見出し画像

国宝『信貴山縁起絵巻』を、ざっくり解説!【下巻:尼公(あまぎみ)の巻】

以前話したワシの話がおもしろかったか(笑)? そうかそうか、年寄のつまらぬ話を聞かせてしまったと思ったのじゃが、そうして喜んでもらえると、うれしいものじゃ。

なに? 「ついては、話を記録に残しておきたい」とな? うぅ〜ん、記録にか……少し本音を話しすぎてしまったでのぉ、そのまま残されてしまうと、困るのじゃがのぉ。あまりワシを悪いように書かないでほしいのぉ……というのが正直なところじゃ。と言うても、今までの山崎長者延喜の加持祈祷の話は、嘘や誇張が多いでのぉ……。そうじゃ……これから話すことは、嘘も誇張もない本当の話じゃで、その話も必ず入れるということにしてもらえまいか。それであれば、ワシも記録に残されることに、依存はないでな。

山崎の長者の話しをする前に……托鉢用の鉢の話をする前じゃ……ワシは信濃国(長野県)の出身だと話したじゃろ。その時に、ワシには尼になったあねさんがいるという話をしたのじゃが、今日は、そのあねさん……尼公あまぎみの話じゃ。

あねさんもワシと同じで、物心がつく前の幼い頃に寺に入れられてのぉ、そのまま尼になったのじゃ。それからワシが生まれて、あねさんは、自分と同じように寺に入れられるワシを、心配そうに見ておってくれたんじゃ。その時は、えらく気遣ってくれてのぉ。「先輩がたの言うことをよく聞くのだぞ」とか「あなたは私と同じで、人から好かれるようだから、そのまま素直に育っておくれ」などと、歳は十以上も違っていたため、まるで母親のようなあねさんだったのじゃ。

そのあねさんが、いくつになった頃だったかのぉ……40も半ばを過ぎた頃じゃろうか。「幼いうちに、東大寺へ行って僧になると言って、信濃を出ていった弟は、今どうしているだろう」という思いが強くなったのだそうじゃ。その頃にはワシの噂も……嘘や誇張が混じっておったがのぉ(笑)……信濃国のあねさんのもとにも少しは届いていたんじゃろ……立派になった弟の姿を見たいと、信濃から従者を連れてワシを探しに来たんじゃよ。

令和の今であれば、長野から奈良へ行く人も珍しくもなかろうが、その頃は、国境くにざかいを越えて隣の国(県)へ移動することすら、珍しい時代じゃ。特に木曽路などは険しい山や渓谷をぬうように進まねばならぬしのぉ。それでもあねさんは、久しぶりに托鉢たくはつをしながら、旅を続けたのじゃ。そうして旅の途中で会う人たちの、みなに親切にしてもらったと言っておったのぉ。贔屓目ひいきめもあるじゃろうが、徳の高い、人に好かれるあねさんだったからのぉ。

そうして托鉢を続けながら、旅を続けて、ほうぼうで「命蓮みょうれん上人しょうにんをご存知ありませんか?」と聞いて回ったそうだが、まったく知るもんがおらんじゃった。

ん? 命蓮みょうれん上人しょうにんとは誰じゃとな。おぉそうじゃったのぉ、今までワシの名前を教えておらんかったのぉ。そう、ワシは命蓮みょうれんと名乗っておる。「命」という字を使うのも妙じゃで、「妙蓮みょうれんにしようかとも思ったのじゃがのぉ。まぁじゃが命蓮みょうれんなどという僧は、聞いたことがなかろうのぉ(笑) あねさんが聞いて回った時にも、そうじゃったのじゃよ(笑)

並の人なら、ここで不安になるところじゃが、あねさんは旅を楽しんでおられたようでのぉ(笑) 景色を愛でたり、行く先々で出会った人らぁと話をしながら奈良を目指したのじゃよ。

