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東京芸大『日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱』の“非公式”図録を作ってみた

東京藝術大学の付属美術館にて特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」が開催されています。普段は東京国立博物館トーハクばかりに通っている私ですが、トーハクの兄弟姉妹的な研究機関として設立された、お隣の東京藝術大学美術館で開催される当特別展にも興味が広がりました。

行けるかどうか分からないけれど、どんな作品が見られるのかをまとめました。

今回の特別展の公式の主旨については、以下の通りです。

「本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵する皇室の珠玉の名品に、東京藝術大学のコレクションを加えた82件の多種多様な作品を通じて、『美の玉手箱』をひも解き、日本美術の豊かな世界をご覧いただくものです。」

また東京藝術大学は、前身である東京美術学校で岡倉天心が1890年に初めて体系的に日本美術史の講義を行った場所だとしています。同校は、芸術の教育だけでなく研究機関として重要な役割を担っている。そうした自負があることからも「日本美術をひも解く」と、謳っているのでしょう。

特別展は「序章 美の玉手箱を開けましょう」から始まり、「1章 文字からはじまる日本の美」、「2章 人と物語の共演」、「3章 生き物わくわく」、「4章 風景に心を寄せる」と続きます。

序章 美の玉手箱を開けましょう

当特別展の序章『美の玉手箱を開けましょう』を観覧する前に読んでおきたい資料があります。それは2005年にトーハクで開催された『模写・模造と日本美術―うつす・まなぶ・つたえる―』の、プレスリリースです。そのリリースには、次のように記されています。

「明治維新後の近代日本において、模写・模造こそが新たな創造をもたらす古典再生の原点であることを最初に理解したのは、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる最中の明治5年に、法隆寺や正倉院の宝物調査を行った(トーハクの)博物館初代館長の町田久成でした。」

その上で、この町田の思想を受け継いだのが、岡倉天心だとします。東京美術学校現:藝大美術部の初代校長であり、帝国博物館現・トーハクの美術部長でもあった岡倉天心は、横山大観や下村観山、竹内久一などに古典美術の重要性を説き、その模写や模造を精力的に推めたといいます。

「こうした模写・模造が、近代日本美術にさらなる創造をもたらしたことは、その後の彼らの輝かしい創作活動をみれば明らかな事実です。」

『模写・模造と日本美術―うつす・まなぶ・つたえる―』の、プレスリリースを見る。ポチッ

関連:壬申検査社寺宝物図集(e國寶

『日本美術史』講義ノート(筆記・原安民)
岡倉天心が、東京美術学校東京藝術大学の前身の校長だった明治24~25年1891~1892年に、本美術史の講義をしました。当時の学生が書き取った講義ノートが、いくつか出版されています。本展では、美術雑誌『日本美術』を刊行した、原安民の筆記による講義ノートが見られます。

岡倉天心(当時は岡倉覚三)は、序論の中で「美術史を研究するのかなめ豈啻にがいてい(?)・ただ単に過去を記するに止まらんや。また須らくすべからく未来の美術を作為するの地をなさざるべからず。吾人ごじん・我々即ちすなわち未来の美術を作りつつあるなり」と言っています。

東京藝術大学の資料には、つまり「将来美術家となろうとしている生徒たちに 、彼らが日本美術史上のいかなる地点に立っているかを示し 、勇気づ け、己れの信じる方向へ誘迎しようという熱意が籠められていたのである」としている。(東京藝術大学 近現代美術史・大学史研究センター資料より)

『法隆寺金堂模型』
明治43年1910年に製作された、金堂の20分の1の模型です。同年開催の日英博覧会に展示されたのち、東京美術学校現・東京藝術大学での、日本古建築の教材となりました。
実物の法隆寺金堂を忠実に模造しただろう当品は、芸術作品と言っても良いものです。こうした模型は、通常、だれが作ったのかが記されています。おそらく「にせものだから…」などと言う視線ではなく、模型を作った匠の技をリスペクトしているからでしょう。

『法隆寺夢殿本尊(救世観音像)の拓本』
「拓本」とは、 石碑や器物などに紙を直接あて刻まれた文字・文様を記録したもの。つまり模写と言えます。 東京美術学校時代に収集された当館の拓本は、文化財記録であるとともに展示資料としても活用されました。
拓本をとる際に、秘仏であった救世観音像の開扉に立ち会った岡倉天心は、その感動を日本美術史の講義の中で伝えています。
(以上、東京藝術大学美術館の解説より)

『法隆寺金堂四天王像・橘夫人念持仏等 拓本』
法隆寺金堂の四天王像と、現在は同寺の大宝蔵院に安置されている伝・橘夫人念持仏などの拓本であり模写です。同品の古写真はありましたが、当ブログに著作権をクリアして掲載できるデータがなかったため、代わりに、同時期に撮影されただろう法隆寺金堂の古写真を載せておきます。

