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亀戸天神と、社長が逆ギレ恫喝で話題の老舗菓子屋『船橋屋』を、浮世絵や絵図で振り返ります

亀戸の菓子屋さん『船橋屋』の社長が、自動車を運転していた際に、信号を無視して衝突したうえ、相手の自動車を蹴るなどの狼藉ろうぜきをはたらいたとして話題になっていますね。ちなみに社長は、退任したとのことです。

事故や社長の対応はさておき、亀戸天神前の『船橋屋』といえば、老舗の菓子屋さんです。そこで、古地図や浮世絵などを交えながら、船橋屋や亀戸の歴史と由来を見ていきたいと思います。

■亀戸天神の由来

菓子屋の船橋屋は、亀戸天神を抜きには語れません。美味しいお菓子を開発し続けてきたのは間違いありませんが、店を出したのが亀戸の天満宮前だったというのも人気の重要な要素です。

亀戸天神は、江戸時代には亀戸天満宮と呼ばれ、昭和11年からの正式名称は「亀戸天神社」です。名前のとおり、天神てんじんさま……つまり菅原道真すがわらのみちざねを祀っています。江戸時代には徳川家綱(四代将軍)から、現在の社地が寄進され、寛文二1662年には、太宰府天満宮にならって、社殿や回廊、心字池、太鼓橋などをつくったそうです。

一立斎広重(歌川広重)『東都名所 亀戸天満宮境内全図』(国立国会図書館)

菅原道真を御祭神とする天神・天満宮の神社は、全国に約12,000社があると言います(太宰府天満宮HPより)。そして現在の東京にも32社あり、そのうち江戸時代から続いているのが「江戸二十五天神」となります。さらに、十返舎一九が『菅神御一代文章』で言及しているのが、亀戸天神社や湯島天満宮、平河天満宮、牛天神北野天神、大くぼ西向天神社、五條天神社、関屋天満宮の七社。

わたしが行ったことがある(記憶にある)のは、亀戸、湯島、五條天の三社。この中で、梅の名所としても知られているのが、亀戸と湯島だと記憶しています。

一立斎広重(歌川広重)『東都名所 亀戸梅屋舗全図』(国立国会図書館)

亀戸天神社のHPには、下記のように由来が記されています。

正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって(中略)江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。

亀戸天神社のHP
歌川広重『東都名所 亀戸天満宮境内雪』(東京国立博物館)

■船橋屋の歴史

さて、話を戻して「船橋屋」について。文化21805年に、深川の亀戸天満宮前で創業した和菓子メーカーです。もっとも売りとしている商品が「くず餅」で、元祖くず餅の店として有名です。創業地の亀戸天神前のお店だけでなく、東京や千葉、埼玉、神奈川に数十店舗を展開しています。

江戸の古地図の亀戸天満宮前にも「船橋屋」という文字が見られます(アプリ『大江戸今昔散歩』より)

店名は、初代の勘助の出身地が、現在の千葉県北部、下総国の船橋だったことが由来です。船橋屋のHPには、当時の船橋が、良質な小麦の産地だとしています。

ちなみに同HPでは、関東のくず餅は、関西の葛餅とは異なり「小麦粉のでんぷん質を発酵させてできた白っぽい餅にきな粉と黒蜜をかけていただく物」だと記されています。

■お菓子の本を残した、船橋屋の謎の主人「織江」

天保121841年には、当時の主人である船橋屋の織江が、『菓子話かしわ船橋』という、素人向けに菓子の作り方を解説した書を執筆しています。同書の絵は、「英泉」とのみ記されていますが、美人画で有名だった渓斎英泉のことかもしれませんね。

織江 初編 英泉 画 初編『江戸流行えどはやり菓子話かしわ舩橋』(国立情報学研究所
織江 初編 英泉 画 初編『江戸流行えどはやり菓子話かしわ舩橋』(国立情報学研究所)

↑ 船橋屋を描いた歌川国芳の浮世絵『深川佐賀町菓子船橋屋』は、江戸東京博物館のHPで見られます。

船橋屋の「織江」という名が、誰か1人の主人を指すのか、名跡のように受け継がれていたのかは不明です。ただし、約40年後の明治181885年には、同じく「織江」が、画工に命じて有平糖や打物、干菓子、乾菓子などを描かせた雛形(見本図案)集が刊行されています。