それで平安京……今でいう京都までやってきたのじゃが、そこでも「命蓮みょうれんという僧侶が、どこにおられるかご存知ないか?」と聞いて回ったものの……あいにくワシは、比叡山や高野山からは外れた僧じゃからのぉ……京では、誰もが知るというよりも、知る人ぞ知るといった存在だったのじゃよ。それであねさんが訊ね回っても、誰もワシのことを知らなんだ……。京でも知る者がおらんとなると、さすがのあねさんも、焦ってきたじゃろうのぉ(笑)

とにかくは幼き弟が目指していた大和やまと(現在の奈良県)の東大寺へ行けば、なにか手がかりが掴めるかもと、あねさんは東大寺へ行かれたのじゃ。じゃが奈良に着いて、山階やましな寺……今の興福寺じゃの……大きな寺なのだが、そこで聞いて回ってもワシがどこにおるのか知る者がおらん。それで東大寺へ行ったのじゃが、そこでも誰もしらん……

まぁそれでも東大寺の大仏さんを見た時には、あねさんも驚いたじゃろうのぉ。当時は、令和の今とはちごうて、まだ大仏様の背中に光背が残っておったじゃろうし、なにせ、あれだけ大きゅう仏様は見たことがなかったじゃろうしのぉ。

人は大きいというそれだけで貴さを感じるものじゃで、それはワシも、あねさんも変わらん。そいで、ワシのことを知るもんがおらんので、その日は大仏さんと一夜を過ごそうと決められたそうじゃ。「命蓮の居場所を夢で教えてくだされ」と言ってのぉ。

あねさんは、いろんな格好で一心に祈ったと言うておった(笑)。大仏さんの目の前でぐーすかいびきをかいては申し訳ないでねぇ、じゃがあねさんも若くはなかったもんで、体は休めたい。そいで、ちょっと寝転がりながら祈っては、また起きて祈り、そしてまた寝転がって祈る……というようなあんばいじゃったらしい。じゃが季節も秋に差し掛かっていた頃じゃで、夜は長かったのじゃろ。旅の疲れもあるでのぉ。あねさんが、ついウトウトと、まどろんでしまった時じゃ。

大仏さんが「命蓮みょうれんを探している尼よ」と、夢の中で話しかけてきたらしい。おもしろいのぉ、信じぬか? じゃがのぉ、一心に祈っておると、そういうこともあるんじゃよ。そうして大仏さんが「命蓮は、ここから未申ひつじさるの方角にある山におる。その方角にある、紫の雲がかかっている場所を目指していけ」と教えてくれたそうじゃ。

お告げを聞いて、あねさんはハッと目覚めたということじゃ。すると空が明るくなり始めてのぉ、南西の方角を見ると山が見える。その山に紫の雲がかかっておったのじゃ。それであねさんは、大仏さんにお礼をして、紫雲を目指して歩き始めたんじゃ。

東大寺を朝の6時くらいには出たようじゃのぉ。あねさんが、ここじゃと思った山に入っていったのは、その日の昼過ぎだったのじゃ。なにせ信貴山は、今のように道が整えられたわけではないのでのぉ。ワシや弟子たちや、里のもんらぁがやっと通れるくらいじゃもんで、山道を登ってくるようなもんじゃったはずじゃ。

そうして獣の道なのか人の作った道なのかも怪しい道を、あねさんが登っていくと、やっと寺のような建物があって人がいる気配もするということで、「こちらに命蓮上人しょうにんはいらっしゃいますか?」と尋ねたのじゃ。

ワシは普段「上人しょうにん」なんて呼ばれぬでのぉ……いったい誰じゃ? と思って、その時に読んでいたお経を持ったまま玄関へ行ってみると……一人の尼さんが立っておったのを覚えておるよ。

どこかでお会いしたことがあるような気もしたのじゃが、まさか「あねさんですか?」とも言えず、「命蓮ですが、何か御用でしょうか?」と訊ねた。すると、その尼さんがワシを見つめながらポロポロと涙を流し始めたのじゃよ。そいで、「おぬしの姉じゃ……やっとお会いできました」と、涙を流しながら言うんじゃ。ワシも「やはりそうじゃったか」と思いながら、涙が抑えられんかったのぉ。なにせ20年ぶりに、たった一人の肉親と思っておったあねさんに会えたのじゃからのぉ。もううれしゅうて、うれしゅうて。

