見出し画像

【広告本読書録:114】名作コピーの教え

鈴木康之 著 日本経済新聞出版社 刊

『名作コピー読本』『新・名作コピー読本』でボディコピーの重要性と奥深さ、さらには合理化・効率化・管理化が進む広告業界全体への警鐘を鳴らした鈴木康之さんの、広告コピー講座本最新版です。

最新版とはいえ、すでに初版から7年が経過しています。

鈴木康之さんは過去から一貫してボディコピー、つまり比較的長い文章をしっかりと書くことを提唱してきました。またコピーライターとは企業の代弁者たる職人というスタンスを頑なに守る原理主義者でもあります。

その、信仰にも近いボディコピーへの思い入れは、糸井重里さんから『ミル・ヤスカラス』とコピー理論の対戦相手扱いされたり、あるいは西田制次さんからは自分たちの仕事が資本主義における洗脳の片棒を担いでおきながら「職人」スタンスはいかがなものか、とディスられたり。

でも求人広告を主戦場とするキャリアが長かったぼくは、全面的に鈴木さんの論を支持してきました。求人広告は他の広告と違って精読率の高い広告です。それだけにしっかりとしたボディコピーや仕事内容の説明文が書けなければ仕事として成立しないからです。

また、広告クリエイターであればよだれがでるほどチャレンジしたい駅貼りポスターのように、ビジュアルとセットでコミュニケーションするような「キャッチ一発」で成立させるシチュエーションはありません。特に媒体に属する制作マンには一生努力し続けてもその夢はかなわない。

努力する場所が違うというものです。

(例外としてトヨタがエンジニア募集の駅張りポスターを出しました。しかしあまりにもレアなケースですのでノーカウントにします)

しかし求人広告にしか自分の生きる道を見いだせないクリエイター(ぼくですね)や、その道を歩んでいくうちにその面白さや奥深さ、重さに気づき、ハマっていったクリエイター(ぼくですね)にとっては、ボディコピーの重要性を時にロジカルに、特にエモーショナルに語る鈴木さんの著作は自分たちの制作物が間違っていないものである証明として、心の拠り所にすべきものでした。

それが『名作コピー読本』とそれに続いて再編集された『新・名作コピー読本』です。

特に記念すべきことでもないのですが、このぼくの『広告本読書録』でもいっとうはじめの一冊目として取り上げさせていただきました。それぐらいバイブル。

そりゃもう、ぼくも穴があくほど読みました。本文中の鈴木さんの教えにしたがって一文字ずつ、ゆっくりと味わうように活字を追ったものです。

ある時は1,200という規定文字数の、最初の1文字が出てこずに、気が狂ったふりをしよう!と追い詰められた明け方に。

ある時は何回提出してもボスの手のよってまっ赤になって返ってくる原稿にほとほと嫌気が差した真夜中に。

ある時はどんなに教えてもボディコピーが書けるようにならない部下に手を焼く昼下がりに。

そしてその度、そうかこうすればいいのかとか、なるほど俺にはこれが足りなかったんだなとか、よしこうやって教えてみようというように、いつも何かのヒントやきっかけをくれた。

それが『新・名作コピー読本』でした。

だから今回の『名作コピーの教え』も、そんな一冊になる。そう期待してページをめくりました。なんたって470ページの大作。前著で取り上げられた広告から時を経て、リアルタイムで接してきた広告も多数盛り込まれています。

しかも後半では具体的な文章トレーニング法や鈴木式ドリル、チャート式の文章採点法もレクチャー。まさに新時代のバイブルにふさわしい一冊になるはずでした。

いま、はずでした、と書きました。

なぜ、言い切らないのか。

惜しいのです。

ある一点を除けば、その資格を充分すぎるほど有する本なのに。

今回は読書録の場を借りて長年の鈴木さんファンゆえに、あえて「これはどうなんだろう」という箇所の指摘をしたいと思います。

なにがどうなっているのか

問題の箇所は『レクチャー2 コピー表現のクオリティ』という章にあります。冒頭から魚住勉さんの作品や前著でも取り上げた土屋耕一さんの名作「なぜ年齢をきくの?」という伊勢丹の広告を取り上げて、その表現の深淵なる味わいを徹底的に分析しています。

