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与謝蕪村の良さを探ってみた……正直分からないので……

先日、司馬遼太郎の『天明の絵師』を読んで、呉春と、その師である与謝蕪村を勝手に身近に感じています。

東京国立博物館東博=トーハクでも、与謝蕪村『山野行楽図屏風」というのを、いつだかに眺める機会に恵まれました。ただ、私には与謝蕪村の良さを理解できず、「高名な与謝蕪村の良さは、どこにあるんだろう」と、絵を前にしてぼうっと眺めていたのを思い出します。解説パネルには以下のようなことが記されていたはずです。

「向かって右隻うせきに、空に月の残る明け方の山野を三人の旅人が馬の背に揺られて進む様子を、左隻させきに、四人の老いた高士が童僕の手を借りながら、陽光のまぶしい谷川を越え、急な山道を登る様子をそれぞれユーモラスに描いている。簡略な筆致で描かれた俳趣あふれる画面である。」(『e國寶』解説より

もう一度、撮っておいた写真で見てみます。

与謝蕪村『山野行楽図屏風』右隻うせき
右隻うせき(部分)
右隻うせき(部分)

解説には「ユーモラスに描いている」とされていますが、この馬に横乗りしている人の表情は、たしかになにか楽しそうで、ユーモラスとも言える気がします。ほのぼのとした印象を受けますね。

与謝蕪村『山野行楽図屏風』左隻させき

左側の屏風については、なんとなく夜逃げでもしているのか、戦乱から逃れようとしている人々……というイメージがありました。右側の右隻と対象的で、悲壮感というか、たいへんそうだなあ……と。

本当に『行楽図』なんだろうか? とか、「行楽」という言葉の意味あいが、現在とは異なるのかな? なんて思ったりしました。

謝春星しゃしゅんせい

落款らっかんを確認すると、「謝春星書」とあります。私はずっと、与謝蕪村が号(ペンネーム)だと思っていたのですが、絵に記す号は違うんですね。蕪村は俳号で、画号はこの謝春星などを使っていたとのこと。コトバンクによれば次のようにあります。

「与謝(よさ/よざ)氏を称するのは丹後(たんご)から帰洛(きらく)以後のこと。俳号は初め宰町(さいちょう)・宰鳥、蕪村号の初出は寛保(かんぽう)4年(1744)『歳旦帖(さいたんちょう)』からである。代表的画号は謝長庚(しゃちょうこう)、謝春星(しゃしゅんせい)、1778年(安永7)以後は謝寅(しゃいん)。」

与謝蕪村は、大の松尾芭蕉ファンとして知られています。今で言うところの「聖地巡礼」のようなことをして、自身もよく旅へ出かけていまし、司馬遼太郎『天明の絵師』の中では、弟子の呉春ごしゅんにも旅へ出ることを勧めています(もちろん小説ですけどね)。また、与謝蕪村が松尾芭蕉の記した「奥の細道」を書き写した「奥の細道図巻」が、最近京都で見つかって話題となっていますね。

与謝蕪村「奥の細道図巻」(部分)(e國寶より

芭蕉が逗留したことがあるという京都の金福寺には、弟子たちと一緒に「芭蕉庵」を作ったそうです。同寺に墓があるのは、本人の希望だったのか、呉春などの弟子たちが、気を利かせて金福寺に立てたのでしょうか。

司馬遼太郎『天明の絵師』によれば、俳句では食べていけないので、絵を描くことで糊口をしのいだといった様子で描かれていました。たしかに俳人として評価が確立したのは、亡くなってから百年以上後のこと。明治期の正岡子規『俳人蕪村』などによって、再評価されるようになったようです。

与謝蕪村「奥の細道図巻」(部分)(e國寶より)
与謝蕪村「奥の細道図巻」(部分)(e國寶より)
与謝蕪村「奥の細道図巻」(部分)(e國寶より)
与謝蕪村「奥の細道図巻」(部分)(e國寶より)

解説などでは、与謝蕪村は、池大雅とともに南画を大成させたと書かれていることがありますが……。正直、こういうテイストの方が好きです。

与謝蕪村の絵の良さを理解したいと思って書きはじめましたが、まだ私には難しいようでした。それでも、もう少し歳を重ねたら、心にじわじわと入り込んでくるような、そんな良さを感じられるような気がしました。

<参照したい資料 2024年6月17日追記>
特集展示 新発見!蕪村の「奥の細道図巻」


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