当時は、今みたいに再会を喜んでハグなどはしないのじゃよ。ただただ見つめ合って、2人して涙を流しておったよ。そいで、しばらくしてワシも落ち着いてきたでのぉ……「とにかくも、お上がりください」と言って、あねさんに上がっていただいた。それからもう食事をするのも忘れて、お互いに今までのことを話したのじゃよ。もちろん鉢で倉や米俵を飛ばした話や、御門みかどの病を祈祷で治した話も話したじゃで。あねさんは「おもしろいのぉ……それにしても、ご立派になられて……ご立派になられて……」とばかり言うてのぉ、ワシは気恥ずかしかったものじゃ。

そいで気がつくと日が陰ってきて、肌寒くなってきておった。するとあねさんが「寒くはないですか? 良ければ、これを着てくだされ」と、厚手の肌着を、ワシに渡してくれたのじゃ。それを着ると、とても暖かくてのぉ……こうしてあねさんに、また気遣ってもらえるとは思わなんでのぉ……またジワぁっと目頭が熱くなってしもうたもんじゃ。

それから「あねさんが過ごしたいだけ、こちらで過ごしてくだされ。このままずっとこちらに居てもらっても構いませんよ」と言ってのぉ。お互い、唯一の肉親と思っていたのは同じじゃで、「それでは、しばらくこちらで過ごさせていただきます」とあねさんは言って、そのまま過ごしていただいたのじゃよ。

あねさんが来てから何度目かの秋がきた頃には、いただいた肌着がボロボロになってしもうた。いつも僧衣の下に着ていたものだからのぉ。それであねさんが、また新しいのを繕ってくれたんじゃよ。じゃが、それまで使っていたボロの方も、捨てるのには忍び難くてのぉ。例の山崎の長者の校倉造あぜくらづくりの倉……その頃には飛倉とびくらと呼ばれるようになっていたのじゃがの……その倉の中に大切にしまっておいたんじゃよ。

とにかくあねさんが来てからも、この信貴山しぎさん朝護孫子寺ちょうごそんしじは、ワシが来た時に転がっておった毘沙門天の御本尊のおかげなのか、だんだんと弟子も堂宇も増えていったもんじゃ。ワシもあねさんもうなってからも、そのボロの端をみなが欲しがったという。そして飛倉とびくらも朽ち始めてしまったので、建て替えようという時に、その倉の柱で、また毘沙門天像を作ったということじゃ。今残っているのは、その時の像かもしれんのぉ。

ん? 今の信貴山しぎさんには、寅の像がたくさんあるのか? その由来は知らんのぉ……。ただもしかすると、初めて信貴山しぎさんに寺を創ったのが、かの聖徳太子だとする伝説によるものかもしれんのぉ。実はのぉ……“実”なのかは知らんが……太子が毘沙門天に感得したのが、582年……つまり寅の年なのじゃが、その年の寅の月の寅の日、寅の刻じゃったと言うんじゃ。いやまぁ伝説じゃでのぉ……確か徳川家康とかいう武人も、寅寅寅寅に生まれたっちゅう話じゃで、昔からフォータイガーは縁起が良いっちゅうんで、好まれたのじゃ。まぁ太子は、その後に毘沙門天を彫って、それを本尊として信貴山しぎさんを創ったとか何とかっていう話はあったのじゃよ。聖徳太子が「信ずべき貴ぶべき山」と名付けたという伝説がの。それにちなんで、寅が多いのかもしれんのぉ……じゃが、それはワシには関係ない話じゃが、まぁめでたいし、おもしろいで良いじゃないか(笑) フォーッフォッフォ(笑)

<参考文献>
・百橋明穂『信貴山縁起再考』(PDF)
・Wikipedia『信貴山縁起
『信貴山縁起』の詞書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?