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善行日記

いいことをしたのだが、特にどこかの誰かから褒められるわけでもない。もちろん褒められることを目的に良いことをしたわけではないのだが、せっかくの善行が何の記録にも残らないのも少し寂しい気がするのでここに書いておくことにする。

(そういう意味でもnoteってすごく便利)

10月の三連休。最終日は朝から冷たい雨が降っていた。

ちょっとした所用で開店前の銀座三越本店地下駐車場にクルマを停めたわたしは、まだ1階までしか動いていないエレベータで地上に出た。

三原通りから目的地の銀座2丁目に向かおうと歩道から車道に一歩踏み出した瞬間。路面にエナメルっぽい素材の肌色の固形物が落ちているのを目にした。雨に打たれているそれはどことなくこころ細げで儚げで、物体なのにまるでわたしに助けを求めているようにも見えた。

「あ、あれ、お財布じゃない?」

地面に落ちているものを目ざとく見つける癖のある妻がさっそく固形物がなんであるかを判定した。判定はしたものの、彼女は歩みを止めることなく銀座2丁目方面へ向かって歩く。

確かにそれは二つ折りの財布のようであった。中身が入っているのかどうかはわからない。

わたしはなぜか後ろ髪がひかれ、数歩通り過ぎたのちに足を止めて振り返った。

初老の夫婦が足元を気にしながら歩いてきたので(もしかしたら拾ってもらえるかも)と期待したが彼らはまるで財布の存在を無視した。もしかすると本当に見えていなかったのかもしれない。

わたしは先を急ぐ妻に「拾うよ」と声をかけて、財布まで戻った。そして拾い上げると想像よりも重みを感じたことに少し驚いた。

「どうするの?」
「交番に届けるよ。ここから一番近い交番ってどこかな…」

ほとんどの人は出かけた先の街の交番がどこにあるか把握していない。わたしももれなくその一人である。何も意識していない時は目につく交番や警察官なのだが、いざ必要となるとどこにあるのか、どこにいるのかわからない。

さて銀座で交番となると、とぐるりと見渡すと驚くことにすぐ目の前に交番のような、交番とはちょっと違うような建物があった。

「築地警察署 三原橋地域安全センター」

どうやら交番ではないようだ。が、中にいるのはまごうことなきおまわりさんである。

わたしは外から笑顔で会釈しながら重めの扉を開けた。

「はい、どうされました」

人の良さそうな50代ぐらいの警察官。ここでわたしが黙って銃口を向けたらおまわりさんどんな顔するだろうか、と妄想しつつ「あの、財布の落とし物が…」と善人120%の笑顔で用件を伝えた。

50代の警察官は「あー、これは財布だねー」とすでにわかり切ったことをつぶやきながらどこに落ちていたのか、いつ拾ったのかなどをテキパキと質問してくる。

そして手慣れたようすで二つ折りの財布を開き中身を確認しはじめた。

「えーと現金入ってるね、お札が2万と6千円。小銭が650円だね。2万6千650円。あなた中身見たの?」

拾った財布、つまるところ他人の財布の中身を持ち主に断りなく覗くようなファットなマインドの持ち主ではないわたしは猛然と首を横に振った。警察官があまりにあけすけに札を勘定するのを見てドキドキしたぐらいだ。

「あとは免許とかあるといいんだけどなあ、クレジットカードはあるけど…あ、免許あったあった。女性の方ですね」

チラッと見えた免許証はグリーンだった。と、いうことは免許取得初心者。比較的若い人なのだろうか。もちろん顔写真や名前などは見ていないし、たとえ見たとしても目が悪いのでなんだかわからないだろう。

「では拾得されたあなたには3つの権利があります。ひとつは…」
「いえ、何もいりません」
「ああ、そう。じゃ、ちょっと書類を持ってきますからね」

警察官は奥の部屋から薄く白い用紙を持ってきて、わたしにペンを渡しながら説明する。

わたしは説明された通り(あなたは提出された物件に関する一切の権利を放棄する)という欄の空白のマスにチェックをいれ、フルネームでサインをした。

「たぶん、落としたばっかりだろうからすぐに持ち主が見つかると思いますよ。きちんと渡しておきますからね。ご苦労さまでした」

それでおしまいである。警察官は安全センターを出るわたしを満面の笑みで見送ってくれた。

目的地に向かう道すがら、妻は「いまどきは26,000円入ってる財布を拾ったら中身を抜いて捨てちゃう輩だっているんだからあなたに拾われてよかったよ」とか「いいことしたから何かいいことがあるね」などと無邪気なことを言っていた。

わたしは、そうだな、朝からいいことしたな、と素直に思った。そうして、この善行が何か見返りを求めて行われたわけではないことが自分自身なによりうれしいな、とも思った。

その日、目的地で購入した勝馬投票券は特にわたしに勝利といくばくかの配当をもたらせてくれることもなく夕方にはただの紙切れと化した。

やはり、善行に見返りを求めることは間違っているのだ。

わかっていたけどあらためて確信した。

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