受動的学習の違いだ。どこにでも車で連れていってもらう子どもは、自分で判断したり、自分だけの地図を描いたりする機会がいっさいない。この子たちは探検者であることをやめているのだ。

 空間認識とナビゲーション能力は自信に大きく支えられる。知らない場所で道が分からずに不安になれば、もっと道に迷いやすくなる。不安は、意思決定を混乱させかねないからだ。何事であれ、やり慣れていないことに自信を持つのは難しい。子どもの頃に、自分が家から離れたところで道や方向を難なく見つけられるのを知ったならば、将来どこにいても道を見つけ、知らない場所でもうまくやっていけると思えるはずだ。このことがいちばん身につくのは子ども時代である。成長してリスクを嫌うようになると、その最初のステップを踏み出すのが難しくなるからだ。なく、たださまよい歩くことだけが彼らの目的だ。現代でもフラヌールはいる。彼らは心理地理学者と自称して、都会の景観をあてもなくうろつきまわるのを楽しみ、その経験から受ける影響を観察している。レベッカ・ソルニットは、著書『迷うことについて』(左右社)の中で、未知のものとのかかわりを推奨している。こんなふうに意識的に迷うことは、「完全に存在することであり、完全に存在するということは、すなわち不確実性や謎の中にいられることだ……それは意識的な選択であり、意図した降伏であって、地理を通じて到達できるひとつの心の状態なのだ」。

 まさに幼い子どもの時代のことを言っているようではないか。私たち大人がなすべきことは、その時期を子どもが存分に楽しめるようにすることだ。四歳にもなれば、気ままそのものの子ども時代には幕が引かれてしまうのだから。その年頃になると、自分を空間に存在するものとして感じ始める。彼らの存在を規定する場面は、社会から空間へと変る――私はこの部屋にいる、この部屋はこの建物の中にある、この建物は周りの住宅街の中にある、その住宅街は町の中にある、というように。この時点で、彼らは初めて、道に迷うことが何を意味するのかに気づき、途方もなく怖がるようになる。一〇〇年以上前から続けられている調査によれば、野生の地に入り込んだ子どもが、他の何よりも恐れているのは道に迷うことだという。コーネルの同僚のケネス・ヒルは迷った人間の行動についての研究で有名だが、捜索救難を担当するスタッフに次のようにアドバイスしている。

 だいたい四歳を過ぎると、迷子になった子どもは、迷ったことの恐怖だけでなく、ほかにもさまざまな恐怖が襲いかかり、おびえきってほとんど何もできなくなる。捜索している人々から隠れ、呼びかけを無視し、近づくヘリに立ちすくんで動けなくなるというのはよくあることだ。知らない人を避けるように教えられてきたためだと考える人が多いが、それだけではない。こうした状況では、それまで見たことのない刺激は、子どもにとってすべて恐ろしいものになるからだ。

 ヒルはかつて、三日間、行方不明になり、死んだと思われていた四歳の男の子に会って話を聞いた。その子は風雨をしのげる場所にもぐりこみ、天気が回復するまでそこにとどまった。ヒルが彼に、なぜもっと早くに出てこなかったのか訊き くと、その子は「夜、片目の怪物がぼくの名前を呼んでるのを見た」からだと言った。彼はヘッドランプを着けた捜索者が怖くて隠れていたのだ。子どもは世界を違ったふうに見る。知らない場所はわけの分からないものでいっぱいだ。それでも彼らはそこに行く――どうしようもなく、駆り立てられるように。

* * *

 子どもたちの脳が成熟し、認知機能が向上し、ホームレンジが広がるにつれて、彼らはますます空間を認識するようになり、ウェイファインディングがいっそう巧みになる。彼らはしだいに、違う角度から見た物体をイメージしたり、別の視点から状況を眺めたりできるようになるほか、場所を認識し、ランドマークを見分け、自分の位置や方向を把握し、ルートを覚え、そしてあとになってから異なるルートが互いにどうつながっているのかを理解するようになる。彼らは周囲の環境のメンタルマップをつくり始める。そしてそれによって近道をとることができるようになるのだ。

 スイスの心理学者ジャン・ピアジェをパイオニアとする、子どもの発達についての従来の見方によると、空間の認識は段階的に起きる。たとえば近道をとれるようになる前に、まずランドマークとは何かを理解しなくてはならない。また七歳になるまでは、自分がいるところ以外の位置から見える光景を想像することができないとされる。一方で、そのプロセスはずっと流動的だと考える研究者たちもいる。多くの五歳児はすでに航空写真を理解するし、自分の環境の抽象的モデル(たとえばレゴブロックの村)を作ることができるというのである。その子の見方が完全に自分を軸としたものだったら、それはできないはずだ。この考えからすれば、子どもたちは生まれつきの探検者であると同時に、生まれつきの地理学者でもある。

 現実世界の環境における子どもの行動について研究している心理学者たちによると、自分たちの環境について、たとえば一〇歳の子どもなら理解できても、七歳の子では理解できないことがあるという。一九五七年に、心理学者のテレンス・リーは、イギリスのデボン州の農村地域に住む六歳から七歳の子どものなかで、学校までバスで通う子どもは情動面でも社会面でも学校生活に適応しにくかったが、歩いて学校に行く子どもは難なく適応したと報告した。つまりその年齢の子どもはバスの旅を、自分のいる世界の空間表象――心の中の絵――に組み込むことができないというのである。この説は最近の研究によって裏付けられている。学校と家とのあいだのつながりが失われているため、子どもは母親からどのくらい離れているのか測ることができないのだ。

 ただしピアジェの支持者でさえ、年齢だけが空間スキルを決める要素ではないことに同意する。一三歳の子どもはウェイファインディングの上達に必要な、認知的な特性をすべて持っているが、その熟練度はまちまちである。この時点までに、親の子に対する姿勢、行動の自由、認知の違い、経験が、すでに消えることのない刻印を残し始めている。私たちはみな、生まれたときは探検者だったかもしれない。だがそのままだった例はほとんどない。最終的に私たちは自分の子どもっぽい本性を抑え込んで日常にすべり込み、いつものルートを使うようになる。カナダの心理学者グループが最近行った研究では、八歳の子どもの八四パーセントが自分を取り巻く環境を詳しく調べ、メンタルマップをつくって場所同士の関係を理解するということが分かった。これはいわゆる「空間」戦略と呼ばれるもので、有能な大人のナビゲーターのほぼ全員が使っている。そのほかに、もっと閉鎖的な、「自己中心的」戦略がある。これは、自分が行った一連の方向転換を記憶し、それに従うというものだ。空間戦略を使う人は、二〇代でも四六パーセントにとどまり、六〇代になると三九パーセントに減る。私たちはみな自由にうろつきまわることから人生を始めるが、最後はほとんどが「まっとうな道」に帰結するようだ。人生は私たちの翼を折るすべを知っている。(第二章より抜粋)

本書の紹介ページ

■目次

まえがき
第1章  最初のウェイファインダーたち
第2章  うろつきまわる権利
第3章  心の中の地図
第4章  考える空間
第5章  A地点からB地点へ、そして戻る
第6章  あなたはあなたの道を行き、私は私の道を行く
第7章  自然を読む
第8章  道に迷うことの心理学
第9章  都市の感覚
第10章 私はここにいるの?
第11章 道の終わり


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