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ランズボローメイズという巨大迷路があった

仕事の帰り道、ふとランズボローメイズのことを思い出した。ランズボローメイズとは、広い敷地を利用して作られた巨大迷路、それも昭和末期~平成初期に流行ったアミューズメント施設だ。たしか。

私の実家の近くにもあって、小さい頃に親に日曜日などに何度か連れて行ってもらった記憶がある。祖母とも行ったように記憶している。友達とも行った。

茶色だか、べんがら色に染められた板で仕切られた通路を進んでいくうちに、自分がどちらを向いているのかなどすぐにわからなくなる。

楽しい施設だ。けれど、私はいつもそこで確かな恐怖を覚えていたのだと思う。はぐれて独り、親にも友人にも見つけられなかったら——もちろん何の心配もする必要はなかったのだが、小学校にあがるかどうかの頃の自分に余裕はない。

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薄い板張りとはいえ、高い壁によって閉じ込められたかのように錯覚する空間は、より自分の迷いと不安を増幅させる。階段を上って渡る橋のようなところがあって、そこから少し周りを見渡すと心に余裕が戻るのが常だった。そうなると楽しくなる。出口に到達したときは解放感と楽しさで一杯だった。けれど私のことだから、最初は泣いていたかもしれない。

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暑い夏。

園内には金属の遊具などがあって、本当に多くの家族連れがきていたと思う。夏には熱くなった遊具。ソフトクリームを買ってもらって食べた記憶。私は甘さに安心した。幸福な幼少期の色は、実際にそうだったのか、あるいは私が作りだした幻想だろうか。

私の記憶は、露出オーバーのフィルム写真みたいに淡い色をしている。細かなところは色と一緒に飛んでしまっている。

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その巨大迷路もそれからまもなく閉園し、今は産業廃棄物処理の会社の敷地となって久しい。今でも残っていたなら、フィルムカメラを持って遊びに行くだろう。そして思い出は思い出だと知らされるかもしれない。いや、だからこそ、今の私が撮ってみたかった。当時親があそこで撮った写真はあるだろうか。ありそうな気はする。訊いてみようと思った。

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—―ほら、10年前の私、きけるくらいにはなったよ。そうやって過去の自分を慰撫して、ゆっくりでしか私は歩いていけないのだ。あんなに暑い迷路を歩いていたのに、あんなに冷たい回廊を歩くことになっていった。無理に出ようとも、溺れようとも思わないが、自分がどんなことに何を感じるかを少しずつ確かめるように私は写真を撮り、詩を書き、文字を書いている。

最後に。「ランズボローメイズ」で検索すればそれなりに情報は出てくる。現存しているかは未確認である。あと上記に挿んでいる写真は巨大迷路とは無関係です。

写真とか関係ない話ですが、読んで下さってありがとうございました。