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ノアの洪水は本当にあったのか?『岩は嘘をつかない』試し読み

 現代でもアメリカでは、聖書に書かれているとおりに神が地球を創造したと信じる「創造論者」が半数近くいるといいます。彼らに言わせれば、地球は数千年前に誕生し、ノアの大洪水によって地形が形成されたとのこと。ですが、地質学者たちは岩石の記録を読み解けば、創造論者たちの主張よりも地球が古いことに疑いの余地はないと反論しています。

 このように地質学とキリスト教(言い換えれば科学と宗教)は、何世紀にもわたり論争を続けてきました。『岩は嘘をつかない――地質学が読み解くノアの洪水と地球の歴史』の著者であるデイヴィッド・R・モンゴメリーは、「ノアの洪水」伝説が残った理由、また世界各地に同様の洪水に関する民間伝承がある理由を、多くの文献とともに地質学的なアプローチから探っていきます。

 科学と宗教の応酬を通して、地質学の誕生した経緯や地球の歴史を楽しむことができる本書より、冒頭「はじめに」をお届けします。

0180岩は嘘をつかない

はじめに

 世界中の神話や民話に、大地がどのようにして形成されたかという地形の起源の話が登場する。そうした古代の物語は、どのように解釈すればよいのだろうか? たとえば、地形の起源を説明するために持ち出される大洪水の話は? 有史以前に起きた出来事の伝承と考えるか、それとも古い時代の迷信として取り合わない方がよいのか? 私は地質学者として岩石や地形から世界の歴史を解釈する訓練を積んできたので、民話のもとになった地質学的な出来事や、地形や文化や伝統が人々の土地の見方に及ぼす影響にとても興味がある。


 洪水伝説は世界各地に見られる人類最古の伝承で、その起源を探るのは一筋縄でいく試みではないが、とても興味をそそられる。多くの古代社会に洪水伝説があるのは、洪水が頻繁ひんぱんにあった自然災害だったからにすぎない、とたいていの地質学者は考えている。しかし、「ノアの洪水こうずいのように空前の規模だった大洪水の伝承は、単に大洪水が起きた事実を伝えているだけではなく、もっと深い意味があると考えられないだろうか?


 科学の中でも、とりわけ地質学はノアの洪水の説話に縛られている。科学と宗教の間で、「天地創造」「ノアの洪水」、地球の年齢、地形の生成に関する問題ほど大きな論争を引き起こしたものはないだろう。キリスト教徒は二世紀にわたり、伝統的な聖書の解釈と矛盾する地質学的発見に悩まされてきた。一方、ノアの洪水の証拠とされるものの解釈をめぐる論争は地質学の発展に驚くほど役に立ったが、同時に創造論者の台頭をうながし、地質学は信仰を根底からおびやかすものだという考えを生み出す契機にもなった。


 創造論という考え方があり、それによると世界は数千年前に誕生し、地球の地形は山や丘や谷もすべて聖書に記された「大洪水」で形成されたという。本書を書き始めたときは、その創造論をかたくなに信じている人々に対して、その誤りを歯に衣着せずに指摘しようと考えていた。しかし、古書をひもといていくうちに、大洪水の説話は科学と宗教の両者の見方を形作ってきたことに気づいた。また、信仰についても異なる見方に出会った。


 洪水伝説、とりわけノアの洪水の起源を探っていけば、理性と信仰をめぐるありふれた対立点に行きつくだろうと思っていた。しかし、その代わりに見えてきたのは、世界とその中にいる自分の場所を説明しようと必死に努力している人間の真摯しんしな姿だった。初期の地質学は、ノアの洪水は実際に起きた出来事であるという前提のもとに発展してきたので、当然のことながら、ノアの洪水の解釈をめぐって、推測の域を出ないままさまざまな説が提唱された。しかし、時代が下ると、地質学は文字通り手で触れて、足で踏みしめられる証拠に基づいて、神学に影響を及ぼすようになった。現在の世界を作り上げている岩石に照らし合わせてノアの洪水を検証し、一回の地球規模の洪水では力不足であることを明らかにしたのだ。一方、キリスト教徒は科学的発見と齟齬そごをきたさないように聖書の説話を巧みに解釈し直すので、科学者も往々にして旧来の常識に惑わされてきた。科学と宗教の歴史的関係は、私が思っていたよりも、つまり日曜学校や大学で教えられたよりもずっと柔軟で、互いに影響を与え合うものだった。


 科学史は、理性の光明が神話や迷信の闇を照らすという単純な構図で描かれていることがとても多い。だから、近代地質学の父と呼ばれているステノことニールス・ステンセンが、化石の特性に関する重要な論文で、フィレンツェ周辺の地形の起源を説明するためにノアの洪水を持ち出していたのは実に意外だった。


