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【上野公園ガイド】江戸時代の寛永寺の雰囲気が感じられる、ひっそりと佇む両大師堂

正月の3日だったでしょうか。午後から家族で出かける予定だったので、午前中だけ自由時間をもらいました。その間に東京国立博物館トーハクへ初もうでへ行こうと思い立ち、家を飛び出したのですが、展示を見て回ったあとにトーハクを出ると、雨がしとしとと降っていました。

そんな、濡れて帰らなきゃという状態だったのに、立ち寄ったのがトーハクの並びにある、寛永寺の輪王寺の両大師堂でした。正月っていうこともあって、なにか感じるものがあったんでしょうね……。

以前も立ち寄ったことはあるのですが……。現在の寛永寺は「ここが中心だよ!」という場所が、よく分かりません……なんてことを言うと、トーハクを中心にして反対側にある根本中堂なんでしょうけどね……どうもね。

さて、両大師堂について。このお堂は、「東叡山寛永寺の輪王寺の両大師堂」という位置づけのようです。この東叡山寛永寺の輪王寺というのが、またややこしく……寛永寺のサイトには「現在の輪王寺は、東叡山の開山、天海大僧正を祀る開山堂と同じ境内に在り、〜(中略)〜、一般には両大師として知られている」と記されています。

「両大師」というくらいだから、誰か2人を祀っているのですが、その一人は徳川家康のブレーンの一人である|天海《てんかい》大僧正だいそうじょうです。会津出身で、比叡山などで天台宗を学び、足利学校で儒教と禅宗を修めたとされているので、僧侶でありつつ戦略家であり軍師でもあったのでしょう。また東叡山を開山する際には、都市設計プランナーというかプロデューサーといった役割を担いました。

祀られているもう一人が、その天海てんかい|さんが尊崇……尊敬していた、|良源《りょうげん》さんです。

|天海《てんかい》さんは|慈眼大師《じげんだいし》と呼ばれるようになり、|良源《りょうげん》さんは|慈恵大師《じえだいし》と呼ばれるようになります。ちなみに全国には、それぞれ有名な大師たいしさんがいるものだし、例えば真言宗のお寺の境内にはよく大師堂たいしどうがありますが、その場合の大師たいしは、|弘法大師《こうぼうだいし》空海さんのことですよね。

もともとは、上写真の門の左側に架かっているように「開山堂」なのだそうです。これは、東叡山を開山した慈眼大師じげんだいし天海さんだけを祀っていたわけです。それが少し経った後(江戸期)に、寛永寺の本坊内に祀られていた慈恵大師の良源さんの像を、なぜか開山堂に移すことにありました。それで、現在のように「両大師堂」と呼ばれるようになったそうです。

天保5-7(1834-1836)に出版された『江戸名所図会 7巻』をみると、左上の端っこの方に、この開山堂が描かれています。

『江戸名所図会 7巻』(画像:国立国会図書館)

↑ 左ページの一番上の見切れているのが、現在の両大師堂であり開山堂です。「慈眼堂」と記されているので、この頃はまだ|慈眼大師《じげんだいし》の天海さんしか、祀られていなかったのでしょう。

個人的に意外だったのは、このお堂は、江戸時代から同じ場所にあったということです。江戸時代から変わらない場所に、今も建っている……というのは、この東叡山……というか上野の山では珍しいことです。

そして上の写真の左上を拡大したのが、下の写真です。この絵を見る限りは、境内にある建物の様子も現代と全く同じです。とにかく寛永寺は、彰義隊と薩長との上野戦争で、全焼してしまったと思っていましたが……。

『江戸名所図会 7巻(部分)』(画像:国立国会図書館)

そうして元文2年(1737年)に建てられた両大師堂は、上野戦争や関東大震災、太平洋戦争もくぐり抜けたようです。

そうだったのですが、平成元年(1989年)の9月4日の午前3時頃、本堂から出火して、本堂とは廊下でつながっている本堂北側にある奥ノ院までが全焼してしまったそうです。この火事で奥ノ院に安置されていた東京都指定有形文化財の「木造天海僧正坐像」も焼失……。現在の建物は、なんとなく古い印象がありましたが、その後に再建されたもの……ということのようです。