拓本がとられたのと同時期に撮影された法隆寺金堂

『法隆寺金堂壁画コロタイプ複製』
昭和24年1949年1月26日に、法隆寺金堂壁画が消失。これを契機として、昭和25年に文化財保護法が成立しました。ただし、壁画焼失の約10年前の昭和10年1935年に、金堂壁画の保存検討と模写制作のために、京都の印刷・出版社「便利堂」が、コロタイプ印刷により複製していました。そのため同複製を利用して、金堂の壁画も復元することができたのです。
またこの時に撮影印刷された複製は、東京藝術大学のほか、東京国立博物館やイギリスのロンドン大学などに所蔵されています。
詳細は『寺社Nowオンライン

法隆寺金堂壁画第一面(東京国立博物館より)

六角紫水(図案)『菊蒔絵螺鈿棚きくまきえらでんたな
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明治25年1892年に宮内省が東京美術学校現・東京藝術大学に図案を依頼して以降,その制作に11ヶ年が費やされた作品。皇室を象徴する菊の花畑と小鳥の意匠(文様)を、佐渡の金粉による蒔絵と沖縄の夜光貝による螺鈿で表現。棚板の裏側にまで全面に配さています。(三の丸尚蔵館の解説文より)

正直、なぜ菊蒔絵螺鈿棚きくまきえらでんたなが、序章に展示されているのか、意図を図りかねています。ただし、明治天皇は、日本の伝統工芸を守りたいという気持ちが強かったため、様々な展示会に出向いては、気に入ったものを買い求められたり、職人に発注していたりしたそうです。明治天皇が、伝統工芸を守るための、良いパトロンとなっていたということ。また、御物ぎょぶつとしてそばに置いておいたことで、伝統工芸をはじめ美術品や刀剣などが、現在でも見られるということです。

<展示を見た後の雑感>
展示室に入ったところに特別感たっぷりに展示されていました。ただ、やはりどうしてこれが展示会のトップバッターとして置かれていたのかは、分かりませんでした。素晴らしいものではありますが……。

1章 文字からはじまる日本の美


 紫紙金字法華経ししきんじほっけきょう巻第二』

※以下は奈良国立博物館蔵の紫紙金字法華経ししきんじほっけきょうの解説文を参考に記しています。

紫紙金字法華経ししきんじほっけきょうとは、分かりづらいものの読んで字のごとく「紫色に染めた料紙に銀泥で界線を引き、金泥で経文を書写」したものです。
天平13年741年、聖武天皇は各国に国分寺と国分尼寺を建立するようみことのりを発しました。同時に国分寺の塔には「紫紙金字最勝王経」を、国分尼寺には「紫紙金字法華経」を奉納・安置することも命じられました。
ちなみに国分寺の正式名称は、金光明最勝王護国之寺で、国分尼寺は法華滅罪之寺なのだそうです。

絵因果経えいんがきょう

<展示を見た後の雑感>
国宝の玉虫厨子に描かれている絵の一つ「捨身飼虎図」のキャラのような印象を受けました。お経を挿絵入りで分かりやすくしたといったところでしょうか。まだ仏教の理解が進んでいなかっただろう奈良時代に、単なる理解不能な異国語であるお経を、絵入りで親しみやすくしたのかもしれませんね。


小野道風『屏風土代びょうぶどだい
展示期間:9/6(火)~9/25(日)
小野道風の真筆で,内裏に飾る御屏風に漢詩を揮毫するために準備した下書。土代は下書きのことで,屏風に貼付する方形の彩色紙(色紙形)。巻末に藤原定信(藤原行成四代の孫)の識語がある。大正14年(1925)井上(旧侯爵)家献上。(宮内庁HPより

藤原佐理すけまさ『恩命帖《おんめいじょう》』
小野道風、藤原行成とともに三蹟の一人である藤原佐理(944~998)の、誰かに宛てた書状。書き出しの「佐理謹奉恩命」に由来して、『恩命帖』と呼ばれる。
冒頭と差出所に佐理の草名があり,本文は袖書まで一連のもので全文。天元5年(982)正月,射遺所の役に関連するものと考えられている。明治11年近衛家献上。(『新版 雅・美・巧(上)』H15)(三の丸尚蔵館より)

(書が上手な)三蹟の一人である藤原佐理すけまさの書状ということで、ものすごく重要なものだということが分かります。ただし書に疎いと、このニョロニョロの文字のどこが凄いのかが分からないのも、正直なところでしょう。
内容は、命じられた矢が何かの手違いで調達されておらず、問い合わせに対して弁明し善後策を提示するものだそうです。
ただし、これだけ有名な書にも関わらず、なんで現代語訳などが見つけられないのかが不思議です。内容について興味のある人は、書道家以外にいないのでしょうか……(書道家は読めるでしょうけど…)。

