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全部を賭けない恋がはじまれば

ところで、全恋である。

『全部を賭けない恋がはじまれば』

著者は稲田万里。処女作とのことである。半ば強引に略すと処女である。今後どうするつもりなのだろうか。

それはさておき

全恋、かなり、ヤバい。

なにがどれぐらいヤバいのか、言葉を尽くしていこうと思う。

全恋はアヤシイ

まず装丁である。

なんだこれは、というのがはじめて見た時の正直な感想だ。ピンクである。ボテッとした唇のアップである。たらこのような下唇にアヤシクも真っ赤な口紅が押しつけられている。

なんだか直視してはいけないものを見ているような気がして慌てて裏返すと、小さなハートマークがずらりと並んでいる。表紙を開いてもハート。裏表紙を開いてもハート。いかん。これはエロではないか。

私はしばらくの間、書店でこの表紙を目にするたびドキドキしていた。もしこの表紙を品行方正な中学生が見たらどうなる。好奇心旺盛な小学生が手にしたら。

エロがよい子に与える心拍数の急上昇。間違いなく病みつきになるだろう。こっそりベッドのマットの下に隠し持つキッズが全国に急増するはずだ。そうして夜な夜な引っ張り出しては眺め、うっとりする時を愉しむようになる。

キケンだ。キケン過ぎる。

そして中身である。

イケナイ予感を抱きながらページをめくると、なんとまあ、赤裸々なこと。本文内に「節句ス」という単語が、驚くなかれ、20回も登場するではないか。もちろんこの中には「節句スレス」や「節句スフレンド」といった傍流も含むのだが。

しかしどうだろうこの頻度。たった185ページで20回。およそ9ページに1回「節句ス」と叫んでいる。奈良林祥以来の快挙だ。

ちなみにこういった言葉は面白いことに「本来、あってはならない」はずの場で発するのが最も楽しい。

たとえば学校の教室。あるいは研修中のオフィス。はたまた永平寺での坐禅中。そうした場で口にする「節句ス」や「同兄」と言ったワードの鮮やかな輝きと言ったら!

夫、話が横道にそれてしまった。こんなふうに誤字をしたり、余談に熱がこもってしまうのも全恋のアヤシサのなせる技である。

とにかく全恋はアヤシイ。イケナイ魅力に溢れているのだ。

全恋はセツナイ

徹頭徹尾個人の感想で申し訳ないのだが、全恋は令和版『なんとなく、クリスタル』と言っても差し支えないのではなかろうか。

田中康夫の不朽の名作『なんとなく、クリスタル』は都会で暮らすスノッブな女子大学生の性と生を赤裸々に綴った問題作であった。巻末には少子高齢化を示唆するデータも載っていて、ヤッシーも一橋大の頃はなかなかに鋭かったんだなと思ってしまう。

女子大生兼ファッションモデルの主人公がミュージシャンの彼がいるにもかかわらずディスコで引っ掛けた男子大学生と節句スしたり、でも絶頂を感じなくてやっぱり彼がいいわ、みたいなことを思ったり。

頻度こそ全恋に及ばないものの、節句スの描写は全恋以上になまなましかったりする。そういった点から私は両作品に謎に共通項を見出しているのである。

蛇足ではあるが『なんとなく、クリスタル』は『なんクリ』と略されていた。

そのあたりにも通じるものがあるだろう。

ただし、なんクリは設定がスノッブすぎてどうにも感情移入しにくい。主人公は青山の高級マンションで彼と同棲しているだけでなくモデルの仕事で毎月40万円の収入があるのだ。彼氏も大学生なのにプロのミュージシャンだ。湯水のようにブランド物を買い漁ることができている。旨い飯を喰い、行きたい時に行きたい場所へ行ける。

一方、全恋の設定はこれがとんでもなく染みる。主人公はいたって普通の女の子。専門学校生だったり、場末のフーだったり。好きな男のためにポリ袋に入れた鶏肉を揉む一途さを持っている。

物語の舞台も高円寺や錦糸町や船橋や池袋だ。ラブホテルもやたら登場する。ラブホの描写を目にするたびに、あの時間感覚が消える密閉空間を思い出すことができる。

どれもどこかで見たことのある風景だ。

そして、冒頭からしばらくの間、主人公は弱い。社会に対して、男に対して。

それが章が進むにつれ、きちんとしていくのだ。きちんとしていくのだ、とか書いたがそれでもなんクリのスノッブぶりには遠く及ばない。

だから読み手は安心して主人公に自分を重ね、委ねられるのだろう。

ああ、なんか、わかるなあ。

読みながら、自分の過去のセツナイ思い出とどこかリンクさせてキュンできるのだ。

とにかく全恋は、セツナイのである。

全恋は、アブナイ

かつて、開高健は言った。

「その作品に“鮮烈な一言半句“はあるか?」
『佐治敬三と開高健 最強のふたり』北康利 著

大開高が重んじていたのは表現者としての覚悟であり、それゆえに「筆舌に尽くせない」「言語に絶する」と言った表現を“逃げ“だとして嫌悪していたという。

だから文学賞の受賞作品を選ぶときの基準が上記引用となるのだ。

ちなみに一言半句とは「ほんの少しの言葉」「わずかな言葉」という意味である。また開高健がこだわったのは言い回しのことではない。

それはうまい言い回しのことではない。作者がその作品の中に、みずからの思いのたけを呪いのようにして塗り込めているか否かを彼は問うたのだ。
『佐治敬三と開高健 最強のふたり』北康利 著

さて、全恋はどうだろうか。
鮮烈な一言半句はあるだろうか。

私は、無知無学浅識の身でありながら、それらを一切合切棚に上げて言ってみる。

全恋の中に、鮮烈な一言半句は、ある。

第四章「上京」の最終編「ずっと先まで歩こう」の最後。それまでは登場人物の台詞以外は全て「だ、である」調、あるいはカジュアルな話し言葉で語られてきた。

しかし143ページの11行目、それは不意にあらわれた。

「現実は理想とリンクせず、頭の中での想像は膨らむばかりで、これこそ贅沢な、待ち望んでいた不足感と思ったのです。」
『全部を賭けない恋がはじまれば』稲田万里  著

これだけを抜き出すと、どうということもない一節かもしれない。しかし、この短編集を全て読んでみればわかるはずだ。

「です。」という文章の止めは、後にも先にもこの箇所だけなのだ。

なぜここだけ。全恋にはしっかりとした編集が入っている。である以上、ここにはつくり手なんらかの意図や狙いがあるはずだ。しかしそれが何かわからない。わからないのだが、ずっと私の心をとらえて離さない。

私はこの一文に鮮烈な一言半句を見出さずにはいられなかった。同時に、この作者の向こう側にあろうことか太宰を見てしまったのである。

もしかすると全恋は、私たちが想像する以上にアブナイ作品なのかもしれない。

全恋は、アブナイ。末恐ろしい才能の種がそこに、あるのだ。


おわりに

かつて、秋山晶は言った。

「デビューするのだ、デビュー感を持ってデビューしなければスターにはなれない」

稲田万里は全恋がデビュー作である。繰り返すが処女である。

これ以上のデビュー感あるデビューはあるだろうか。彼女はこの作品を「怒り」で書いたという。そしてそれはまだ大量にあり、これからも書けそうだと。

私たちはまだスターになっていない稲田万里を見ているのだ。

もういちど、こんどはかつて秋山晶が書いたコピーを引用しよう。

…ing   出来事には次がある。

楽しみである。

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