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箔一創業者浅野邦子の思い出。加賀屋代表小田禎彦様

日本一の旅館として名高い和倉温泉『加賀屋』様(※1)。そのブランドを築き上げた中興の祖が小田禎彦代表(※2)です。故浅野邦子(箔一会長)とは長年の友人であり、お互い多くの事を語り合った間柄でした。石川県を代表する経営者である小田氏に、浅野邦子との思い出を語っていただきました。

浅野さんは、素直で素敵な方でした。

株式会社箔一 代表取締役社長 浅野達也(以下、浅野)
本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。母は、プライベートでも小田代表のお話をよくしていました。公私ともに大変にお世話になりました。心よりお礼を申し上げます。

株式会社加賀屋 代表 小田禎彦(以下、小田)
お世話になったのはこちらのほうです。浅野さんは何事もはっきりと口にされる方で、私も良く叱られていました。いなくなってしまったことが、今も信じられないくらいです。

浅野
母は率直な性格で、お相手がどのような方でも歯に衣着せず発言していました。息子としては、ハラハラすることもありました。小田代表に失礼が無かったらよいのですが。

小田
浅野さんは、なんでもズバっとおっしゃられていました。気持ちが良かったですよ。嫌味がないし、表現力も豊かで、ユーモアも抜群でした。裏表なく、相手に気を使わせない方だったから、一緒にいて楽しかったです。


和倉温泉加賀屋。美しい七尾湾を望む部屋にて。

浅野
母との交流は、どのようなきっかけから始まったのですか?

小田
はっきりとは覚えていないのですが、おそらく、経済人の会合などでご一緒していたのだと思います。ただ気が付いたら、もう仲良くしていただいていたという印象です。

浅野
ビジネスのお取引ということではなく、純粋に友人としてお付き合いいただいていたのですね。

小田
ええ、まさにそうです。浅野さんは、損得勘定で人と付き合う人ではありませんでしたから。純粋に、人間として尊敬しておりました。


2019年。浅野邦子旭日単光章感謝の会にて、談笑する小田代表と浅野邦子。

浅野
母も小田代表には、とてもお世話になったと言っていました。経営者のお手本として学ぶところも多かったのだと思います。

小田
私のほうこそ、浅野さんにはいろいろ教えてもらってきました。
北陸のような地域だと、はっきりものを言わない人が多いですよね。どうしても角が立ちますから、あいまいにしておいたほうが良いこともあるわけです。でも、浅野さんは違いました。摩擦を恐れず、なんでもはっきりものを言う。ファッションも素敵だったし、華やかな雰囲気がありました。この地域では貴重な存在でしたね。

浅野
母は、京都から嫁いできた新参者でした。だからこそ、しがらみを感じず、自由に発言ができたのかもしれません。


やっぱり浅野さんはすごい人だったのだと、感心しました。

小田
亡くなられた際には、新聞記事などで様々な人が浅野さんのことを話していました。どれをみても素晴らしい評価が書かれている。経団連(※3)のトップや、県知事など、大物たちが口をそろえてほめておられる。そういったものを見て、やはりすごい方だったのだと改めて感心しました。

浅野
経団連の榊原さん(※4)や、馳知事(※5)などは、いまもお会いすると母の話をしてくれます。本当に嬉しいことです。

小田
浅野さんは経団連に所属されてからは、北陸を飛び越えて日本国家のレベルで活躍をされました。この北陸で、それだけのスケールを持った人はなかなかいないでしょう。

浅野
経団連に行っても、いつもと変わらず、積極的に発言していたと聞いています。ステージがあがっても自分を貫けるのは、本当に浅野邦子らしいと思います。

小田
経団連に入ると、お付き合いをする相手が、日本財界を代表する人たちになる。メガバンクや総合商社のトップたちです。それでも、彼女はまったく遠慮することがない。さらに感心なのは、そうした人脈を自分の商売に利用することを、一切しませんでした。それが素晴らしかった。

浅野
本当にその通りですね。箔一の経営者としては、少しくらいなら、、、という気持ちにもなりますが、母には我田引水という言葉が、全くありませんでした。

小田
私も俗人ですから、もったいないな、とも思いますよ。でも、浅野さんは私利私欲が一切なく、純粋に日本を良くしたい、地域を良くしたいという気持ちで動いていました。だから、信頼を勝ち得ていったのでしょう。

