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天、川、歌(6)

 第6話 決意

 そんなこともあって、寿里亜は、朝、誰もいない事務所でひとりで仕事をするのが好きだった。ゴールデンタイム、と自分で呼んでいる。電話も鳴らない。誰かに何かを尋ねられることもない。一番重要で、集中したい仕事はこのゴールデンタイムに持ってくる。そのほうが間違いがなく、仕事がよく進んだ。1時間早く始まる勤務は、定時なら1時間早く終わり、その分、小西と鼻を突き合わせる時間も短くて済む。
 ちょっと無理があるよね、と寿里亜は考えた。小西さんはここへ異動するまでは、出向とはいえ課長という肩書で管理的な仕事をしていたのだから。今の仕事とは第一、質が違う。さらに若年者から仕事を指図される。何でまた、小西さんにこの部署のこの仕事なんだろう。私だって、小西さんにふさわしい仕事をしてほしい。でもこれしかないのだから・・だけど、拒否する前に、やってみたっていいじゃないの・・とにかく、あの仏頂面を見ていたら、職場に楽しい雰囲気が作れないよ。それにあの喋り方。全部広島弁、というのも気に入らなければ、語尾を変に高く上げたキンキン声も耳障りだ。あ、いけない。こんなふうに考え出すと、まるで自動運転のように頭の中でおしゃべりが始まって止まらない。なんでまた、ひとりでいる楽しかるべき時間に小西さんのことなんか考えなきゃならないの。貴重な時間を、あっという間に浪費してしまう。
「おはようございます。」
いつもの時間に、いつもの小さい抑揚のない挨拶。小西がやってきた。寿里亜も「おはようございます。」といつもの挨拶。
ところがいつもと違って小西が少し近づいてきて言った。
「足は、どう?」
寿里亜は慌てて、「もう、だいぶ痛みが和らぎました。」と応えた。
「そう。先週はかなり痛そうだったから。」
寿里亜は、何だかほっとした。この水疱も、コミュニケーションの種になるのなら良かったかもしれないとちょっと心の中で苦笑する。
「小西さん、来月の6、7日ですけれど、私お休みをいただきます。」
「あ、はい。」
咄嗟に休みを申告してしまった。計画を立てていたわけではないのだが、何となく言い出しにくいと思っていた休みの申告は、あっけなく終わってしまった。天河神社へ行こう。寿里亜ははっきりそう思ったのだ。
 今年も地域で行われる災害犠牲者の追悼式の案内が送られてきたが、寿里亜は近所の人たちに会うのが重苦しく、昨年も行かず、今年も行くつもりがなかった。実家のあった辺りには、ずっと近付いていない。それでも、災害から2年が近づいてくると、ニュースの地方番組を毎日見るようになった。もとの地域のことは知りたいが、実際の目では見たくない。テレビの画面で見ると、そのリアル感がいくらかやわらぐような気がした。
 その日も、豪雨災害から2年、という特集を見ていた。あ、おじちゃん。寿里亜は懐かしい顔を発見して声を上げた。近所に住んでいたおじちゃんだ。おじちゃんといっても、もうおじいさんといっていい年齢だが、当時まだ近くの工場に勤めていて、朝夕、きっかり時間どおりに出かけて、帰ってきていた。おじちゃん一家も同じように被災して、おばちゃんと寿里亜より5つ年下のアキちゃんが亡くなったのだった。痛ましくて、その後どうしているだろうかと思っていた。追悼式で手を合わせておじちゃんは、「元気でやっとるよ」と妻と子に語りかけたと話している。寿里亜は食い入るように見た。なんてさっぱりしたキラキラした眼をしているんだろう。番組は、おじちゃんの日常を丁寧に追っていた。自らも土砂の下敷きになって九死に一生を得たおじちゃんが、利き手が不自由になってしまったことを伝えている。それでもリハビリに懸命に取り組んで、少し動かせるようになったという。今は好きだった絵に不自由な手で取り組んでいて、絵を描いている時は、妻と子が一緒にいるような気がする、と言う。柔らかな表情だった。「少しでも多くの人に恩返しをしたい」、と話すのを見て、寿里亜は思った。どうしたらこういう顔になれるんだろう。家族を2人も亡くし、自らも障害を負いながら、感謝を口にできるなんてどうして。寿里亜が見た限りでは、おじちゃんは不幸そうには見えなかった。むしろ、幸せそうだったのである。寿里亜は自分の顔を鏡に映してみた。ため息をついて、鏡を伏せた。あのおじちゃんに引き換え自分は、何をやっているんだ。なるべく何も感じないようにして、時間を過ごしただけか。整理も何もついておらず、一歩も進んでいないように思える。だめだ、だめだ。本当に天川行きを区切りとしたい。そう決めた。

 第7話につづく

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