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【画像アーカイブ】弘法大師・空海さんの一生を描いた絵巻物……『高野大師行状図絵』

東京国立博物館(トーハク)で2024年9月8日まで開催されている『神護寺展』を契機に、改めて空海さんについて調べていました。その時に『弘法大師行状絵詞』という絵巻の存在を知りました。おそらく神護寺展にも展示されていたのだと思いますが、ごく一部しか展示されていないため、あまり記憶にも残らなかったようです。

それで改めて同絵詞の模本の画像データがないかをWebで探してみると、『弘法大師行状絵詞』は見当たりませんでしたが、ColBaseに、トーハク所蔵の『高野大師行状絵巻(模本)』の全六巻の画像データがアップされていました。そこで、ColBaseに埋もれさせたままではもったいないので、ここに画像データを整理しておきます。

さて、トーハク所蔵の『高野大師行状絵巻』の模本データは、狩野〈晴川院〉養信ほかが、江戸時代の天保5年(1834)に模写したものだそうです。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたものですが、どの寺が蔵している(いた)ものなのかは不明です(調べていません)。

なお、弘法大師空海さんの生涯を描いた絵巻は、今回の『高野大師行状絵巻』(六巻)や、神護寺展で展示されていた『弘法大師行状絵詞』(十二巻)のほか、「高祖大師秘密縁起」(十巻)、など5系統が残っているそうです。

高野大師こと弘法大師空海の伝記絵巻には種々の作品が伝存する。それらは梅津次郎氏によって……
①「高祖大師秘密縁起」十巻
②「高野大師行状図画」六巻
③「高野大師行状図画」十巻
④「弘法大師行状絵詞」十二巻
⑤版本「高野大師行状画」十巻
……以上五系統に分類理されている。このうち最もよく流布したと思われるのは、⑤の版本は別として、肉筆本では③「高野大師行状図画」十巻の系統(以下、十巻本と称する)である。

塩出喜美子『平間寺蔵「高野大師行状図画」考』

ということで、以降は、ほぼColbaseの画像をそのままアップしています。一部は詞書の書き下しを記しましたが……こちらは江戸時代だかに出版された書き下し文をテキスト化したもの。内容はほとんど同じですが、画像の文章とどれくらい異なるのかは、精査していませんのでご了承ください。

今後、気が向いたら……詞書の書き下しを進めたいと思いますが……けっこう時間がかかるので、あまり期待はできないですね……。


なお、弘法大師空海さんが船に乗って中国・唐を目指している様子は、第ニ゙巻の『大師御入唐事』にあります。

高野大師行状図絵 第一

大師誕生事

それ大師は光仁天皇の御宇、宝亀五年にご誕生したまえり。讃州(讃岐国)多度の郡…屏風の浦の人なり。その父は佐伯真氏と申しき。昔天照皇大神が、天の岩戸を閉じ給ひし時、天津児屋根の尊が、はかりごとをめぐらして、大神をなだめ奉らせ給いけるに、二人の神をもって岩戸を引き開かしめ給えり。その一神の御末と申し伝えたり。その後、朝敵を平らげ給う勲功の賞として地を分かち給いき。御母は阿刀氏(あとうじ)の人なり。父母の夢に、天竺より聖人飛び来たりて、懐の中に入るとみて孕み、十二月を経て誕生し給えり。

幼稚遊戯事

大師が御年五六歳のあいだ、夢に常に八葉の蓮華の上に座して、諸仏とともに物語りすると御覧ぜごろうぜられけり。しかども父母にも語らせ給わず。父母いたわりやしけひ奉り給うこと、たなごころの玉をもて遊ぶがごとし。我が子は昔の仏弟子なるべし。夢に天竺の聖人来て、我らが懐の中に入るとみて孕めり。しからば、この子は仏弟子となさんと云々。これを聞きて歓喜の御心あり。いとけなき幼き御歳なれども、さらに芥鶏かいけい竹馬の御たわむれなし。つねに泥土をもって仏像をつくり、竜?とうだうを建て、仏をすべ奉りて、朝夕にをかみをこなひた?ひ?。父母これを見て、いとど慈しみ奉りて、御名を貴物とうとものと申しける。