『船橋菓子の雛形』(国立国会図書館
『船橋菓子の雛形』(国立国会図書館)
『船橋菓子の雛形』(国立国会図書館)

ちなみに「船橋屋織江」でGoogle検索すると、亀戸の船橋屋系列の店ではなく、大磯にあった煎餅屋の「船橋屋織江」という店が多く出てきます。また、同じく羊羹で知られる老舗のお菓子屋さん「とらや」のHPには、浅草雷門の前には、深川(亀戸)の船橋屋織江から暖簾分けされた船橋屋があったことが記されています。

この雷門前の船橋屋は、今はありませんが…(とらやのHPによれば)、「次々に支店を構え、やがて本店を名乗るようになりました。」とあります。また雷門の船橋屋は、仮名垣魯文や式亭三馬などの文人と深いつながりがあったとしています。

なお、亀戸の船橋屋については、明治初期に発行された『かわら版「大江戸風流くらべ」』の江戸甘いもの屋番付には、「亀戸くず餅(久寿餅)・船橋屋」が、横綱としてランクされ、人気を不動のものとしたそうです(船橋屋HP)。

調べていて謎だったことがあります。船橋屋のかつての主人である織江について、ネットで調べても、よく分からないこと。これだけ菓子や船橋屋自体の認知度を上げようと励んだ人なのに、亀戸の船橋屋のHPでは、一言も触れられていないのです。“とらや”のHPでは、織江について記されているのにです。前述した、菓子の2冊についてなどは、船橋屋の歴史を語る時には、欠かせないものだと思うんですけどね。

可能性として考えられるのは、現在亀戸にある「船橋屋」と、創業時にあった「船橋屋」とが、少し異なるものなのかもしれない…ということ。前述した通り、例えば織江から暖簾分けされた「雷門」前の船橋屋の系列が、現在の船橋屋だという可能性も、なくはないなと…。

分かりませんけどね。今回の船橋屋八代主人の不祥事をきっかけに、文春あたりが、調査してくれたら面白いなと思います。

■船橋屋と文人・文豪との交流

文化人との交流についても、「創業当時の面影を今も残す本店には、芥川龍之介、吉川英治、永井荷風ら文化人の方々もしばしば足を運ばれ、くず餅の素朴な味を堪能されていました。」としています。実際に吉川英治は、同店の看板ために「船橋屋」と記し、今でも本店の喫茶ルームに掛けられているそうです。(船橋屋 楽天市場

また、相当の常連だったという永井荷風も、著作の中で船橋屋のくず餅について触れています。

今年六ツになつた蝶ちやんは母親諸共に叫んで、早速に花簪を買つて貰つた。そして池のまはりを一周した後、水際に張出した休み茶屋の敷延べた赤い毛布の上に坐つて、池の鯉に麩をやりながら名物の葛餅を食べた。葛餅は敢て蝶ちゃんばかりが好んで食べたのではない。母ちゃんのおきみさんも三角形に切つた大きな片の二ツ三ツを成りたけ澤山黄粉と砂糖のついて居る慮を選んで續けて口の中に入れたのである。

永井荷風『冷笑』より引用

文豪と船橋屋との関わりについては、以下の『カメイドタートルズ』に詳しく記されています。

【文学×おうち時間】芥川龍之介、伊藤左千夫、吉川英治…、亀戸に積もる文豪の記憶を追って(前編)
【文学×おうち時間】芥川龍之介、伊藤左千夫、吉川英治…、亀戸に積もる文豪の記憶を追って(後編)

以上見てきたように、船橋屋は今でも観光地として人気の亀戸で創業した、200年の歴史を持つ菓子屋さんです。今週辞任した社長は、(どういう系譜か分かりませんが)八代の主人だったということ。長く続く老舗企業は、どこも多くの困難に直面するものです。船橋屋も明治維新、関東大震災や太平洋戦争などの存続の危機を乗り越えています。今回の社長の不祥事も、そんな危機の一つと言えるでしょう。8人も代が変われば、変なのも一人や二人はいるもの。不祥事は許し難いものの、(数回しか食べたことがありませんが)お菓子が美味しいのも事実です。できれば、今回の危機も乗り越えてもらいたいものです。

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