<展示を見た後の雑感>
実際に見ると、走り書きのように切羽詰まった感じがズンと迫ってきました。ただ…三蹟の一人の走り書きなんですね…という印象ですね。

伝・藤原公任きんとう等『 巻子本和漢朗詠集かんすぼんわかんろうえいしゅう
和漢朗詠集わかんろうえいしゅう』は、平安時代中期の歌人で公卿の藤原公任きんとう(966〜1041)が漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集です。朗詠とは歌曲の一形式で、和漢の名句を吟唱するもので、今でいう詩吟しぎんとほぼ同じようなものです。つまり朗詠集ろうえいしゅうとは、当時の世界である日本と中国の名曲の歌詞を集めたもの。また巻子本かん“す”ぼん巻子装かんすそうとは、巻物のこと。

和漢朗詠集わかんろうえいしゅう』は、様々な人が書写したものが残っているが、今回展示される『 巻子本和漢朗詠集かんすぼんわかんろうえいしゅう』については、藤原公任きんとうなどが筆をとったものと伝えられているようです。

<展示を見た後の雑感>
書かれていることが分からない現代人は、これを美術品としてのみ評価するんでしょうかね。たしかに、料紙などの、紙の製造技術はすごいものがあると思いました。贅沢な紙だなと。

伝・藤原行成『粘葉本でっちょうぼん和漢朗詠集わかんろうえいしゅう
三の丸尚蔵館には、ほかにも伝・藤原行成筆の雲紙本くもがみぼんの和漢朗詠集や、同じく伝・藤原行成筆の粘葉本でっちょうぼんの和漢朗詠集、伝・源俊頼筆の安宅切本あたかぎれぼんの和漢朗詠集が収蔵されている。

藤原行成筆の『粘葉本でっちょうぼん和漢朗詠集(部分)』(三の丸尚蔵館蔵)

<展示を見た後の雑感>
実物は、意外と普通の冊子=本といった感じ。これも紙の質がすごいというのは感じられました。できれば開いたページに何が書かれているのか、やっぱり知りたいなあ。

藤原|行成《ゆきなり》『敦康親王初覲関係文書あつやすしんのうしょきんかんけいもんじょ
藤原行成ゆきなり(972~1027)が記入した文書の草案で,日記『権記』の断簡か。一条天皇の第一皇子、敦康親王あつやすしんのう(7歳)が,御父の天皇に御対面される(初覲)儀式を執り行う打合せの記文。行成の平常の筆跡や、失われた『権記』を窺う貴重資料である。(三の丸尚蔵館の解説より)

『敦康親王初覲関係文書』(三の丸尚蔵館より)

来月廿七日 御對面対面
御装束一襲
 赤色御袖一領 蘇芳御下襲一領 加半臂
 表御袴一腰 御袙一重
 大口一腰
 御本結 御帯 可申左大臣殿 糸鞋
  行事明順朝臣
御膳  為文朝臣 行成
上達部 殿上人饗 行成為文朝臣
女房衝重卅前 為義朝臣
理髪禄白細長一重  茜染 袴一具 修政朝臣
  寛弘二年1005年二月十日
ブログ『ラフェットの備忘録』より

伝・藤原公任きんとう大色紙おおじきし
展示期間:8/6(土)~9/4(日)
なぜか公式の出品リストでは『大色紙』とのみ書かれていますが、通常は『古今和歌集 賀歌三首(大色紙)』などと記されています。
3つの和歌が記されていて、特に初めの一首は『古今和歌集』巻七に収められた、『君が代』の元歌とされる歌です。

右の1行目から4行目までは、下記の通り。詠み人知らず匿名の歌ですが、『君が代』の元歌と言われています。

我君わがきみよにましませ
さゝれいしのいはほと
なりてこけの
むすまて
『1089ブログ』より

<展示を見た後の雑感>
解説パネルではみごとに、「君が代」との関連性をスルーする内容でした。なんでだろう? はじめの文章に、なにが書かれているのかが解説パネルにあれば、もっと興味を抱く人がいると思うのですが……。なにか不都合があるんでしょうかね? 皇室の御物(?)だということもあって、勘ぐってしまいます。

2章 人と物語の共演

狩野永徳『源氏物語図屏風』
展示期間:8/6(土)~9/4(日)

<展示を見た後の雑感>
狩野永徳さん……さすがです! という感じでした。桃なのか梅なのか桜なのかの花びらを見ると分かりやすかったのですが、絵の具がぼってりと盛られていて、間近でみると、それぞれの花びらが立体的に見られる気がしました。これは実物で見られて良かったです。

伝・土佐光則みつのり源氏物語画帖げんじものがたりがじょう
『源氏物語』54帖総ての段から,それぞれの物語文の一部と,それに対する場面を絵に表した色紙を貼り込んでいる。詞書は近衛信尋(1599~1649)ら54人の親王や公家集が認めている。絵は土佐光則(1583~1638)と伝えられるが,古様の図様が多く含まれながら,背景描写が少なく,やわらかな金雲を多く用いている点や,やや面長に描かれた人物の容貌などから,光則周辺の他の絵師,或いはその子光起みつおき(1671~91)の早い時期の作例かと考えられる。(『新版 雅・美・巧(上)』H15)(三の丸尚蔵館より