浅野
純粋でしたし、損得勘定などしない人でした。自らお金を出して人をもてなすことはあっても、人脈を使って儲けようということは、考えたこともなかったと思います。


後進の育成にも、情熱を傾けておられました。

小田
若い女性経営者の方とも積極的にかかわって、しっかりと次の世代を育てていましたね。

浅野
母は金澤レディース経政会(※6)という組織を立ち上げていました。こうした団体は、どうしても親睦や人脈作りが目的になりがちですが、この会はあくまで勉強を目的としています。母は、女性の地位を向上させるためには、女性たちも変わらなければならないと考え、経営者として実際に役に立つ知識を身に着けさせることに情熱を注いでいました。

小田
そういった会の運営は、なかなか大変なものがあります。みなに勉強してもらえるように、まとめていくのも骨が折れることです。浅野さん自身が、だれよりもきっちりとしていて勉強熱心だったから、周りもついてきたのでしょう。

浅野
母は、とにかく真面目でちゃんとやりたいという人でした。会合には必ず出席していましたし、出席すればしっかりメモを取って、さらにそれを別のノートに清書するということまでやっていました。

小田
私の娘たちも、浅野さんとお会いするたびに、本当に良い勉強をさせていただいていました。本当はもっと、教えてほしいことがたくさんありました。まだまだこれからと期待していましたが、実に残念です。

浅野
母は現役のまま、ほとんど衰えることなくこの世を去っていきました。多くの人にとって、突然いなくなってしまったと感じられたようです。私には、そうして颯爽と去ってしまう姿も、母らしかったなと思っています。

小田
大変にさっぱりした、竹を割ったような性格の方でした。


浅野
母とは難しい面もありました。経営のことになると、お互い妥協ができませんから、言い合いになることもしばしばでした。もしかしたら、小田代表にも、私の愚痴をこぼしていたかもしれません。

小田
達也さんの話も良く聞きましたが、私の前では、なかなかたいしたものだとほめていらっしゃっていました。息子こそが私の誇りだと。

浅野
どうしても親子という難しさがあって、うまくいかないこともありましたが、それでも母の経営者としての言葉は、いまも指針となっています。


苦労に苦労を重ねて、大きな仕事を成し遂げられた

小田
浅野さんは、想像を絶する苦労をされてきた方です。恥をかいたことも、挫折しかかったことも一度や二度ではないでしょう。そうした中でも、人に甘えることなく、自らの力でやりぬいてこられた。私が浅野さんと知り合った頃は、まだ金箔と言われてもピンとこなかったものです。それが、箔一さんがどんどん大きくなって、やがては石川県を代表する文化にまでなってしまった。これは、彼女の大きな功績です。

浅野
私もそれは実感しています。大学進学で東京に下宿した時に、実家が金箔屋だと言っても誰もわからない。石川県と言えば、加賀友禅、九谷焼、輪島塗という時代でした。

小田
金箔が石川県を代表する文化にまでなったのは、まさしく浅野邦子さんの功績です。それまで金箔は、仏壇などに使うものだった。箔というものに注目して、日用品にも広げていったのは、女性ならではの視点だったと思います。

浅野
感性が鋭かったのでしょう。特に、当時の伝統産業には女性の経営者など皆無でした。だからこそ逆に、固定概念がなく、その美しさや価値に気づけたのだと思います。

小田
浅野さんは自分の功績のことは、あまり話したがらない人でした。それでも、金沢箔を変革して、食品や化粧品にも広げていったことは、誰もが知っています。彼女がやり遂げたことは、並大抵のことではないですよ。


恥をかいても、それを跳ね返すだけの力があった

浅野
母の教えの中に「NOと言わない」ということがありました。箔一では、どんな無理難題だったとしても、まずはいったん受け止めようと考えています。そのうえで、一生懸命考える。NOと言ってしまったら、それは自分の負けです。母はとにかく負けず嫌いでしたから、何とかして形にしようと、歯を食いしばって頑張っていました。それが、結果的に金沢箔の革新につながっていったのだと思います。

小田
私たち加賀屋にも「できない、ということは言ってはなりません」という教えがあります。これは、私のおふくろ、小田孝(※7)の教えです。例えば真冬にスイカが食べたいとお客様から要望をいただいたとします。それはできるはずないのですが、それでも「できない」とは言ってはならないのです。どうしてもスイカが手に入らなければ、代わりにメロンを提案する。そのようにして、お客様が満足するものを提案し続けることが大事なのです。