四天王執蓋事

昔は門民苦使とて、国々に勅使が下りけり。その故に良吏撫民のまことあれば、国豊かにして民やすく、(逆に)国司非例を行えば、民の苦しみ天に上りて、災変をなすものなり。国の治政をしろしめさんがために、(勅使を)下されけり。この勅使が讃岐の国へ下りけるが、かの家の前を過ぎけるに、この君いとけなくしてかたへのわらんへなと引くして、(勅使は幼い空海が)遊び給えるを見て、にわかに馬より降りて、首を地に付け拝敬すること限りなし。人は怪しみけるに、勅使が言うには、この小さき子は、ただ人にあらず権化の人なり。われ今見るに、四天王ががいを差して(空海に)つき従えり。人これを知らずやと言いけり。その後、あたりの里にもこの事を聞きて、神童とぞ名付ける。

誓願捨身事

御年六七歳のほどにて、讃岐の国の険しき山に登りて、十方を念じ、三宝を誓い給うことあり。我もし行く末に、仏法をひろめ、衆生を導くべきならば、諸仏憐れむて命をつかしめ給え。その儀、成就すべからずば、わが命を捨てしなんと誓い給いて、高き峯より深き谷へ御身を投げたこと三度なり。また地に至らざる、たひことに天人が天下って取り上げ給えば、いささかもつつが有る事なし。半偈(はんげ)に身を投げし童子の心さしにもなをすぐれ、火聚(かじゅ)に入りし善財の苦しみにも超えたることとこつ。覚え侍れ、彼峯をば捨身ノ嶽と名付けて、今に人をかむことにて侍るなり。

明敏篤学事

明敏篤学の事
大師外戚の御叔父、阿刀大足(あとのおおたり)という人に付きて、文書を習わせ給う。天性明敏にして上智の誉(ほまれ)を備えたり。大足の大夫はこれをみて、奇異の思いをなし、たといついには仏弟子となるとも、まず文学の道に入りて経史などを習わしめて、芸を得身を立てしめんという。御年十五歳にして舅氏に伴ないて家郷を出る。花洛に来て槐市(かいし)に交り、直講味酒の浄成にしたがいて、毛詩左伝尚書を読み、おかた(?)の博士に逢いて、左氏春秋を学び学す、蛍雪のつとめをこたらず縄錘(じょうすい)の構え、心をつくし給いき。学業ようやくなりて、花実あい備わる。千載の春秋心のうちにきめて、一期の錦繍筆の先に鮮やかなり。

聞持受法事

御入洛ののち岩渕(いわぶち)の贈僧正勤操(ごんそう)……

※かなり異なる

出家受戒事

延暦十二年、大師御年二十になりし時、贈僧正勤操にしたがいて和泉国・槙尾という山寺に下向ありて、御くしおろし給いけり。沙弥(しゃみ)の十戒、七十二の威儀を受けさせたまい。御名を如空とぞ申しける。のちに改めて、教海と継がせ給いけり。二十二の御年、東大寺戒壇院にして、具足戒を受け、また御名を空海と申しき。

明星入口事


高野大師行状図絵 第二

天狗降伏事

我拝師山事

魔事品事

久米寺東塔心柱事

大師御入唐事

入唐着福州●事

入唐入洛事

五筆和尚●事

虚空書字事

高野大師行状図絵 第三

渡天礼拝釈尊事

大師●入●事

珎賀悪念事?

守敏●護法事

道具相伝事

恵果御入滅事

恵果彩現事

大師擲三鈷事?

高野大師行状図絵 第四


帰朝上表

大師参詣御廟

高雄灌頂

両帝灌頂

高野尋入

巡見上表

丹生託宣

三鈷宝劔

大塔●●

高野大師行状図絵 第五


秘●開題

弘仁九年の春、天下……

権者自称

守敏降伏

大峯修行

久米寺講話

神泉苑

東寺勅●

稲荷契約?

高野大師行状図絵 第六

宗論

仁王経法

㣪七日法

門徒雅訓

入●●身

嵯峨●礼

高野珎瑞

大師号

参照文献

・『弘法大師伝』釈瓢斎 著





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