健康に幸せに5億年生きてくれ

「ーーちゃん死んじゃったぁ……」
そう悲痛な声で電話がきたのは黒い雨雲から
湿度をまとった雨が降る午前中のことだった。
電話の向こうは二十数年一緒にいるが泣いたところを見たことがない幼馴染だった。

その彼女が泣いている。
その彼女が泣いているのに私は何も言えなかった。

ーーちゃん。
ーーちゃんは幼馴染の犬で
私の母親の元職場で生まれた犬だ。
おそらくだが私が「お母さんの働いてるところで子犬が生まれたんだ〜。ちっちゃくてかわいい」みたいな話をしたのだろう。
幼馴染と私と私の母で母の職場まで犬を見に行ったのは覚えている。

幼馴染は迷いながらも一匹を選んだ。
小学生の私達の腕に収まる大きさのふわふわした毛玉だった。
毛玉こと子犬は毎日毎日大きくなっていき、
1年後には私達を抜いて大人になった。

犬は子犬の時からだがマイペースだった。
帰り道に私達が見えると尻尾を振ってるのが見えて、幼馴染の家に着くとドンッ!と嬉しくて体当たりしてくる。

秋に履いていったブーツを振り回して穴だらけのおもちゃにされた時には「あ~っ!」と叫んだが私が大きな声をあげたので犬はシュンとしてたように思う。

犬は散歩がとても楽しいのか
人間は歩き疲れても犬はとても元気だった。

中学生になると帰る時間が違うので幼馴染とは帰ることは少なくなり必然的に犬と会う回数も減っていった。
帰り道ではあるので通るが少し撫でて帰るぐらいになっていた。

その先の進路も違うが幼馴染とは定期的に連絡は取っていて社会人になってからも続いていた。
幼馴染から送られてくる犬は年齢を重ねたが長距離の散歩に行ったりと元気で安心した。

少し前だったかと思う。犬が病に倒れたのは。
幼馴染から送られてくる犬はひたすら前向きに病と戦っていたし幼馴染の家族も歩けなくなった犬のために犬用の車椅子を準備するなどしていた。

そして、それは突然のことで
犬は静かに眠るように亡くなった。
あまりにも静かに眠るように亡くなったので
最初は気づかれてなかったほどだった。
「さっきから動かない」と抱っこしてた幼馴染の家族が口にしてえっ?ってなったほど静かに旅立った。

亡くなったと知らせを受けて幼馴染と泣きながら電話をしたが未だに実感はないし、この文章を打ってる現在、亡くなってから少し経ったが何なら泣いてる。鼻も詰まってるしTシャツの袖はびしょびしょだ。Tシャツの袖で拭うなという話だが。

火葬が終わった後の「色んな物からーーちゃんの匂いがするのにもう触れないんだなって思ったら」と幼馴染の悲痛な声が耳から離れない。

写真や動画は残るけど
持ち主を失った匂いは少しずつ薄れていく。
犬の匂いをギュッと瓶に詰めてずっと嗅ぐことができたらいいのに。

太宰治の『思案の敗北』に
"君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。"という文章があるがあれほど的確な言葉はない。

ふわふわのお耳に何でもお見通しと言わんばかりの透き通った瞳、体の割に小さな足、少し長毛の尻尾。いずれも忘れたくない。

足早に隣を駆け抜けて行くのは本当に寂しいから
あらゆるペットたちよ、健康に幸せに5億年生きてくれ。


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