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天、川、歌(10)

 第10話 禊殿

 翌日7月6日。母の命日である。朝早く目を覚ました寿里亜は、近所へ散歩へ出た。今日は宿の人にしっかりと禊殿の場所を聞いて、そこまで行くつもりだ。まだ6時前だが、もうすっかり明るい曇り空である。近所の家々の脇を伝って、奥へ行く。本当に住んでいるのだろうかと思うくらい、生活音が聞こえてこない。しんと静まり返った村である。小径も、傍らの草花も、露にしっとりと濡れている。湿り気を含んだ柔らかな空気だ。肌寒いくらいだが、朝にはちょうどよい。道路下の川に沿って、小径を歩く。川面がキラキラと細かい光を放って、ザーッと大きな音を立てながら流れていく。カーブを曲がり切ったところに、立派な石囲いが見えてきた。禊殿のようである。まだ新しく見える立派な社である。寿里亜は正面に周った。朝の新鮮な空気に、神聖な気が漂っている。「もっと、神様に甘えていいんだよ、頼っていいんだよ・・」
 神様に頼る、甘えるということはどういうことだろう。よく、神社でお賽銭を入れてお参りするように、願い事をするということなのか。神頼み、という言葉もあるのだが、願い事をしたからといって、神様はそれを叶えてくれるというのだろうか。今、自分が神様に願うことは何だろう。社殿に正対してしばらく目をつぶっていた。「母に、もう一度だけ会わせてください。」寿里亜がやっと神頼みしたのはこのことだった。いささか不可能なことを頼んでしまった、とちょっと苦笑いした。返してください、ではなくて、もう一度会わせてくださいということは、亡くなったことは少なくとも受け容れているんだなと分析していると、背後から足音が近付いてきた。振り返ると、温泉で出会った2人がカーブを曲がってやってきた。2人も寿里亜に気付いた。笑顔で挨拶を交わす。
「ここ、すごい気を感じませんか。」ひとりが寿里亜に言う。言われてみればそんな気もしないでもないが、確たるものはなかった。あいまいな表情を浮かべる寿里亜にこっちへ、と手招きする。
「この石ですね。」社の側方に祀られている縦長の石に、強い気を感じるという。そして、お社の後方のお山全体に強い気を感じるという。
「天河神社の御神体は、このお山なんです。ですから本殿の場所よりもここは強烈な気を感じます。敏感な人では、強すぎて体調が悪くなる人もいるのだそうです。」
そう言われて、寿里亜は社殿の背後のお山を仰ぎ見た。人によっては、感じたり見えたりがあるのかもしれないが、寿里亜にはお山があるだけだった。
 ふたりはここへ瞑想しに来たのだという。寿里亜が気を遣ってこの場を離れようとすると、
「大丈夫です。何も邪魔にはならないんですから。よければ御一緒にいかがですか。」と言う。
「昨日、宮司さんが言われていたメディテーションですね。私はやったことがないのですが・・」寿里亜が言うと、
「特別なことは何もないのです。ただ目をつぶって座っているだけです。昨日、神事のときに皆でやったように。」と言って、玉砂利の上にそっと腰を下ろす。
 それでは、と寿里亜も少し離れた場所に腰を下ろした。目をつぶる。そうすると、鳥の鳴く声が聴こえてきた。明るい声だ。それから、川の流れていく音だ。細かく連続して、どこまでも続いていく。時折、サーッと木の枝や葉の擦れる音がする。眼をつぶって、つぶった瞼の裏の色を見る。最初、黒色一色だったのが、だんだん明るい黒からレンガ色に変わり、明るい緑色になって一定した。寿里亜はその緑色をじっと見ていた。
 玉砂利が踏まれる音がして、ふと目を開けた。ふたりが帰るところだ、時計を見て驚いた。もう30分は座っていたことになる。すぐに立ち上がったりすると、危ないこともあるから、しっかり目が覚めて戻ってからね、とふたりが教えてくれた。うなずいて、しばらくそのまま座っている。さきほど見えていた色より、明るくて、色が濃い。光がキラキラと輝いている。お山の木の葉っぱがひとつひとつ、話しかけてくるようだった。寿里亜は立ち上がって伸びをした。名残惜しがったが、毎朝、本殿で行われる勤行に参列するために一礼して禊殿に背を向けた。その刹那、ポンと言葉が降ってきたのである。「今晩、ここで」大きな響く声だった。寿里亜は驚いて振り返った。気配は何もない。しかし、確実なものだったのだ。「今晩、ここで」
 来た道を戻りながら寿里亜は思った。ここは、不思議なところだ。自然物が生きているように感じる。それでいて、しんとした静けさを感じる。まるで全体が水の底に沈んでいるようだ。空気を構成する分子が密な感じだ。あの声の主は誰なのだ。聞き覚えのある声ではない。はじめて聞く声だ。男性のようでもあり、女性のようであもあった。性別はなんとも言えないのだが、空耳ではない。はっきり聴こえたのだ。
 本殿に帰ると、朝の勤行がもう少しで始まる頃だった。寿里亜も人に混じって椅子に腰掛けた。神様に供物が捧げられ、太鼓が響き渡る。祝詞が始まった。  
 寿里亜は、今晩、禊殿に行く。考えて決めたというより、決まっていたものに沿って動くという感覚だ。今日は月曜日。同宿していた他の2組は去り、泊まっているのは寿里亜だけになった。昨日と同じように夕方、温泉に行った。昨日より人が少なく、外来者が減って村の人たちが湯を使いに来ている。この柔らかい湯がこんこんと湧き出るのに浸ると、尽きることのない自然の恵みを感じる。全身の細胞が恵みを取り入れて温かさに包まれた。
 ひとりきりの夕食を済ませると、宿の人に声をかけて部屋に戻った。春に着ていた服を持ってきたのだが、ここでは夕暮れ時にでもなると冷えてくるので、着込んでいてちょうどよい。寿里亜は上も下も温かい服を着て外へ出た。まだ、日が落ちた後の薄明かりが残っているが、ほどなくしてとっぷりと暮れた。街灯は点いているが、いつもの街の生活に比べると断然、暗い。禊殿への道を辿った。平生が臆病な寿里亜だが、不思議と怖さは感じなかった。今日も曇り空だが、大きな丸い月が低い空に浮かんでいる。雲に霞んで、ぼうっと見えている。禊殿までやってきた。目が慣れたためもあるが、月の薄明かりに浮かんで、くっきりと見えている。

 第11話につづく

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