浅野
とても共感します。私たちも同じです。どうしても無理なのであれば、知恵を絞って代案をだそうと。

小田
おふくろも、浅野さんと似ています。よその土地からお嫁に来て、家業の旅館に入ったわけですが、右も左も全くわからない。大恥をかいたことも、一度や二度ではありません。それでも、なにくそという気持ちでやりぬいた。

浅野
それが、加賀屋さんの日本一のおもてなしの基礎になったのですね。素晴らしいお話です。確かに、浅野邦子にも共通するものがあります。彼女も京都から金沢の箔屋に嫁いで、右も左もわからなかった。それが良かった面もあるのですが、とてつもない苦労をしなければなりませんでした。

小田
恥をかいたり、叱られたりしても、それを跳ね返すだけの力があったのだと思います。仏壇に貼られていた金箔を、工芸品にする、食品にするというのも、無理難題だったといえるでしょう。でもそれをやり抜いたから、業界が大きくなった。

浅野
企業が本当に差別化できる技術やアイデアは、無理難題を克服した経験から生まれることがありますよね。簡単なことだけやっていても、人を感動させられるようなサービスは生まれません。それこそが「できない、ということは言ってはなりません」という教えなのだと思います。


本当に素晴らしい人生だった。友人として誇りに思う

小田
おふくろは、何もわからないなりに、どうしたらお客様が喜んでくださるかを考え抜いていました。例えば、お客様が到着されて出発されるまで10回お茶を入れてさしあげようと決めました。時代の流れで難しくなってきていますが、この精神は今も息づいています。

浅野
苦労されてきた方の言葉というのは、本質的ですよね。真理を捉えていますから、シンプルでも説得力があります。原理原則といっても良いでしょう。1泊2日の間に10回もお茶を出すには、常に気を抜かずに、お客様に関心を払っていなければいけません。そういう精神性が、加賀屋さんの一流のおもてなしとなっているのだと思います。

小田
何もわからないからこそ、新鮮な発想ができる。それはあったと思います。一方で、素人が業界で新しい価値を生み出していくのは、並大抵のことではありません。馬鹿にされたりすることだってあったはずです。浅野さんは、そういう本当の苦労の中で、逆境にもめげずにやり抜かれた。亡くなられた後、新聞記事や、皆さんのコメントを見て、ものすごく高く評価されているのを改めて感じました。大変な人生だったけど、最後は邦ちゃんの勝ちだった。そう思います。友人として誇らしいし、うらやましい人生ですよ。早すぎたし、残念だという気持ちはずっと捨てきれませんが、それでも、見事な生き方だったと思います。

浅野
ありがとうございます。小田代表にそう言っていただければ、母も喜んでいると思います。


※1
加賀屋
株式会社加賀屋。1906年創業。石川県七尾市の和倉温泉に本拠を持つ温泉旅館。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において幾度となく総合日本一に選ばれる名旅館。

※2
小田禎彦代表
小田禎彦(おださだひこ)。1940年年生まれ。和倉温泉・加賀屋代表。これまでに公益社団法人石川県観光連盟理事長、和倉温泉観光協会会長などの公職を歴任し、石川県の観光振興に大きく貢献する。2003年には政府選定の「観光のカリスマ」に選ばれる。2017年旭日双光章受章。

※3
経団連
一般社団法人日本経済団体連合会。日本の大手企業を中心に構成される経済団体。経済政策にも大きな影響力を持つ。企業会員1,494社、団体会員155、特別会員33(2022年4月1日)より構成される。

※4
榊原さん
榊原定征(さかきばらさだゆき)。1943年生まれ。第13代経団連会長(2014年6月3日~2018年5月31日)。2018年より同名誉会長。2020年旭日大綬章受章。

※5
馳知事
馳浩(はせひろし)。1961年生まれ。ロサンゼルスオリンピック日本代表(レスリング)。元プロレスラー。1995年より参議院議員。2015年第16代文部科学大臣(安倍内閣)。2022年より石川県知事。

※6
金澤レディース経政会
一般社団法人。故浅野邦子が創設。政治、経済、経営、社会、文化などに関する諸問題を研究し会員相互の資質の向上を図り、事業と活動を通じて社会に貢献することを柱に女性起業家の相談、支援、育成することを目的とする。

※7
小田孝
加賀屋2代目女将。お客様の満足を第一に考えるサービスを徹底し、日本一と称えられる加賀屋のおもてなしの基礎を築いた。女将による部屋回りは小田孝が発祥で、その後全国の旅館に広がった。


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