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創業者「浅野邦子」について

去る2月9日、箔一の創業者であり、私の母である浅野邦子が76年の生涯に幕を閉じました。

女性起業家として女性の社会進出のロールモデルとなり、金沢箔工芸品という新しい文化を作るなど、大きな仕事を成し遂げた人生と言えるでしょう。

浅野邦子は、優れた経営者であり、良き母でもありました。
私と妹が小学生の頃には仕事で忙しく、長いときは3週間も家を空けることがありました。それでも、必ず夜には電話をくれ、「困ってない?元気?ごはんどうした?」と話をしていました。

私が会社に入ってからは、厳しく鍛えられました。
彼女の求める水準は極めて高く、妥協もありません。
時には意見が違い衝突することもありましたが、彼女の持つ経営者としての見識や本質を見抜く力には、学ぶことばかりでした。

浅野邦子は、誰よりも勉強熱心でした。
形見の整理中、一冊の使い古されたノートを見つけました。英語の勉強をしていたのか、びっしりと英単語が書き込まれていました。彼女なら、海外に行っても通訳をつけることもできたでしょう。でも、自分の言葉で、自分の想いを伝えたいという気持ちが強かったのだと思います。金沢箔の魅力を、日本のみならず世界に広げたいということも、彼女の夢の一つでした。

また浅野邦子は、「愛」の人でもありました。
相手を心配するあまり、言葉が強くなることもしばしばありましたが、その後きちんと改善されていれば、本当にうれしそうに褒めていました。多くの人に愛情を注いできたからこそ、彼女もまた多くの人から愛され、慕われていたのだと思います。

彼女は常に仕事に全精力を注いできました。それは、亡くなる直前まで変わりませんでした。今年の頭には会合に出席し、皆の前で講話まで行いました。点滴を打ちながらです。

少し前に、彼女は自らの意思で抗がん剤をやめていました。薬を使えば、いくばくか寿命を延ばすことも叶ったかもしれません。ですが、それと引き換えに厳しい副作用を受け入れなければなりません。1日中ベッドで寝て過ごすより、残された時間、少しでも人に会って想いを伝えたい。そう考えたのではないかと思います。亡くなる直前まで、情熱を燃やし続けた人でした。

箔一は、そうした彼女の愛情の結晶ともいえる会社です。
浅野邦子は旅立ちましたが、その「志」は社員一人ひとりの心の中に生きています。大きな存在から夢を託された私たちが、その想いをしっかりと受け継いでいく姿を、これからも見守っていただければ幸いです。

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