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『底辺への競争 格差放置社会ニッポンの末路』

『底辺への競争 格差放置社会ニッポンの末路』

著者:山田昌弘
出版社:朝日新聞出版(朝日新書)
発行年:2017年10月30日

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(内容紹介)
「隠れ下流」化した中年パラサイトシングルが指し示す
日本の未来像とは――。

世界規模で繰り広げられる経済競争によって、労働者の賃金も社会保障も、最低水準まで落ち込んでいく……
それが「底辺への競争」である。
そのような競争が日本で始まったのは、1990年代。過熱する「就活」も、ブームになった「婚活」も、保育園探しに奔走する「保活」も、底辺への競争の一部だった!
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 底辺に落ちないための競争……言い得て妙だなとすごい思いました。
 色々と心に刺さりました。例えば、次の文章です。

〈人並みの生活を人並みだと思うこと、自分が中流だと思う生活を維持することが日本人にとって至上命令です。だからこそ、「底辺への競争」――つまりは、逃げ切るための競争――が過熱し、多くの若者が「就活」や「婚活」に必死になるのです。〉(p.78)

 私自身はそうかもしれないと結構考えさせられました。人並みの生活をすることが、確かに自分の人生の上位を占めているかもなあ、と。私が勤めている会社が倒産してしまったらどうしようとか、あるいはクビになって失業したらどうしようとか、時々考えてしまうときがあります。複業しないとなあ、とも。
 また、山田さんが「下流」について定義していました。〈最低限の生活はできるけれども、いまよりも裕福になること(上昇移動=中流になること)が期待できない状態〉(p.13)のことを指すそうです。この定義は、なかなかに深いです。改めて実家での暮らしのことを考えると、中流家庭のような暮らしだったことに気づかされます。会社に勤めて一人暮らしを始めたり結婚生活を始めたり……そういう節目になると、〈いまよりも裕福になること〉が可能なのか、むしろそれより下がってしまっているのではないか、もしくは表面的に裕福そうに振る舞っているだけで実は貧乏ではないのか――考えが頭の上でぐるぐる回っては思考停止の繰り返しです。
 社会がなかなか変わらないなら、自分(たち)で何とか逃げ切るだけ、と非情にも思う今日この頃でした。

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