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山のあなた

山のあなたの 空遠く
幸ひ住むと 人のいふ

噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ

山のあなたに なほ遠く
幸ひ住むと 人のいふ


小学校4年生の時、担任の小寺先生(女性)に褒められたい一心で勉強に励み、ほぼオール5という成績を残した。しかし勉強したのは小中高あわせてその一年のみである。

その頃から自分の行動原理は何一つ変わっていない(好きな女性に気に入られたい)ことと、オール5ではなく「ほぼ」オール5という詰めの甘さが既に完成されていたのかと思うと愕然とする。

とにかく勉強というものを避けて通る人生だった。特に高校時代はまったく勉強をしなかった。しなかったのだから仕方がない。

授業中は、といえば窓の外をぼんやりと眺めているか、頭の中で音楽を鳴らして楽しんでいた。ただひとつ褒められるべきは決して居眠りはしなかったことだろう。

当時はまったく睡眠を取らなくても平気な性質であった。毎晩のようにテレビの深夜放送に耽溺していたが大丈夫。逆にみんなよく寝られるな、と不思議であった。

そんなわけで授業中、退屈ながらも起きていると時々、興味を惹かれる単語や地名、エピソード、脱線話に出会うことになる。

「ササン朝ペルシャ」
「シエラネバダ山脈」
「墾田永年私財法」
「デオキシリボ核酸」
「ミトコンドリア」
「仁和寺にある法師」
「スンニ派」
「ゾロアスター教」
「long long ago」
「サインコサインタンジェント」

まあ、それぞれ教科担当の口調が面白い、といったくだらない理由込みではあるのだが、意味もわからずこのあたりの単語の語感が気に入って、たびたび口にしていた。

山のあなたも、そのひとつである。

山のあなたの空遠く 幸い住むとひとのいふ

意味がわからないし、普段使っている文法からどう考えても逸脱しているように思えた。なんなんだ、山のあなたって。作者はカール・ブッセというらしいが、なんだか洋菓子みたいだ。訳者は上田敏。これも面白いな。うえだびん。びんて。

そんな風に正面ではないところから興味を惹かれていったのだが、驚いたのは授業が始まってそろそろ数名が突っ伏しはじめる頃。

山のあなたを朗読している“アベちゃん“こと阿倍先生が泣いているのだ。

泣きながら山のあなたを詠みあげているのだ。
しかも2回も。

特に

噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ

ここである。こらえきれない感情を隠そうとせず、実にエモーショナルな感じで歌い上げる、そんな感じ。

ぼくは戸惑ってしまった。どうしたらいいのかわからなくて、そわそわと周囲を見渡すと、半分以上が寝ていて、残りは受験のための内職に励んでいる。誰もアベちゃんの嗚咽つきの、感情のこもった朗読を鑑賞していないのだ。

その後もアベちゃんは溢れる涙を拭うこともなく、えー、この「山のあなた」はですねぇ、と詩の解説をはじめていった。ぼくは詩の意味などどうでもよく、ただただ生徒の前で詩を詠みながら泣くという行為を恥ずかしげもなく披露するこの現国教師の存在に圧倒された。

かくしてわたしが学生時代に得た数少ないボキャブラリーのひとつに「山のあなた」は加わることになったのである。


アベちゃんがなぜ、山のあなたを詠みながら泣いたのか。

いまならわかります。

おそらくアベちゃんは、幸せを探していたんでしょう。もしかすると恋人に振られたばかりだったのかもしれない。もしかすると女房が逃げてしまったのかもしれない。あるいは出世の道が閉ざされたとか、職員室でのけものにされていたとか、ゆうべのカレーがまずかったとか。

心が弱っているとき「山のあなた」はどこまでもせつなく、どこまでも優しく、ずっとずっと向こうにきっと幸せは待っているよ、と癒やしを与えてくれるでしょう。

いまならわかります。

アベちゃんのメンタルはそのとき弱っていたんですね。とても弱っていた。高校教師といえども人間です。人間なんです。

そしてぼくもいま、この歳になっておもうようにいかないことがたくさんあります。むしろ増えてきました。そんなときについ、エックスでつぶやいてしまうのです。

山のあなたの 空遠く
幸ひ住むと 人のいふ

いまでもこの一節を思い浮かべるとき、あのアベちゃんの涙が脳裏を過ぎる。

とにかく勉強というものを避けて通る人生だった。おかげで何度も痛い目に遭ったが、知らないことが多いということは新たに知る喜びがあるとも言える。なんてポジティブなんだ俺。

いま、ぼくは妄想の中で愛知学院高校の先生たちと楽しく議論を交わしている。

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