<展示を見た後の雑感>
やはり、博物館で展示する作品には、大きさによる見映えも重要だと感じました。この作品は、小さいんです。ケースに1つポツンと置かれている割には、小さくガラス部が高い形のケースの底に平置きされているため、作品に近づいてみられませんでした。

川之邊かわのべ一朝いっちょう石山寺蒔絵文台・硯箱』
宮内省から依頼を受けて制作され、1900年パリ万国博覧会に出品された作品。石山寺で『源氏物語』の筆が起こされたという伝承に基づいた意匠で,硯箱にはその故事を,文台には水面に映る月の情景を,黒漆地に金銀の研出蒔絵で効果的にあらわしている。(『新版 雅・美・巧(下)』H15)(三の丸尚蔵館より


蔦細道蒔絵文台つたのほそみちまきえぶんだい硯箱すずりばこ
三の丸尚蔵館では、『蔦細道つたのほそみち』の同じ意匠が蒔絵にほどこされた、文台ふみだい硯箱ふみばこが3セットあります。安土桃山時代16世紀に作られたのが、(もともと皇室に伝えられていた)御在来と、旧桂宮家伝来の2つです。そして特別展で展示されているのが、上杉家から献上されてものです。
三の丸尚蔵館の解説によれば「『伊勢物語』の一節を主題とした作品。蔦は宇津山を表し,笈と結文は主人公が山中で出会った修験者と彼に託した都の女への文を象徴している。高蒔絵を基本に金銀の金具,切金を多用し,繊細に蔦を彫り出した銀製の金具を装着して華麗な作品に仕上げられており,安土桃山時代の気風をよく伝えている。」とあります……って、私にはさっぱり解説文が理解できませんでした。

東京国立博物館にも『蔦細道蒔絵文台硯箱』という、少し意匠が異なるけれど、同種のデザインのセットが収蔵されています。文台&硯箱のセットは「蔦細道つたのほそみち」を題材にすると決まっていたのでしょうか…。

なぜ文台&硯箱のセットに描かれる題材が「蔦細道つたのほそみち」なのかは、『蔦の細道図屏風』の説明文(ColBaseより)を読んで分かりました。

『蔦細道』とは、『伊勢物語』の第九段の「東下りあずまくだり」という1シーン。都から左遷されて、関東地方へ下っていく在原業平が、東海道の難所・駿河国宇津山で顔見知りの修行者に出会います。顔見知りとばったりと出会ってテンションが上がった彼は、都の恋人への手紙を託すのでした。

だから文台&硯箱には、『蔦細道』が適していたのでしょう。

伊勢物語図屏風いせものがたりずびょうぶ
(右隻:8/6(土)~9/4(日)/左隻:9/6(火)~9/25(日))
明治から昭和にかけて活躍した大和絵を代表する画家、4名により大正5年1916年に製作されました。右隻は、高取稚成と前田氏実。左隻は、小堀鞆音と吉川霊華筆によるものです。

<展示を見た後の雑感>
すばらしいなぁと思いました。展示室の中でも、配置されている場所が良かった気がします。作品自体の注目度も低く、人が集まりにくく、離れてみても素敵な印象でした。もちろん、細部まで書き込まれている各作家の表現力は素晴らしいの一言です。

高取稚成は、川崎千虎に師事しつつ、生涯を通じて故実考証、歴史考証に基づく歴史画の確立を目指しました。有名な武士を画材とする上で不可欠な甲冑の研究にも没頭し、自ら甲冑を模作しています。
前田氏実は、明治から大正にかけて「春日権現験記絵」をはじめとする大和絵の模写をしまくった人です。
小堀鞆音は、住吉派の住吉広賢に学んだ後に土佐派の山名貫義師事しつつ、有職故実も学ぶ。1818〜21年の皇居造営では下絵等を描いて参加。伝統的な大和絵技法を遵守した最後の純土佐派として知られる(Wikipediaより)。
吉川霊華は、大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示しました(Wikipediaより)。


俵屋宗達『扇面散屏風せんめんちらしびょうぶ
以下は、東博所蔵の『扇面散屏風』の解説文です。
「安土桃山時代から江戸時代初期(17世紀初頭)にかけて活躍した絵師、俵屋宗達は、扇屋「俵屋」を営んでいました。この屏風は、俵屋の製品であったと考えられています。扇は、日常の実用品であることに加え、贈答品としても盛んに流通していました。この屏風に貼り交ぜられた扇面画には、扇の折り畳み線がなく、またサイズも大きいことから、実用目的ではなく、初めから鑑賞のために屏風や冊子状に仕立てることが想定されていたのでしょう。扇屋は、さまざまな扇のデザインをストックしてあったはず。これは、まるで俵屋の図案のレパートリーを見せるカタログのような屏風です。それぞれ雰囲気の異なる絵が貼り交ぜられていますが、墨や絵具の濃淡のにじみやむらを活かした「たらしこみ」の技法、また金の雲をきらきらと光る水色の縁取りで囲む表現など、繰り返し登場する要素は、「俵屋らしさ」として期待される特徴だったのでしょう」(文化遺産オンラインより

