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ほんとに⁉︎ 黄檗宗の著名僧の筆蹟がズラリッ! @東京国立博物館

現在、東京国立博物館(トーハク)には、《黄檗山おうばくさん高僧書巻しょかん》という書跡が展示されています。黄檗山おうばくさんってなに? とか、高僧って具体的には誰なの? など、気になることは色々とあって、調べてもみたのですが、まだ雰囲気くらいしか分かっていないため、今回はスキャンしてきた写真と、引用文のみで構成していきます。

そもそも調べていくうちに、これが真筆だとしたらもっと注目されていても良いんじゃないかな……でも実際にはそれほど注目されていないから真筆ではないのでは? という疑念もあったりと……でも、この黄檗宗の僧たちが書いたという字は、わたしの好みでもあるので、noteしておきたいと思います。


■黄檗宗ってなに?

黄檗宗の大本山である萬福寺の、開創350年にあたる2011年に九州国立博物館で、特別展『黄檗』が開催されました。その時にパンフレットに記されていたのが次の文章です。

臨済宗、曹洞宗とともに日本三禅宗に数えられる黄檗宗(おうばくしゅう)は、承応3年(1654)長崎に渡来した中国明末の名僧・隠元隆琦禅師(いんげんりゅうきぜんじ)(1592―1673)によって開立されました。隠元禅師は、戒律を重んじる中国臨済宗の正統な法灯と厳格な仏教儀礼を日本に伝え、当時の日本禅宗界に新たな風を吹き込みました。その高風は幕府にも届き、隠元禅師のための新寺建立が特別に許され、寛文元年(1661)、京都宇治の地に黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)が開創されました。萬福寺や長崎唐寺(とうでら)をはじめとする黄檗寺院や黄檗高僧は、江戸時代における日中文化交流の接点となり、日本文化の発展に大いに貢献しました。

九州国立博物館

上記のほかに「萬福寺にて隠元禅師が中国から伝えた精進料理、普茶料理をご賞味いただけます」とも記されていました。隠元(インゲン)さんって、普茶料理もだったのかぁと思いました。近所に普茶料理の店があり、気になってはいるんですよね。なかなか気軽に行けるようなお店ではないようですけど。

黄檗宗ですが、料理を伝えたほかにも、書の世界でも日本に少なくない影響をもたらしました。日本における黄檗宗の拠点である、宇治の黄檗山萬福寺の何代目かの住持「木庵性瑫」さんのページには、次のような一文が記されています。

木庵性瑫(しょうとう)は能書家としても知られ、その書風は中国人ならではのものがあり、隠元・即非とともに黄檗三筆と称されている。三人には共通した書風があり、隠元の「穏健高尚な書」・木庵の「雄健円成な書」・即非の「奔放闊達な書」と評され「唐風」あるいは「黄檗風の書」として珍重されている。

Wikipedia

そしてトーハクの解説にも、江戸期の書について、下記のように記しています

書は、江戸時代初期の三筆(信尹・光悦・昭乗)が新しい書風を打ち立て、黄檗の三筆らがもたらした中国書法が、江戸時代中期以降、唐様の書として流行しました。

文中の「黄檗の三筆」とは、隠元・木庵・即非の3人のことです。

また、今回の作品については、下記の一文が付記されていました。

萬福寺の住持は、開山の隠元隆琦から21世大成照漢まで、120年余りにわたり、ほとんどを渡来僧が務めました。歴代の住持を主とする黄檗流の書は、唐様の流行に大きな影響を与えました。本作は隠元を筆頭に、3世慧林性機、4世独湛性瑩ら高弟の書が合装されます。

解説パネルより

萬福寺第1世・隠元隆琦


萬福寺第3世・慧林性機「圓」

忽然権著
自家広始
信圓明亘
古今
仏日慧林書

摂津国麻田藩(現在の池田市)の仏日寺の第2代

萬福寺第5代・高泉性潡「國」

法苑高泉道人

萬福寺第4代・獨湛性瑩

寳林寺、上野・鳳陽山国瑞寺

◉観自性汐◉乃
画離伊茶臭◉
◉◉同其分
◉◉◉将此
口◉◉◉
獨湛性瑩

不明

不明

林自古能
春色

黄檗山第34代・瑞雲悟芳

右上の朱文には「臨済正宗三十四世」と記されていますね。当時は「黄檗宗」ではなく「臨済正宗」と言っていたようなのですが…隠元さんが、「臨済正宗三十二世」あたりだったようなので、この朱印は黄檗山第34代という意味ではないのかもしれません。

不明

不明

不明

竹 楊夜?聴雨座?窟晴?看雪眠

南源性派

以下不明

以上、誰が記したのか、何が記されているのか、ほとんど不明のままですが、noteしておきます。

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