 さらに、かつてファンダメンタリズム〔キリスト教原理主義、または根本主義。聖書の無誤性むごせいを信じ、進化説を排する保守的な福音ふくいん主義プロテスタントの一派〕を信奉する人々の間でノアの洪水と地形の解釈をめぐって論争が起こり、それに端を発して現代の創造論が生まれたと知ったのだが、それも同じくらい意外だった。歴史の中で、キリスト教徒による聖書解釈と科学者による地質学的証拠の再解釈はずっと影響を及ぼし合ってきたが、その歴史を知ると現代創造論の起源とアメリカで誕生した理由がわかるようになろうとは思ってもいなかった。また、創造論というのは誕生してまもないキリスト教の一派が提唱した説であることや、その創始者たちは、プレートテクトニクス理論が提唱される前夜の地質学に対してある程度は的を射た批判をしており、それに基づいて創造論を提唱したということも初めて知った。現代の創造論は、完全に否定された17世紀の理論の焼き直しだとしても、ある程度は合理的な論拠に基づいていたのである。


 科学と宗教の歴史や本書で触れた話題についてさらに深く知りたい方は、巻末の参考文献を参照していただきたい。これまで徒労に終わっている「ノアの方舟はこぶねの探索や、方舟の漂着地を特定する試みに関する考察は他書に任せる(ちなみに有名なアララト山も数多い候補地のリストに比較的最近追加された地点だ)。また、世界中の動物を手作りの救命ボートに収容する段取りなど、興味は尽きないが、方舟の大きさや形、ロジスティクスの議論にも踏み込まないことにする。検証がもともと不可能な信条の問題は神学者が扱うのがふさわしいと思うので、知的設計論インテリジェント・デザイン〔神がすべての生物を創造したとする理論〕の問題もそちらにお任せする。地質学の教育や訓練のおかげで、岩石に記録された物語や地形に刻まれた物語を読み解き、地球の歴史を洞察することはできるが、宇宙が今日見られるような形で存在し、動いている理由は私にもわからない。こうした疑問には、少なくとも今のところは答えられないだろう。


 神学や自然哲学、科学の分野の歴史に残る業績をひもとくのは実に興味深い経験だった。聖書の解釈と地質学の発展は互いに大きな影響を及ぼし合ってきたことを実感した。今日でも自然界の観察結果に聖書の解釈を一致させるための努力がなされているが、科学と宗教の間で、ノアの洪水ほど長期にわたり論争の的になった出来事はないだろう。私たち人間は自分が何者かを理解しようとして、ずっと悩み、苦闘してきたし、これからもそれをやめることはないだろう。こうした二つの文化の対立をどう見るにせよ、ノアの洪水の解釈は今日でも両者の対立を理解するかなめである。古代の説話をどう解釈するかによって、世界観、ひいては人生観が変わるからだ。

■目次

はじめに
1 ヒマラヤの堰
チベットに大洪水の証拠――伝承はまったくの架空ではない
2 大峡谷
北米最大の谷を底から登ると実感できる、地球の古さと創造論者の地球観の根本的な問題
3 山中の骨
初期のキリスト教徒、化石や岩石にノアの洪水の証拠を見出す
4 廃墟と化した世界
17世紀の碩学、創意に富む「神がもたらした洪水」説で近代地質学の基礎を築く
5 マンモスをめぐる大問題
化石は絶滅した動物の骨だった――大洪水の仮説が否定される
6 時の試練
18世紀のスコットランドで地質時代の発見。「古い地球」説による創世記の再解釈
7 天変地異の地質学的証拠
19世紀の地質学者、「地球規模の洪水は世界を襲った最後の天変地異」説を否定
8 粘土板の断片に記された洪水伝承
英国の若き彫版工が粘土板を解読。ノアの洪水譚はバビロニアが源流だった
9 焼き直された物語
人類学者によって世界各地の洪水伝承の起源が判明し、聖書の変遷が明らかになる
10 楽園の恐竜
なぜ20世紀に創造論が復活? 謎を解くために天地創造博物館へ
11 異端視された洪水
地質学者、大洪水の証拠を発見。創造論者、ノアの洪水とは認めず
12 幻の大洪水
プレートテクトニクス理論を無視する現代の創造論者、17世紀の説を焼き直す
13 信念の本質
語られなかった最大の物語――世界観は地球史観によって形成される

■著者

デイヴィッド・R・モンゴメリー

ワシントン大学地球宇宙科学科教授。スタンフォード大学で理学士、カリフォルニア大学バークレー校で博士号取得。専門は地形学。地形とその発達過程が生態系と人間社会に及ぼす影響などについて研究。シアトル在住。

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