俵屋宗達『扇面散屏風せんめんちらしびょうぶ

以下も東博所蔵の『扇面散屏風』の解説文です。
「扇の形をした画面に、さまざまな絵が描かれ、屏風に貼られています。この屏風は本来、2枚でセットになっており、こうした「扇面画」が、左右の屏風を合わせると60枚、貼り交ぜられています。描かれている内容は、「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」といった物語絵、有名な景色を彩り豊かに描いた名所絵、昔から伝えられてきたエピソードや人物を含む故事人物、風景や動物をモノクロで描いた水墨画など、幅広い画題を網羅しています。」(文化遺産オンラインより

従来、『扇面散屏風せんめんちらしびょうぶ』の御物本(三の丸尚蔵館バージョン)も、『保元物語』や『平治物語』、『伊勢物語』、『西行物語』のほか『草花図』を主題にした扇を、物語の展開とは関係なく、主に装飾的降嫁を狙って配列されたとされています。
一方で、五島美術館の下山來夏さんは、扇の配列は『保元物語』と『平治物語』の展開に、ほぼ沿っていると判明したと言います。そのため当屏風を『保元・平治物語図屏風』と言えるとしています。
下山來夏さんの説の概要はコチラ

蒙古襲来もうこしゅうらい絵詞えことば
通期展示(前巻:8/6(土)~9/4(日)/後巻:9/6(火)~9/25(日))

文永11年1274年弘安4年1284年の2度にわたる元寇げんこうの際,その戦に出陣した肥後国御家人・竹崎季長すえながを中心に展開する絵巻。現状は、錯簡、欠失、複数本の混入などの問題はあるが、その風俗や描写の表現には鎌倉時代の特色が表れている。歴史的事実の視覚的史料としても貴重な作品である。明治23年1890年に熊本の大矢野十郎から御買上げ。(宮内庁HPより

<展示を見た後の雑感>
これが教科書でお馴染みのアレかあ! という感動が一つ。加えて、鑑賞作品としても見応えのあるものでした。主人公の竹崎季長が、騎馬で敵陣に踊り込みバッタバッタと敵を薙ぎ倒していった……かもしれない様子が真に迫った雰囲気でした。季長の馬からも血が噴き出しているし、敵陣からは矢だけじゃなく槍も飛んでくるし…。
さて、この絵詞を提出して手柄をアピールした季長は、どんな恩賞を得たんでしょうかね。またこれを、どんな人に描かせたんだろうかと思いました。

絵師草紙えしのそうし
絵師草紙は、ある宮廷絵師の所領をめぐる悲喜劇を主題とした、鎌倉時代末期(14世紀前半)の絵巻物。
三河権守みかわごんのかみという下級の宮廷絵師が朝廷より賜った伊予国の所領をめぐる事件を描いた絵巻である。本作は、主人公である絵師が身の上に起きた事件を証言するために描いたという体裁をとる。当時の絵師が所領をめぐって争うことは珍しくなかったようである。前代や同時代の絵巻の多くが物語や説話集を出典とするのに対して、本作は絵師の身の上話を描く点でユニークな作例といえる。(Wikipediaより

<展示を見た後の雑感>
当作品と『酒呑童子絵巻』の二作品を知れただけでも、この展示会へ行った甲斐がありました。一人ひとりの表情の描き方が漫画のようで、見ていて楽しかったです。展示では、じっくりと見られなかったので、デジタルデータでよいので、色々とネット上を探したいと思います。

絵師の家族と親類縁者たちが酒宴で大喜びする様子(『絵師草紙』第一段の後半部分)
Wikipediaより

高階隆兼『春日権現験記絵 巻四、五』
(巻四:8/6(土)~9/4(日)/巻五:9/6(火)~9/25(日))
藤原氏一門の西園寺公衡が、一門のこれまでの繁栄に感謝し、またさらなる繁栄を祈願して制作を企て、詞書を前関白鷹司基忠父子四人、絵を宮廷絵所預の高階隆兼が担当したという制作事情が、付属の目録より明らかである。本格的な大和絵技法による精緻な描写は卓抜しており、当時の風俗を知る史料として、また痛みやすい絹地の絵巻が完全な姿で、700年もの長年月を経て現存しているという貴重性も加わり、わが国屈指の文化遺産と言って過言ではない。本来、春日大社に秘蔵されていたが、江戸後期に流出し、その後勧修寺経逸が収集し、鷹司家を経て、明治8年(1875)と同11年の2度にわけて皇室に献上された。(宮内庁HPより