そしてレクチャー2の締めくくりに、ぼくも心から尊敬する岩崎俊一さんが手掛けた積水ハウスのイズ・ステージという戸建て住宅の新聞広告を取り上げます。

ここでの教えは「手紙のつもりで書いてみるといい」です。その教えに到達するために岩崎さんの手紙文体のコピーが紹介されたわけです。

まずはその新聞広告コピーを全文引用します。

土曜のイヴは六年来ない。

今年のイヴは土曜日ね、という娘の声に、それじゃ珍しく一家五人がそろうかもしれないわね、と女房が思わぬはしゃぎ声で答えています。そんなやりとりに、ぼくはちょっと胸をつかれる思いがします。そうか。女房はそんなことを願っていたのか、といまさらながらに気づくのです。ここ数年、子どもたち(といっても長男は二十二歳ですが)の成長を見ながら、それを喜ぶ気持ちの裏側で、どこかさびしい思いがしていたのは女房だけではありません。最近めったにないことですが、夕食に全員がそろい、冗談を言いあっている時など、ふと子どもたちの成長がピタリととまり、ずっとこのままでいられたらなんて君に笑われそうな空想をしたりすることもあります。君とぼくが遊び歩いていた大学生の頃、ぼくたちの親も、そんな思いがしていたのでしょうか。また一年が暮れていきます。今年も、お互い元気で何よりでした。娘によると、今度の土曜のイヴは六年先になるそうです。その間、君やぼくの家族に、どんな変化がおきているのでしょうね。せっかくのカレンダーの心配りです。今年のイヴは外に飲みに行かないように。お正月は、全員でわが家に来てください。街の財産、でもある。イズ・ステージ
鈴木康之著『名作コピーの教え』(日本経済新聞出版社 2015年)P52~53

いま、このコピーをタイプアップしていても惚れ惚れするほどの名文です。こういう名作に触れると、いわゆる写経もタメになると確信できます。

一度読めばわかりますが、これはイズ・ステージで新築の家を建てた「ぼく」が大学時代からつながりのある親友「君」に向けて書いた手紙、という設定になっています。

さらに終わりの数行で、新築したわが家のお披露目に親友の家族を呼ぶ招待状であることもわかります。

鈴木さんはここで「人生ようやくにして築いた自慢のわが城に、それも、「街の財産、でもある」自慢の家へ。」と補足しています。

さらに鈴木さんの解説は続きます。これが、ぼくの中に小さくない「?」を投げかけます。

この一文の伝えたいことは、
「ようやくにして家を建てました」に新築通知
「ぜひ一度ご家族でお越しください」の社交辞令
です。そのことを早く伝えたいのに、そうはすぐには書かない。そのわけは、気持ちです。

「自慢の城を持てた」
「クリスマス・イヴにお披露目したいのでぜひご家族おそろいでおいでください」なのですから。

自慢の家なのだけれど、「自慢の」という語は一度たりとも使っていません。そのかわりにお招きの社交辞令をドラマチックなもてなしになるようなプランを考えた。それが「クリスマス・イヴ」。
鈴木康之『名作コピーの教え』P53~54

ぼくは、これを読んだとき、「あれ?」と思いました。「そんなこと書いてあるっけ?」と。

不思議に思ったのは2点。ひとつはさきほどのボディコピーのどこからも「自慢」は感じられないのに、妙に強調してあるなということ。自慢したいことを自慢という言葉を使わずに表現している点を評価したいのかな?

まあ、それはわからなくはありません。いささか深読みすぎるきらいはあるけれど。

あきらかにおかしいのはふたつめの不思議。「クリスマス・イヴにお披露目したいのでぜひご家族おそろいで」のくだりです。そんなことはどこにも書いていない。

岩崎さんのボディコピーには土曜日のクリスマス・イヴは6年後までないわけだから「君」も出かけないで家族と過ごせよ、と書いてあります。

そしてわが家へはお正月に、家族揃って来てください、と書いてある。

なんならそこには「君もイヴを家族で過ごして一家団欒なあたたかい気分のまま、お正月にぼくの家に来てくれるとうれしい」という意図すら感じます。書いてないけど。

もう一度、コピー本文に戻って読み返してみてください。

娘によると、今度の土曜のイヴは六年先になるそうです。その間、君やぼくの家族に、どんな変化がおきているのでしょうね。せっかくのカレンダーの心配りです。今年のイヴは外に飲みに行かないようにお正月は、全員でわが家に来てください。
鈴木康之『名作コピーの教え』P53 太字筆者

それがなぜ「クリスマス・イヴにお披露目したいのでぜひご家族おそろいでおいでください」になるのか。

さらに鈴木さんは

終わりまであと四行のところまで読んできて、私の唸りは声になりました。ふつうなら「ぜひお越しください」と書く招待のモチベーションを、

せっかくのカレンダーの心配りです。

と書くセンス。なぜこんなにお洒落な新築通知とお招きの演出を考えたのでしょうか。あなたにはわかりますね。「街の財産、でもある」ようなイズ・ステージの広告コピーのトーン・アンド・マナーだからですね。
鈴木康之『名作コピーの教え』P54~55

ぼくは、違うと思います。岩崎さんのコピーの「せっかくのカレンダーの心配りです。」はふだんバラバラになりがちな家族が一同に会することが可能な土曜日にクリスマス・イヴが来たことを表しているのだと思うのです。