門の屋根の垂木の先端には、二引両ふたつひきりょうの紋があしらえてあります。当然、他の寛永寺の寺社と同じように、徳川家の葵の紋があると思っていたので、不思議に思いました。なんで二引両なんだろう? って。

門から本堂までの道を歩くと、左側に手洗い場……手水ちょうずがありました。そこにも、|二引両《ふたつひきりょう》紋と、それに輪宝紋があしらわれています。

この家紋に関しては、調べてみるとネット上には、色々と検証している方がいらっしゃいます。例えば|二引両《ふたつひきりょう》を使っているということは、天海僧正は足利氏に関連する人なのでは? というのが代表例です。

一方の輪宝紋に関しては、仏教由来のものなので、寺社でよく使われている紋。天海僧正が、僧侶としてある程度ランクアップした際に、紋を決める際に、「わしは、これに決めた!」と、いった感じで決めたのか……もしくは、師匠筋に授けられたとか……そういう感じではないでしょうか。

でも、|二引両《ふたつひきりょう》についてもね……全国には足利氏の末裔は、たくさんいるんですよね。なにせ覇者の一族ですから。さらに一族ではなかったとしても、足利氏から下賜される例も多かったはずです。そのため、メインの家紋としては使っていなくても、サブの紋として多用していた戦国武将も少なくありません。

可能性としては……ですけれども、天海僧正が二引両ふたつひきりょうを使っていたのにも、それほど意味があるわけではないのでは? と、わたしなどは思ってしまいます。「たしか、わしの家は足利一門だと聞いているから、二引両ふたつひきりょうにしよう!」という感じだったのかもなと。

ちなみに二引両ふたつひきりょうを使っていた主な家として、Wikipediaは、細川氏、斯波氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、喜連川氏、石橋氏、一色氏などの足利一門を挙げています。いずれも戦国時代の初期、細川氏、吉良氏(高家旗本)や喜連川氏(大名格)については、江戸時代にも存続していました。

静かな境内を本堂に向かって歩いていくと、まだ1月2日(だったかな?)なのに、もう梅が咲きはじめていました。こうした寺院の植木を見ていると、剪定が丁寧だなぁといつも見惚れてしまいます。

こちらが両大師堂の本堂正面です。「どうぞ中に入って参拝してください」と言ったようなことが張り紙されていました。お寺って、本堂に入ってよいものなのかどうか迷ってしまうので、こうやって書いておいてもらえると助かります。それで中に入って、靴を脱いで、線香をあげさせていただきました。

庭に戻って、境内を歩いていると「御車返しの桜」という立派な桜があり、その木の側に、解説パネルがありました。その桜の由来は置いておいて……そのパネルに描かれていた「明治期に描かれた境内」の様子を見てみました。

やはり境内の様子は一見、明治期と変わらないようです。あえて言えば、植栽が少し異なるのかなと。例えば、先ほど見た梅の木は、明治期にはなかったのか……もしくは、どこかに小さく描かれているのかもしれません。「御車返しの桜」も、今のように樹影が立派ではなさそうです。

一方で、先ほど見た、二引両と輪宝の2つの紋が描かれた手水ちょうずだと思っていたものは、大きな松の木の正面に配置されています。この松の木が、銘木として在ったのかもしれません。

両大師堂の本堂をアップしてみると、本堂の裏に廊下でつながった奥の院があります。まるで権現造りの神社の、拝殿と本殿の関係のようです。とはいえ、奥の院はしっかりと仏教様式とでもいうような設計になっています。こちらの奥の院の近くには、現在も行くことができず……一般には観られません。