『北野天神縁起絵巻えんぎえまき(三巻本) 巻中、下』
菅原道真を祀る北野天満宮に由来する同絵巻は,中世の天神信仰の拡大に伴って,数多く制作された。本絵巻はその中で,詞書冒頭の書き出しによって丙類に分類され,弘安元年に制作された弘安本系と呼ばれる系統に属する。同系統の他の絵巻と比べても,やわらかな描線や色彩による伝統的画風を示す優品である。(『新版 雅・美・巧(上)』H15)(三の丸尚蔵館より

私は、こうした古い絵を見る時に、細部を面白く感じることが多いです。例えば、長い絵巻のうちで、上のInstagramは雷神に攻め立てられている数人の公家が描かれています。そのなかの左の縁側から転び落ちていく人……帽子が外れてしまっています(笑)。武家の頭髪が、ちょんまげやポニーテール、落人はロングヘアーと、すぐにイメージできます。でも公家の頭って、どうなってるの? ってイメージできないんですよね。でも、この絵を見ると、へえ、こんなヘアースタイルなんだあ……と合点がいきます。要は美術作品としてよりも、歴史資料としての視線で見ているのだと思います。

伝・頼寿らいじゅ小野道風おののとうふう像』
平安時代中期に活躍した小野道風(894~966)は、書道の神として祀られるほどの能書であった。本図は,巻紙に今にも筆をおろそうとする姿を真横からとらえたもので,わが国の肖像画としては早い時期の優品として知られる。明治11年(1878),近衛忠熈献上。(『新版 雅・美・巧(上)』H15)(三の丸尚蔵館より

小野道風おののとうふう像』(三の丸尚蔵館より

えーと……頼寿さんって、どなたさまですか? という感じですが、この頼寿らいじゅ小野道風おののとうふう像』だけの論文を記している、田中 一松という先生がいました。それによると、この絵は「頼寿法橋ほっきょうの筆と伝え、(元は)近衛家の集蔵本」とあります。法橋とは「医師、絵師、連歌師などに与えられた称号」なので、頼寿が絵師であれば、皇室の御用絵師のような存在だったということです。ただし田中先生でも、頼寿らいじゅが誰なのかは分かっていません。

絵については「うすく雲母を引いた素地に書いたもので…」てあるので、間近で見ると少しキラキラするのか、もしくは以前は色鮮やかだったかもしれません。また小野道風は「馬づら」だったという伝承があるらしく、「とにかくこの御物の書像がまさしくその特徴を露骨に書き現した最古の一作たることは認めざるを得まい」としています。論文の中には「馬面うまづら」が連呼されていて、そうとう絵のポイントなんだろうと思います。

絵の上部に貼り付けられた色紙には、源宗干の歌「ときはなる松のみどりも春くれば」の下句が散らし書きされているそうです。

いまひとしほのいろまさりけり

また短冊には「野道風影 頼壽法橋筆」

なお、田中 一松先生の論文は、コチラからダウンロードできます(PDF)。「なんで右手に筆を持ってるのに、硯が左に置いてあるんだよ?」などのほか、系譜から見た絵の客観的な評価、これまでどれだけ模写されてきたかなどが詳細に記されています。

伝・|六角寂済《ろっかくじゃくさい》柿本人麻呂像かきのもとのひとまろぞう
『万葉集』の代表的歌人である柿本人麻呂は,平安時代に歌の聖と讃えられて以来,歌道において神格的存在となり,多くの画像が制作された。本図もその代表的な図様で,細部まで丁寧に描いている点から六角寂斎筆と伝承される。明治15年(1882),吉井友実献上。(『新版 雅・美・巧(上)』H15)(三の丸尚蔵館より

<展示を見た後の雑感>
なぜか展示の横の解説文には、作者名が書かれていませんでした。なぜだろう。伝・六角さんというのを、否定する学説が有力になったのでしょうか? 作者不明だからか、展示方法のためか、時代背景を説明するための参考資料のような扱いに見えました。


尾形光琳『西行さいぎょう物語絵巻 巻三』
平安時代末の歌人,西行(1118~90)の生涯を,その行跡と歌で綴った『西行物語』は,鎌倉時代に成立して間もなく絵巻化された。西行の魅力によってか,物語本,絵巻ともに以後,大量に絵画化されたが,本絵巻は、内裏に所蔵されていたという海田采女佑相保筆の絵巻を,江戸初期に俵屋宗達が模写したものを,さらに光琳が模写したものである。模写とはいえ,光琳なりの解釈による彩色などが見られる。明治28年,藤田伝三郎からの献上。(『新版 雅・美・巧(上)』H15)(三の丸尚蔵館より