決して招待のモチベーションなんかではないはず。

どうでしょうか。ぼくの解釈は間違っているのでしょうか。読み間違い、あるいは思索が足りない?もちろんその可能性だってあります。

なぜそんなことになったのか

ここからは考察です。
鈴木さんが読み間違えている、という仮定で話を進めますのでご了承ください。もしぼくが間違っているのなら以下は無意味な文字列です。

あれほどボディコピーを一文字ずつゆっくり噛みしめるように読め、と説く鈴木さんが、なぜこのような読み間違いをしたのか。

いや、読み間違いなんて誰でもあるし、もちろんぼくも気づいていないだけでほぼ全ての書籍で間違った解釈をしている危険性をはらんでいます。

だけど、よりによって鈴木康之さんです。

しかも、鈴木さんが敬愛する岩崎俊一さんのコピーで間違うなんて。

にわかには考えにくい。

しかし、それでも思考を止めずにつきつめていくと、もしかするとの仮説が浮かび上がってきました。

【仮説1】商品特性とターゲット
イズ・ステージはハイグレード製品です。そうじゃなくても戸建ての家なんてものは、いくら広告出稿時がバブルまっ盛りだったからといえど、一般庶民には高嶺の花。誰もがおいそれと手を出せるシロモノではありません。

富裕層ならともかく、フツウのサラリーマンには無理。大手企業で出世競争をくぐり抜け、50代で部長クラス。このあたりがターゲットだと鈴木さんはお考えになったのではないか。それが匂う箇所を引用します。

家族たちの喜びまでを、書き出しの三行の情景描写で表現しています。さらに私が唸ったのは、その中にさりげなく書き込まれた「珍しく一家五人がそろう」の一言です。長男が二十二歳ともあります。父・私はまもなく五十歳になるでしょう。これまではイヴもなく三連休もなく、仕事とそのつきあいを優先させる立場であり、生活であった人なのでしょう。「ようやくにして築いた城」と書かなくてもその感慨はイズ・ステージのターゲット読者ならよく分かります。
鈴木康之『名作コピーの教え』P54

ここから読み取れるのは、ターゲットがイズ・ステージを手にいれるまで家庭を顧みることもできず相当な苦労を重ねてきた人で、念願かなってようやくわが物になったことに深い喜びを感じている、ということ。

そうだとすると、鈴木さんの解説の中でひとつ目に不思議に感じた、やたら「自慢の」という単語が連発するのもうなづけます。「自慢の城」「自慢の家」「ようやくにして築いた城」これらの言葉はコピーにはないが、解説の中では頻繁に見受けられます。

上に引用した書き出しにも注目してください。「家族たちの喜びまでを、書き出しの三行の情景描写で表現」とあります。

しかしぼくはそうは思えません。コピー本文の書き出し三行は、単純にクリスマスが土曜に重なることへの期待感を語っているだけにすぎない。そのやりとりは続く女房と自分の心情がいみじくもシンクロしたことへの導入として機能していると読み取れます。

このあたりに鈴木さんのミスリードの要因があるのではないか。

【仮説2】広告ビジュアル
もうひとつの仮説は、もしかするとビジュアルにひっぱられているのかもしれない、ということ。

シンプルなレイアウトの中央に配された写真は、イズ・ステージであると思われる戸建て。季節は冬の夜。星空の下、暗闇にポッと明かりが灯る家。

横に大きく配置された「土曜のイヴは六年来ない。」というヘッドライン。瞬間的には「あ、クリスマスなのかな」と思ってもおかしくありません。

その印象が刷り込まれたままボディコピーを読むと、あるいは、という気もしてきます。

が、これら仮説はあくまでぼくのつたない仮説にすぎません。単なる思い込みである可能性のほうがはるかに大きいです。

なぜこんなことを書いているのか

ここまでで5500文字超を費やしてしまいました。もう終わりますので最後まであと少しお付き合いください。

なぜぼくがこんな重箱の隅をつつくようなことをネチネチと書いているか、というと、鈴木さんの一連の著作は後年に遺すべきコピーの教科書だからです。それだけの文化的価値があり、また資料であり史料でもあると言い切れるからです。

だとしたら、あきらかに疑問に思ったことは、きちんと声をあげておきたい。

さらにさきほども書きましたがぼくも岩崎俊一さんのコピーの信仰者です。それこそ積水のシリーズはコピー年鑑に穴があくほど読み込んできた、その他大勢のひとりです。で、ある以上、もしこの解説が誤りであったなら、それは正しておかねば、という思いがありました。

ちなみに、著者またはその周辺の関係者、あるいは出版社側がとっくに気づいていて、重版の際に訂正を加えているのではないか、と思い書店に足を運んだのですが、書棚に並んでいた一冊はぼくの手元のものと同じく1刷でした。もしかして改稿された本をお持ちで「なおってるよ!」という情報をお持ちの方がいらっしゃったら教えてください。

この小さな疑問の声が、なにかのきっかけで鈴木康之さんご本人または出版関係者の耳まで届かなくてもいいと思っています。

ただ、世の中の誰一人も気づかず、スルーされてしまうことは避けたかったんですよね。

そして、ぼくの説が間違いだったときのために(その可能性はおおいにある)先にお詫びを申し上げます。ごめんなさい。先手必勝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?