その「御車返しの桜」の近くに、隣の「輪王殿」へと続く小さな門があります。

作家として有名な幸田露伴の旧宅の門だということです。

解説パネルには「谷中にあったものを移築したものである。瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造で、明治期のしもた屋 (仕舞屋) の風情をよくとどめている」と記されています。

露伴は下谷生まれで……とあります。下谷と言っても、三枚橋横町ということなので、今で言えばアメ横の御徒町おかちまち寄りのあたりですね。

解説パネルは続けて「代表作『五重塔』 (1893) の主人公 『のっそり十兵衛』 は、現寛永寺根本中堂を手がけた大工の棟梁をモデルにしたものだといわれている」とあります。現在の寛永寺の根本中堂は、川越喜多院の本地堂を移築したものなので、それを手掛けた棟梁とは……移築の時の棟梁ということでしょうかね。今度『五重塔』を読んでみたいと思います。

その幸田露伴の旧宅の門をくぐって、「輪王殿」の敷地に入ってみました。毎回思うのですが、ここって、入って良いのかどうか分かりませんw でも、ダメとも書いてないので……くぐってみました。どうしても近くから観たいものがあるので……。

露伴の門をくぐって、両大師堂を真横から観てみました。なんとなく「小さなお寺」というイメージでしたが、こうしてみると、結構な結構ですね。

そして、わたしが近くから観たかったのは、こちらの真っ黒の門です。こちらは、江戸時代の寛永寺の様子を残す、かつてのかいせ寛永寺本坊の表門です。

前述したとおり、寛永寺関連の建物は、明治初年の上野戦争の時に、ほとんどが焼失してしまいました。そうした中で、今でも応じを偲べるのは、三ノ輪の方に移築された大きくない黒門と、上野東照宮関連の建物、清水観音堂、不忍池の弁天堂、頭部のみとなった上野大仏など多くありません。

解説パネルには「旧寛永寺本坊の表門」とあり、これが、もともと輪王寺宮(皇族からお坊さんになられた、東映山寛永寺や比叡山、日光山などのトップ)が住まわれていた「本坊」の表門だったことが分かります。

つまりは、現在の東京国立博物トーハクの門がある場所に、この黒くて大きな門があったということ。明治11年に、帝国博物館が開館した時には、そのまま博物館の正門となり、そのまま関東大震災(1923年)の時まで使われ、その後に横へスライドして、現在地に移築されました。

江戸の切絵図で見ると、下図のとおりです。

門自体は、寛永年間(1624〜1644年)に作られ、現在は重要文化財に指定されています。

皇族出身の輪王寺宮が住まわれていた本坊の表門ということで、門のあちこちには、これでもか! というくらいに菊の御紋が配置されています。それにしても朱色? の菊紋を見るのは初めてかもしれません。

門扉のあちこちに、ポコポコと穴が空いていますが、これは上野戦争時の銃痕だということです。まさか本坊に彰義隊が立て籠もっていたんですかね……。それを追う薩長軍があけた穴……。

などと幕末明治に思いをはせつつ、門を見て回りました。雨が降っていたこともあって、誰もいません。

旧本坊表門から両大師堂を見ると、やはりひっそりとした佇まいです。

この旧表門から敷地の外へ出ることは、今はできません。それでまた両大師堂へ戻って、庭を巡ってみましたが……今回のnoteも長くなりすぎたので、ここからは写真だけを残しておきます。

両大師堂の左脇には「輪王寺宮墓」と書かれた碑が立っていますが、この小さな門の先にあるのか……それとも既に、どこかほかの場所へ移されているのかもしれません。

下写真は、両大師堂の門を入って右側にある阿弥陀堂です。

阿弥陀如来、虚空蔵菩薩、地蔵菩薩の三尊が祀られています。

阿弥陀堂の中には、鐘が置いてありました。かつて使っていたものでしょうかね。

雨が降っていたこともあり、参拝する人も少なく、静かな雰囲気でした。まぁ雨が降っていなくても、入る人の少ない寺です。また桜の季節にでもお参りしに来たいと思いました。

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