<展示を見た後の雑感>
混んでいて、じっくりと観られませんでした。垣間見たところ、素敵なんだろうな……という印象です。


|海野勝珉《うんの しょうみん》太平楽たいへいらく置物』
『太平楽』は大礼の饗宴時のような慶事に舞われる。その豪華な装束の様子を金象嵌などによって表現している。自然な膨らみをみせる衣紋の表現や,兜など装身具の細部にいたるまで丹念に作り込まれた,明治期金工の最高水準を示す作として,高い評価を得ている。(『新版 雅・美・巧(下)』H15)(三の丸尚蔵館より

<展示を見た後の雑感>
明治以降の作品にはほとんど興味を抱けなかったのですが、この像の完成度には驚きました。本当の人間に華美な服装をさせて、そのまま縮小して固めて像にした…みたいなリアルさです。

旭玉山あさひ ぎょくざん官女置物かんじょおきもの
本作は,いくつもの牙材を接合して制作された,明治期の牙彫史上でも類例の少ない大作である。宮廷に使える女性が身につけた十二単の衣紋は細かく浮き彫りで表現され,檜扇や鏡,髪などはきわめて写実的かつ丹念に彫り込まれて,優美で均整のとれた古典的な女性像が雅にあらわされている。西洋風の科学的な写実主義を基調として,牙彫の可能性を追求し続けた作者の最高傑作。(『新版 雅・美・巧(下)』H15)(三の丸尚蔵館より


『古代鷹狩たかがり置物』


賀茂かも競馬くらべうま置物おきもの


伝・岩佐又兵衛『をくり(小栗判官絵巻おぐりはんがんえまき) 巻一、二』
作者とされる岩佐又兵衛は、そのダイナミックなタッチから、浮世絵の始祖のように言われることが多い。この絵巻「をくり」も,詞書ことばがきが人形浄瑠璃の語り調子で書かれ、独特のリズム感で展開していきます。その展開にともなって登場する人物は生き生きとした表情で描かれ、執拗な場面の展開に見られる描き分けは、「まさしく劇画的」とも言えましょう。なお、『をくり』(小栗判官絵巻)は、全15巻、全長が約324メートルに及ぶ超大作です。(参考:宮内庁HP

宮内庁のHPにある「『をくり』展示会」時の展覧会図録はコチラ(PDF)。これだけの良質な展覧会図録が、無料で読める点は驚きです。

<展示を見た後の雑感>
岩佐又兵衛の絵をはじめて見たけれど、とってもお上手でした。この方が浮世絵の始祖なの? と驚きました。どのあたりが浮世絵的なんだろうかと。伝統的な絵を描いているような気がしましたが。

酒伝童子絵巻しゅてんどうじえまき 巻二、四』

<展示を見た後の雑感>
当初、ぜんぜん期待していなかったのですが、表現が精緻で、じーーーーっと見入ってしまいました。特に桃? 桜? などの花の周りや野の花は、花粉まで書き込んだんじゃないかって思うほどに、圧巻の細かい表現。

『平等院鳳凰堂模型』
1910年に日英博覧会が開催され、現在もロンドンの公園に置かれている勅使門が再現されました。そのほか、多くの古建築の模型も作られました。例えば10分の1スケールの増上寺(東京)台徳院殿霊廟たいとくいんでんれいびょうや、20分の1スケールの薬師寺東塔、唐招提寺鐘楼、東大寺鐘楼、日光陽明門など13模型を出品。その中にあったのが、今回の特別展に展示されている、同じく20分の1スケールの法隆寺金堂や、この平等院鳳凰堂です。

<展示を見た後の雑感>
実物を見た時よりも、感動してしまいました。根っからの模型好きなのかもしれません。あとは、あらかじめ調べて行ったということもあって、その作られた意図、ロンドンへ行ってまた戻ってきているという過去ストーリーを考えると「日本のために頑張ってくれたんだな」と感慨深いです。
法隆寺金堂の模型もですが、なぜ製作者の名前が記されていないのか不思議です。誰が作ったのか、分からないんでしょうか?
また、たまたま展示の配置の問題ですが、この模型を横から見ると、狩野永徳の源氏物語屏風が背景になって、良かったです。なかなかこのシーンはないだろうから写真に撮っておきたかったです(写真撮影禁止です)。

20分の1スケールの平等院鳳凰堂(正面)
20分の1スケールの平等院鳳凰堂(横)

なお、Twitterを検索していると、今回の展示に合わせて鳳凰堂模型を修繕したようです。また、屋根にのっている鳳凰は、彫金家の吉田泰一郎さんが復元をしたという書き込みもありました。

3章 生き物わくわく

狩野永徳『唐獅子図屏風(右隻)』
展示期間:8/6(土)~8/28(日)

伊藤若冲じゃくちゅう動植綵絵どうしょくさいえ
展示期間:8/30(火)~9/25(日)
綵絵さいえ」って、どういう意味なんでしょうね。調べてみると、さいさいと同じで、「動植綵絵」とは「動物と植物を描いた彩色画」ということだそうです。なぁんだ……。

