直太朗20周年に寄せて②御徒町凧のこと

直太朗の20周年を思い出すと、当たり前のように詩人御徒町凧の存在がある。
バンド時代の輝いていた当時の姿を少しだけ知るものとして、歌い手としての姿もあったことを深い記憶の中にとどめている。

①で前回触れた気志團の綾小路翔さんのラジオにKAI'Nとして直太朗と度々登場していたのが、知るきっかけとなった。
前回書いた直太朗のレギュラーラジオにゲストとして来たこともあった。
そこで生で聴いた直太朗とのユニット人類懐炉の「ハーモニー」「駅前のブルース」は、路上時代を知らない私にとって、貴重では言葉が足りないくらいの出来事として今も大切に記憶している。
その後バンドは直太朗がさくらでブレイクした2003年の10月に活動停止している。平行して詩人としての存在もあったことは、誰もが知っているだろう。

活動についてというより、情報として書いていくのに、抵抗があるので、
今回は活動を追ってきた個人的な想いを書いていきたい。

バンドが事実上の解散をした後、当たり前だった個々の活動が、
直太朗のプロデュース的な立場に変わってきた。
最近まで当たり前のように認知されていた二人関係性に。

バンドが解散してしまった喪失感。この先どうなってしまうのだろうという感覚と同時に御徒町凧という人をどこまでも応援していこうと決意したのもこの頃だった。
本名で読んでくれていいと言ってくれたのも大きい。
人生を丸ごと応援する、年々その気持ちが強くなった。

詩について、興味を持ったのもこの出会いが大きかった。
文章をこうして書くこと、言葉を綴ることの勇気をくれたのは、
御徒町だった。

楽しいことと悲しいこと、その両方を感じてきた。
身を削って創作する満身創痍のその姿は、
会うたびに感じていたし、見せないようにしているようで、
ファンの私には、痛くも逞しくうつった。
悲しみの時には、生きることを綴り、生命を詠った。

彼の日々に寄り添う、風のような詩。
当たり前のことをそうじゃないと教えてくれる詩。
言葉で伝わらない行間で伝える宇宙への愛。

詩のことを感想として書くのは、難しく、言葉にすると意味がなくなるとさえ思う。
でも、綴られた言葉で、私のこの20年の日々の日常が詩で溢れていた。
それだけは、間違いない。
彼の言葉があったから、ポエジーを感じさせてくれ続けたから、
今を生きていてくれるから、今の私がここに在る。

今、新しい形が御徒町と直太朗の中に生まれ、ふたりはそれぞれの道を
今までも今も歩んでいる。
共に創作の形は変化したけれど、表現者としての魂の根幹は変わっていないように思っている。
御徒町が魂を削って生み出した物語が、今の直太朗には理解できるようになったようにも感じる。
きっと誰よりも感謝しているのは、直太朗だと思うし、
御徒町が感謝しているのも直太朗にだろう。
見えないわからないファンにとっても
この20年、いろんな感情になり、愛や悲しみ、喜び、
様々なことを活動を人生を通して教えてくれた。
自分の中の人生はまた別のものとして、生きているが、
共にあった20年だった。

これからも御徒町凧を一人の人間の人生を応援していきたい。

直太朗に関係のないことのように感じた方もいると思うが、
これは、あくまでも私個人の20年の話。

二人の作品たちに日々は彩られ、時にモノクロになりながらも生きていく。
そのことに感謝を忘れずに、自分の人生を歩んでいく決意がある。
いつか、また語り合える日が来たら、積もった人生の真理の話、
これからのことの話をしたいと思っている。

直太朗20周年に寄せて、森山直太朗、御徒町凧への無期限の愛をこめて。

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