<展示を見た後の雑感>
同作品が人気なのに驚きました。しかし、これだけ人気だと分かっていて、なんで全作品(今回は10幅)を遠くから見られる場所に展示しなかったのか…美術館の差配にびっくりでもありました。作品全体を下がってみようとすると、左右2本の太い柱が邪魔で……。ほかの作品を3-4作品減らせば、広々と展示できる場所を確保できたでしょうに…そうもいかない事情があるんでしょうけど……その展示方法が残念でした。作品は……まあ佳いですよね。複製品で良いので、どこか寺などで展示会を開いてもらって、じっくりと見られるといいなと思いました。上野動物園のパンダ舎で、人混みの隙間からパンダを見るような雰囲気でした(笑)


円山応挙まるやまおうきょ牡丹ぼたん孔雀図くじゃく』ず
展示期間:8/30(火)~9/25(日)

<展示を見た後の雑感>
作品が大きいからか、その他の動物モノの一つ…みたいな展示でした。まあこれも応挙の代表作というわけではないでしょうし…。

山口素絢そけん『朝顔狗子図くしず

長沢芦雪ろせつ綿花猫図めんかねこず


狙仙そせん猿猴図えんこうず

たに文晁ぶんちょう『虎図』
展示期間:8/30(火)~9/25(日)

<展示を見た後の雑感>
文晁さん…これが代表作みたいに展示されると…つらいでしょうね。解説文も「当時は見たこともない虎を描いて、着ぐるみを着ているみたいで滑稽に見える」みたいに書かれていて可愛そう。

増山雪斎ほか『東都時名画帖』

<展示を見た後の雑感>
谷文晁の師弟が書いたという今作。完全にノーマークでしたが、実際に見ると、とても私の好みにピッタリです。少し図譜図鑑のようだ、と言われたらその通りかもしれませんが、対象を正確に美しく描こうという意図がはっきりと感じられて、とても素晴らしいと感じました。全部を見たいです。

酒井抱一『花鳥十二ヶ月図』かちょうじゅうにかげつず
展示期間:8/6(土)~8/28(日)

葛飾北斎『西瓜図すいかず

高橋由一ゆいち『鮭』

<展示を見た後の雑感>
正直、日本の美術史的には重要な作品なのでしょうが、実際にみると「ほぉ〜鮭ですね」という印象でした。由一さん、ごめんなさい…ちゃんと勉強して出直します!

荒木寛畝『旭日双鶴図』

星野蝉水『月に亀図』

川端玉章『桐に鳳凰之図』

横山大観『龍蛟躍四溟りゅうこうしめいにおどる
展示期間:8/6(土)~8/28(日)

西村五雲『秋茄子』

橋本関雪『暮韻』

加納夏雄『百鶴図花瓶』

初代宮川香山『青華氷梅文花瓶』

初代伊東陶山『上絵金彩蝶尽卵形合子』

白山松哉『蓮華蒔絵香合』

川出柴太郎『七宝蜻蛉河骨図香炉』


高村光雲『矮鶏ちゃぼ置物』
展示期間:8/6(土)~8/28(日)

高村光雲『鹿置物』
展示期間:8/30(土)~9/25(日)

<展示を見た後の雑感>
光雲さん、さすがです! 的なクオリティですね。360度のどこからみても、撫でたくなる愛らしさと質感だし完成度が高いです←光雲さんからしたら、お前に言われたくないわ! って感じでしょうけど……

軍鶏しゃも置物おきもの

いたち

羽箒はぼうきと子犬』
展示期間:8/6(土)~8/28(日)

安藤緑山『柿置物』

大島如雲『鯉』

沼田一雅『牛と童』


十二代酒井田柿右衛門『白磁麒麟置物はくじきりんおきもの

北原千鹿『羊置物』

(原型)杉田禾堂・(制作)工芸成形社『兎』

板谷波山『葆光彩磁花鳥図花瓶』

楠部彌弌『彩蟠桃文花瓶』

4章 風景に心を寄せる

海北かいほう友松ゆうしょう『浜松図屏風』

海北友松『網干図屏風あぼしずびょうぶ

初代飯塚桃葉『宇治川ほたる蒔絵まきえ料紙箱りょうしばこ・硯箱』

原画)川端玉章

(制作)池田泰真 (金具)塚田秀鏡『山路菊蒔絵料紙箱・硯箱・文台』

並河靖之『七宝四季花鳥図花瓶しっぽうしきかちょうずかびん

七宝寰宇無双図額

小坂芝田『秋爽しゅうそう

秋晴

<展示を見た後の雑感>
この屏風をドーン!と置ける部屋が自宅にあったら、秋に置いておきたいと思いました。こういうのを壁紙にして販売するとかすればいいのに……俗すぎるのかしら?

川合玉堂『雨後うご

飛泉

五姓田義松『ナイアガラ景図けいず

高橋由一『栗子山隧道ずいどう

淡煙

和田英作『黄昏』



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